黒い背中

文字数 1,853文字

窓の外は既に夜景になったビル群ばかりだ。
オフィスの中には帰りそびれた二人だけだったが、一人は離脱する間際になった。
「居残りは俺か」
長井はキーボードから手を降ろし、椅子に座ったまま背中を後ろにそらして伸ばした。
目蓋を閉じて、乾いた目を少し休めていると、音がして机の上に何かが置かれたのを知った。
天井を向いたまま目蓋を開けるとすぐ横に同僚が立っているのが分かった。
「後ろにひっくり返らないように」
同僚に言われてからまっすぐ座り直すと、デスクにカップのコーヒーが置かれていた。
「悪いけどこちらは変える。終電を逃すとちょっときつい。これで勘弁してくれ」
「ああ、お疲れちゃん……こっちはもうしばらくかかるから、ま、タクシーで帰ることになりそうだ」カップを手に取り口に運んでほんのりと唇を焼く熱さを含んだ。
「ここに泊まってみるのはどうだ、案外とアレに出くわせるんじゃないか」同僚が意味ありげにニヤつきながら言う。
「アレ。アレねぇ……」長井はコーヒーを含みながら考え、逆に聞いた。「本当に見たヤツっているの?又聞きばかりで尾鰭がついて」
「今いる社員にはいない筈だ。定年する前後の人たちの頃の噂としては定番だったみたいだけど」
「何でオフィスビルの中でペンギンが現れるのか、それが分からない」
「オカルトや怪談じゃあ因縁や因果が説明される時もあるけど、現実なんてそんなものでしょう。ビルの建つ前にここに動物園があったとか、そんなところだろう、理由は」
「いや、無いだろう。まことしやかに嘘をつくんじゃない」
「ははは」笑いながら同僚は自分のバッグを手に持った。「ま、根を詰めないで区切りのいいところで撤収しなよ。ペンギンの幽霊の目撃談はほとんど噂だろうけれど、昔、深夜の間にどこかのフロアーで残業してた社員が自殺したらしい事件は実際にあったからな、仕事よりも自分の人生を大事に」
「最後に憂鬱な話題、どうもありがとう……とっとと帰れ」
「ああ、おやすみ」同僚が一声かけると、長井は片手を上げて返事にして再びPCの作業に戻った。

一時間ほど資料の作成を続け、脇に置いていたカップを手に取るとすっかりと冷たくなっている。
ガタン、とフロアーのどこかで音がした。
何かの機械や配管からの音なのか。
一人きりの深夜の音は、わかっていても気持ち良いものじゃない。
冷えたコーヒーの残りを飲み切ると、空のカップを持って椅子を立った。
部屋を出てフロアーの端にある休憩スペースに向かった。
基本の照明の落ちた暗い廊下の先に、ベンチと飲料の自販機コーナーが据え付けられていた。
ゴミ箱に空にしたカップを投じてから、ベンダーマシーンの前に立ちを並んだ表示を見た。
ミルク・砂糖抜きのホットコーヒーを選ぶと、抽出が始まり同時に機械正面のディスプレイにイメージ動画が始まった。
コーヒーが落ち切るまでの手持ち無沙汰に画面を見ていると、画面外の透明なアクリル部分にチラリと動きが見えた気がした。
背後で何かが動いた……振り返ると暗い廊下があるだけで誰もいない、当たり前だ。
じっと見ても何も現れない……今度は機械の方が小さく音楽を流した。
動画は流れきり「さあどうぞ」という最後の言葉があるだけだった。
カップを取り出し備え付けのプラの蓋を被せると、熱い一杯を両手で持ちながらオフィスに戻った。
開け放っていたドアに入り、閉じようとしたけれど両手で持った熱いカップを放せない。
肘で閉じようか……と思ったけれども、一度どこかに置いてからにした方が安全だろう、面倒臭いが。
「閉まれ」
何気なく口にした言葉に、まるで従うかのようにドアが閉まった。
しばらくカップを持ったまま凍っていた。
このフロアーにはもう、自分以外はいない筈だ。
いつの間に自分に念力が備わった?
いや違う、これは。
長井はドアの方を振り向いた。
ドアの傍に奇妙なものが見えた。
プロジェクターで映写された画像のように、実態のない質感らしかった。
高さは大人の胸の下くらいでどうやらこちらに背を向けているようだ。
「……ありがとう」
長井は思わず、間抜けにもお礼を口にしてしまった。
前屈みにうなだれている。
長井はペンギンだな、と思った。
しかしよく見ると違っている、それは燕尾服だ。
大人の着るものを子供が着てしまったかのように、背中の裾が床にまで垂れてしまっている。
じっと見ていると黒い影がゆっくりと振り向いた。
長井には今、はっきりと見えた。
子供ではなく老人、だがその影は顔が抉られて腰から下が欠損していた。
——彼は声をかけるべきではなかったのだ。
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