第1話

文字数 24,768文字

   魔線路  ~魔物の通る道~
                          工藤不羅
  

 この一年で電車に係わる変な女性に続いて遭遇していた。そもそも天王寺を基点とする阪和線は毎月のように人身事故とかが多い線である。東京で言えば中央線のような位置づけではないか。いや、頻度から言うともっと多いのではないか。今は僕も年金暮らしになったので、月に数回しか阪和線には乗らないのだが、それでも月に一度ぐらいは当たりを引く。これが宝くじなら喜ぶのであるが……。社員として毎日通勤していた時は月に2から3回はトラブルで電車は止まっていた気がする。過去一部に高架工事をしていたので人身事故のほうは減ると思っていたが、相変わらず多発しているようだ。もしかするとこれは風水の関係かもしれない。退職して香港に旅行に行った時、ビルに大きな風穴が開いているので驚いて聞いてみると、風水の関係で開けていると言っていた。「風の通り道、風に乗って龍が通り抜けていきますよ」ぶったまげた説明であったが、信じている人や国にとっては当たり前のことかもしれない。阪和線も何かの通り道に位置し、祟られているのではないかという気がしていたのだ。

  電車女

 電車に座ってぼうっとしていた。もう直ぐ天王寺、平日の午前8時である。
「あなたは……だから……である」突然の声。
 僕は、えっ、と思う。
 誰かの言葉が、生身で僕の心に聞こえてきたのである。僕は、周りを見回したが、声の発信者は、電車の中には見当たらないようであった。
 確かに、僕は、誰に何を言われたのだろうと、その時は考えていたのだが、後で考えてみると、本当は、何を言われたかは、心の底では理解していたかも知れない。僕の心の奥底でじくじくとしたものが動きまわっていたからだ。
 その女は、いつの間にか電車の連結部分に当然のように居たのだ。たまたま、中年の女の人が、前の車両に行こうとして判明したのだ。
 その人が、扉を開けると、
「いらっしゃいませ。坐るところもありませんが、御入りくださあ~い」と、女は言うのである。
 中年の女は、
「いや、いや、私は前の電車に行きたいんで、通りたいだけなんよ」と。
「そうですかあ~、では、ではお通り、お通り、通ると戻れませぇ~ん」と、電車女は荷物を持った体を横に向けるのであった。そして、中年女が行ってしまうと、
「お茶も出しませんで、失礼しました~あ、車内は込み合っておりまあ~す」と言って、扉が閉まると、逆方向の正面に向き直るのであった。
 彼女は、左肩から斜めに布のバックを掛けていた。また、左手には、紙袋を持って、そのまま連結部分で揺れながら立っているのである。あくまで、正面のどこか遠くを見ながら……。女子専用車両でもないのに、彼女は連結部分を明らかに占領していた。
 僕の座っている席からは、連結部分の様子は、暗くてよく見えないが、スタイルはすらっとして良いし、未だ30代前半のようであった。よく透き通るような声、それに顔はちらっと見ただけであったが、目が印象的であった。
 電車が終点の天王寺に着くと、彼女は連結部分の彼女の空間から初めて出てくる。化粧は全然していないし、地味な服装だが、少しでも化粧をすると、すごい美人になるのではないか、と思わせるものがあった。
 でも、何かが、彼女の内面の何かが、日常のものと違っている気がする。
 彼女は、いわば日常の中に、つまり現実の世界に生きていないのだ。彼女の世界で、彼女の心から生まれた世界の中でしか行動していないように思えた。
 そして、彼女は連結部分から出て、
「電車を降りたら、電車に乗る前と同じになる~う」という謎の言葉を残して、電車の開いた扉から、群衆の中へ出ていくのであった。だから、はなから閉じこもって何かテロじみたことをしようという意思はない様であったのだ。言葉は、詩のようであった。あるいは歌のようでもあった。でもそれらはバラバラ死体のように、本来の散文の持つ意味が剥奪され散らかされていた。
 僕は、その言葉の意味が、瞬間解らなかった。他の乗客にとってはそれは記号の断片に過ぎず、とりたてて頭の中で組み立ててみる価値のないものだったのであろうと、想像できた。でも、ぼくにとっては全然違った。彼女のなすこと話すことが、何かの啓示のように考えられたのだ。少し戸惑ってすぐさま彼女の後を追って電車を降りた――僕は、どうして電車に乗る前と同じになるか聞きたかったのだ。その意味が解ると、僕の中の何かが変わるような、あるいは変えられるような、埒もない考えに囚われていたのだ。
 長身の彼女は、右手でバックのゆれを抑えながら、足早に去って行った。僕は続いて追いかけるが、まるで、昔の飛脚のように、ヒタヒタと、群衆の中を走り去って行ってしまった。バックからは少し新聞紙の束が覗いていた。
 僕は、その時、何故か彼女は少し壊れた「家政婦のミタさん」みたいだと思った。僕は人気の連続テレビが終わり、いつ続編が出来るのだろうと、ずっと心待ちにしていたのだった。結局「ミタさん」は始まらないで現在に至っている。そして彼女も結局それ以降見かけることはなかった。僕は今も待ち続けているのだが……。



