第1話

文字数 1,832文字

 仕事終わりのくたびれた体で、満員電車に乗り込む。意識が遠くなりそうになる自分に鞭をうち、乗り過ごさないようになんとか目を開け、今朝交わした娘の優子との会話を思い出す。
 「私、文系に進むことに決めた。看護学部なら文系科目でも大丈夫だし、将来は助産師になりたいんだ。」
 いつまでも子供だと思っていた娘は、もう自分の将来を自分自身で決められるようになっていた。それも、妻と同じ助産師になりたいと考えている。妻である由佳の職業は助産師だった。出産という命の誕生を支えることに、彼女は真剣に向き合っていた。そんな妻が誇らしく、何事も責任感を持つ彼女に、俺は頼りきりだった。
 そんな由佳は、分娩時に羊水塞栓症を発症し、優子を出産した日に亡くなった。生まれてくる子供と、愛する妻のためならなんでもする。そう決めていたのに、何もできなかった。絶望し、涙も枯れてしまっていた俺のそばで、生まれたばかりの優子は泣きじゃくっていた。そんな優子を見て、俺は由佳の言葉を思い出した。
 「赤ちゃんてね、すごいのよ。泣くときなんて、顔を真っ赤にして全力で泣く。死んじゃうんじゃないかっていうぐらいの必死さなの。だから、私も真剣に赤ちゃんに寄り添うの。どこが嫌なの、何をしてほしいの、って。」
 恐る恐る優子を抱きかかえ、顔を覗き込む。この世の終わりのように、優子は泣き叫んでいた。妻が真剣に守ってきた命を、娘を、俺が守っていかなければと決意した。
  それからは怒涛の日々だった。慣れない家事と育児と仕事の両立。同僚の冷たい視線を横目に早上がりしていたことのストレスもあったのか、優子の反抗期には腹が立ってしまい、怒鳴ってしまったこともあった。優子の誕生日は成長がうれしい反面妻の死を思い出してしまい、優子が寝付いてから、酒を飲みながら涙を流すこともあった。それもあって、毎年誕生日が来るころは複雑な感情になっていた。優子には妻が亡くなった経緯を、まだ詳しくは話していない。自身の誕生の裏に、母の死があることを受け入れられないのではないか、幼い子供の心が壊れてしまうことが、怖くて仕方なかった。
 
 自宅の最寄り駅に到着し、電車の扉が開く。混みあっている乗客をかき分けながら、なんとか降りることができた。駅の改札をくぐり、帰路につく。満員電車で掻いた汗も乾かないほどの梅雨の蒸し暑さと、まだ降っている雨のせいか、足がいつもより重く感じた。
 雨を見て、お気に入りの傘をさしている幼稚園時代の優子を思い出した。そういえば、よく晴れた暑い日には、優子に「来るな」と言われた体育祭を隠れて見に行ったことを思い出している。どんな天気でも、どんな景色でも、由佳のことを思い出すことが多かった。それが今では、優子との思い出が浮かぶが多くなっていた。優子は大きくなるにつれ、どんどんと由佳に似てきている。人に優しいところはもちろん、自分のことは自分で決める芯の強さも似てきていた。最近は友達と遊ぶことも増えており、俺の知らない優子の一面もあるだろうな、と感じることもあった。
 近所のケーキ屋の扉を開け、ケーキを予約していたことを店員に伝える。ここのケーキ屋は、優子が生まれた年にできた。そのことを優子に伝えると気に入ったのか、いつもお祝いのときはここのケーキをねだってきた。
「メッセージにお間違いないでしょうか。」
店員が尋ねてくる。チョコレートケーキの上に乗ったホワイトチョコのプレートには、「優子、誕生日おめでとう」と書かれている。大丈夫です、と答えると店員は
 「いつもありがとうございます。」
 と慣れた手つきで梱包を済まし、ケーキを渡した。

 まだ16歳だと思っていた。しかし優子は、もう16歳だった。成長し、大人になってきている。母と同じ助産師になりたいと話す彼女の顔を見たとき、由佳の思いや愛情は、確かに彼女の中で育まれてきたんだと感じた。
 
 優子には、由佳がついている。なら、大丈夫だ。俺も父親になって16年。ここが決断の時だ。
 
 ケーキ屋の扉を開けて外に出ると、雨が上がり、雲の間から月明かりが出ていた。雨が降った後の匂いが、由佳は大好きだった。ケーキの入った袋を握りしめ、家への道を歩き始める。雨上がりのひんやりとした風が、匂いをのせて俺の背中を押す。家の扉を開けると、リビングに優子の姿が見えた。おかえり、と言いながら洗い物をする優子にケーキの入った袋を見せる。

 「優子、16歳の誕生日おめでとう。」

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