  さえずり小母さん
                       
 連休中、僕は家でじっとしているのに飽きて、天王寺まで出ることにした。電車の空いた椅子に座っていると、停車するごとに椅子は埋まっていった。
 突然朗々とした声が聞こえてくる。しかし言葉は、はっきりとしているが、意味は繋がらない。最初寝ぼけているせいかと思ったが、そうでもないみたいだ。
 それは向かい側の椅子の左側に座っている中年の女性から発せられていた。
「久松、久松あほやなあー、LD、尾張の殿様、ぬかせないで親戚の子、裁縫できんのあかんなあ。湘南の阪神の20番ミシンも使えんで亀屋旅館の嫁くらいあかんわ。一日で終わり、殿様は20番引き受けて、浴衣縫い合わせる会、LD、ひきょうや――君と踊り明かしたなあ。
 大坂浪速の医学部、茶たて、腕立て諸行無上の武家諸法度、お城の中で佐川さん集団疎開。
 武家の本分武家諸法度、国鉄と貨物列車に日赤、地下鉄地上げして急行止まって、大変やなあ。まあ、外国でもらったお金消えてしもた。同和国家のケア町、ビジネス通り、鴨川飛び込んで京都のお公家さんと対決や」

 周りの人々は、特に反応している様子はない。車内が混んできたので、別々に座った一方が、向かい側の連れに向かってしゃべっている、と思っているのだろうか。でも、しゃべっている内容はどうみてもおかしいのだ。僕は向かい側の席をずっと左から右へと視線を流してみた。右側の金髪の二人の若い女性などは、何か楽しんでいるようにも見えるのだ。餌をもらうひな鳥のように、口をすぼめてから開けていた。しきりにあふれる言葉を咀嚼するように、または、待ち続けるように……。

「武家諸法度、化学式入って宇宙反応、みよちゃん親戚から金引き出して、ドタマかち割られ、おみくじ引いたら天皇家と江戸幕府がけんかする。イギリス、ロシア、フランス、アメリカ、スペインで天王寺は洲本州やあ、満洲国の赤い夕陽は不満やなあ。
 トンカチで家潰しにきょった、大化の改新でないと、学校中、大杉国家に入れ替わる。京都から電話線は良いというから、姓をもらって帰ってくれ、大阪の木下は他者の子は殺しよる。上杉の子は上杉、国村の子はため吉というんや、押されて解放同盟に聞いてみたら、みぞれが落ちたなあ。
 久松、やっぱり浴衣縫ったるわ、三国同盟なあ、ポーランドも来たからなあ、歩いてきたからなあ……京都の舞妓さんはいいなあ、長崎は雨でいいなあ……」

 まだまだ続く気がしたが、電車は天王寺についてしまった。僕はしばらく歩いたところにある喫茶店で、さえずり小母さんの事を思い返していた。忘れないうちにその言葉のメモをとる必要があったからである。すると、後ろで何かがたがたとやっているのだ。僕は集中していたので気に留めなかったが、後ろで何かの作業をしている人が増えて行く。ちらっと後ろを振り返ると、腕に消防○という文字、えっと思った。まさかガス漏れとか? 少し天王寺の中心から離れているからありうるとか? 少しビビリ光線が発射され、席を移ろうとしたが、店員はカウンターの中で何もなかったようにコップを洗っている。カウンターは楕円であり、僕はその端っこにいたのだ。
 やがて四人の制服の男が、一人の男をハンモックのようなタンカーで運び出して行った。あっけに取られて見ていると、付き添いらしい女性が、お騒がせしましてすいませんでした、と笑顔で出て行った。
 僕が来る前におそらく男はトイレで倒れ、戻るのが遅いことを心配した連れに発見されたのであろう。とりあえずスタッフルームに運ばれそこで救助を待ってやすんでいたのではないか。でも、付き添いは何故笑顔で? 切迫した様子には見えなかったのだ。
 昨今何故か日常があわただしい。僕は会社で働いていた空いた時間を有効に使って、幻想の力、創造の力で小説を書きたいと思っているのだが、僕の周りでは電車では電車女に会ったり、本日のようにさえずり小母さんに会ったりするのだ。さらにその上、喫茶店の――。
 僕は日常に変化を求めているわけではない、それに人間観察とか、社会勉強に興味があるタイプではない、ゆったりとした時間の中で僕は夢を紡ぐように、個人的な幻想の布地を織っていきたいのだ。でも、そもそも長い間忘れていたが40年前に僕の性格を決定付ける事件を経験していたのであった。
 40年前の早朝、僕は大学に行くために新今宮のホームに立っていた。その時急に前の男の人がふっと居なくなった。線路に落ちたのであった。僕は最初起こったことが信じられなくて呆然としていたが、電車が来るのである。あわてて線路に下りて男の人を助けようとした。が、一人ではうまく動かせず、助けを求めてホームの人々を見た。そこには普段の出勤前の何食わぬ顔が並んでいたのだ。それまでは僕は僕の平凡な時間を信頼していたのだ。でも、世界の裏側を垣間見てしまったのだ。自分の手は汚したくないという島国根性。そして、長い時間を掛けてそのショックから僕は僕の平凡を取り戻しつつあった。
 しかるに、現実は小説より奇なり、のような事が起こってしまう――いやまてよ、もしかすると僕の小説とかエッセイが現実に影響を与え、現実を不可思議なものへといざなっているのかも知れない。そうだとすれば、僕は普通の小説とか感動するエッセイを書けば、現実もそれに影響を受け、普通の現実に戻るかもしれない。病は気からという。元気なように振舞おう。普通に振舞っていると普通になるかもしれない。今度ためしにラブ・ストーリーでも書いてみようか、とさえその時は安易に思った……結局あまり自信はなかったのだが。


    鳩女
                   
 僕が踏切への坂道を自転車で力を込めてのぼっていると、
「ポア、ポア、トットット」という声が聞こえてきた。(何だろう)踏切までやってきたが生憎遮断機は下りようとしていたのだ。横を見ると声の主はいた。完全武装の防寒着で顔も見えないおばさんか、お姉さんがジャンプしながら、そして両手はまるで鳥が羽ばたくように上下させながら、信じられない奇声を上げて進んでいた。
 彼女の鼻の前で遮断機が下りると、その動きをますます激しくして、
「ポア、ポア、トットット、ポア、ポア、トットット」と叫んでいる――どうやら進行を邪魔されたことを怒っているようである。このままだと踏切を越えて列車の線路に出てしまうのではないかと、幾分興味を持って事態を見守っていたが、幸いそういうことにはならないようだ。その場で地団太を踏むように何回かジャンプすると、後ろに方向を変えて進みだした。まるでロボットが障害物にあたって方向を変えるように反応したのだ。
 実際僕は彼女が電車に轢かれるのではないか、と思って怖いもの見たさでその冬の朝の光景を見ていた。そして、そんな興味本位な自分の心に僕は腹を立て、踏切が上がる気配で僕はさっさと線路を渡ってしまうことに決めた。取り残された彼女のことは少し気にはなったが、所詮他人事と決め込んだのである。
 やがて上がりの電車は通り過ぎ、踏切が上がると同時に僕はペダルを踏み込んで線路を突っ切った。鳩女はどうしているか? と後方を眺めると、再び踏切の方向へとジャンプを続けている所であった。そこへ次の下りの電車が来るのか踏切が再度下り出し、女の眼前で無情にも閉まった。
 鳩女はさらに怒って、
「ポア、ポア、トットット」
「ポア、ポア、トットット」と激しく叫び出した。そしてさらに地団太を踏んで両手を体に打ちつけながら泣き叫ぶのであったが、やがてそれらは何の効果もないと解ると、
「ポアー、ポアー、ポアー」と悲鳴のようにも聞こえてくるような……。絶望と諦めと怒りが込められたような……。
 僕は大空へ消えていこうとしている、そのあまりにも直接的な悲嘆にくれた声を忘れるために、さらにペダルをこぐ足に力を込めた。
 鳩女は僕には無関係な存在なのだ。たとえ彼女がどんなに怒ろうが、それは彼女自身の問題である。それに怒っているとは限らない――あれが喜びの表現ということも、可能性は低いが考えられない事はない。まあ、たぶんに自分でもこじつけだとは思うが。
 それに彼女がこの後電車に轢かれて死んでも、僕には関係のないことではないか? 彼女の親類でもないし、知り合いでもない――無関係な人間なのだ。他人という存在。そう自分に言い聞かせて、自転車を走らせて行った。遠くに彼女の声は未だ聞こえてくる……でも、何故彼女は泣いていたのだろう。踏切に行く手を阻まれ鳴き声は強くなったが、その前から泣いていたのだ。それに彼女は何処へ行こうとしていたのだろう。少女と言うには、防寒具の上からも立派な体格であることが見て取れた。親とはぐれたとは考えにくい。
 己の存在を、無力な自分の存在を世界に対して彼女のやり方で主張していたのだろうか? 僕には関係のない事と思いながら、様々な思念が風を切って走る僕の後ろから追ってくる。

    鳩女後日談
                      
 何かの動物の興奮した声が、夢うつつの中で聞こえている。突然それは鳩の声ではないかと思えてくる。
「ぽっぽっぽ」
「ぽあ、ぽあ、ぽあ」
「ぽろろー、ぽろろー、ぽろろー」
「くわぁ、くわぁ、くわぁ」どうやら複数の鳩が何処かで騒いでいるようだ。でもまるで、耳のそばで騒いでいるような激しさであった。僕は早朝の二時間ばかりのアルバイトを終え、仮眠を取ろうとベットについていた。
 なんだ、鳩の声か「うるさいなあ」誰か飼っているのだろうか? と考えたところで再び夢の中に落ちていったのだ。
 次ぎの日、気がつくとやはり鳩の鳴き声がしていた。どこだろうと、ベランダの扉を開けると、二羽の鳩がベランダの外壁にとまって鳴いていた。僕がベランダに出るとまさに空へ飛び立とうと羽ばたいた。
 鳩が二羽こちらを見て、まるで飛び立つことを決めかねているように僕の様子をうかがっていたのだ。僕はあえて邪魔をしないように部屋の中に戻った。
 次の日も鳩は来た。ベランダでクウクウと鳴いている。そして次の日も……。たまたまママがいて「うちにどうして鳩いるの?」と聞いてきた。僕は妻の事をママと呼んでいるのだ。
「最近は居るようだね」僕は普通に聞こえるように答えていた。ママの反応を知りたかったからだ。
「フンをしているわ。掃除するのが大変なのよ、別に食べ物もないし、おかしいわね」ママはベランダでキョロキョロしている。
「本当……ずっと居たりして、巣を作ってないよね」僕は不安になって尋ねた。
「何もないわよ」ママは糞を始末しながら不機嫌そうに言う。

 僕には思い当たることが一つあった。それは鳩女を見かけて無視してしまったことだ。かかわりになりたくなくて逃げ出してしまったことだ。これは鳩女の祟りではないか、と何となく思ったのだ。それ系の作家がよく心霊現象に出会ったり、見えたりするようではないか。そういう人は別に物語を創りださなくても、超自然の方から呼ばれるのである。不思議な現実そのものの体験談を書けばよいのだ。一瞬僕もある意味そういう幸運な人たちの仲間入りが出来たのかとも思ったのだが。
 ある日僕は珍しく本を読んでいると「大変、大変パパァー」とママが三段跳びの最後のジャンプをしてやってくる所であった。僕は迷惑そうにママをみる。ママは一息ついて、
「あのね、あのね、洗濯バサミが一本もない――鳩にとられた」と大げさに残念がる。最近鳩を見た。そして洗濯バサミがない。それで普通人は鳩が洗濯バサミを盗ったと考えるだろうか? シャーロック・ホームズでもびっくりするのではないか。カラスがキラキラのガラス玉とかに興味を持って集めたりすることは解る。でも鳩に洗濯バサミは結びつくだろうか?
ベランダを出たすぐ左の上のクーラーの備品の上に洗濯バサミ入れの箱はあった。確かにそこには一本もなかった。そしてクーラーの上と言うと……ちょうど四日くらい前に鳩の声でうるさかった時であった。それにママは鳩が洗濯バサミを一本くわえているのを見たという。
 そうか、自分たちの巣を洗濯バサミで作ったのだ。鳩女の呪いではなかったのだ。そうすると、鳩はもう来ないだろう……。
 翌日ママは、また鳩の声がするという。僕はもうベランダを確認しない事にした。確認しないでおくと――少なくとも鳩は居ない事になるのだから。

 僕はこうして当面因果関係の負の連鎖のイメージから逃れている。それがいつまで持つか僕には解らない。でも当面は凌いでいるのである。


* * * * * *

 テレビのワイドショーで見る人間の権力欲、政治に見る傲慢さ、そして身近な日常の中の人間のエゴ、そうしたものにうんざりしていたのかもしれない。それに度重なる親たちの子殺し。世紀末なのだろうか、いや昔から人ってそれだけ利己的で、おぞましい存在だったのかもしれない。現代は情報過多で伝わる量が多いだけで昔から……人間と言うのは理解不能のサイコな存在だったかもしれないのだ。僕はそんな人間とのかかわりに病んでいたのかもしれない。それともある危機的局面で、自分自身がそうしたわけのわからない者に変化していくことを恐れていのかもしれないのだ。何年も続いていた母親の介護に僕の精神は極限まで疲労していたのかもしれない。
 でも、電車女、さえずり小母さん、ハト女は人外の事の様であった。日常の中に超自然の方から、本当の怪異はこういうことなのだ、という回答のようにも思えたので、僕は最初は不覚にもそうした超自然からの誘いに、浮き浮きとした気分でさえあったのである。曇天が晴れ、一瞬青空が現れたように感じてしまったのだ。でも、さらに怪異は続き、暴走することになる。青空と見えたのは台風の眼の様なものであったのだ。 
僕は他次元から来るような超自然の怪異の訪れに、やがておののき、日常生活のバランス感覚さえ失っていった。

* * * * * *

 後から振り返ると、やはりあれは、たたりではないかと思うのだ。鳩女の話だ。昔話でも身なりの貧しい者が一杯の水を求めてある日家を訪れたとする。哀れに思って食事でもてなした家は、その後金運が増し金持ちになる。こういった「まれ人信仰」に根ざした民話は古くから各地にある。村落の外から来る旅人はまれ人であり、閉鎖的な村への新しい見聞の入り口であった。そうした旅人を福をなすものとして歓待する伝説である。反対に汚いと追い返したり、殺して金品を奪ったりすると呪いに見舞われるのだ。ただ我が家の場合は洗濯バサミだけであったが。現実の出来事にこうした功徳とご利益の昔話のルールが影響しているのではないかと考えたのだ。現実が昔話のストーリーをなぞっていく――僕はそうした考えにぞくりとした。
 それに鳩女からしばらくしてあの踏切で不可解なことが――他人にとってはなんでもない事かもしれないのであるが――続くようになってきたのである。たたりは続いているのであろうか? それとも集束しつつあるのだろうか? このまま終わってくれるのだろうかという不安が、季節はずれの霧のように僕にまといつき、僕の視界を……いや心の中の視界を曇らせ、日常の中の僕の位置を時として見失わせるのであった。もしかして……僕は断崖に今立っているのではないか。それとも僕は昔の迷信に囚われた単なる妄想癖の人間に過ぎないのであろうか……。


 ともあれ、とにかく日常の中の変異を記録しておこうと思った。起こったことを客観的な事象として紙に書き連ねていくのだ。そうすることで見えてくる「何か」があるのかもしれない。事実だけをとりあえず、虚心の心で記録し、それから後は僕のそれに対する感想を述べることにしよう。まあ、その感想が、妄想と言われれば否定はできないのだけれど。とにかく、事実だけを時系列にデーターとして――。


  横顔男の怪
                       
ある日、あの鳩女を見た踏み切りで、今度は首が傾いた男の人が歩いているのを見てしまった。僕は自転車を踏み切りの手前からゆっくりとこぎだした。男の人の顔は、真横になって左肩に乗り、両手にコンビニの袋を持っている。そしてさらに顔は少し上を向いている。普通の人なら目が右を向いていることになる。恐らく両手の荷物でバランスをとり、視線は電柱と電線を頼りに歩く位置を決めているのだろう。例えば平行な電線が地平線で結ぶ架空の交点を想像の目印として、とか。足元は見えていないはずである。やがて男は注意深く線路を渡りきり、坂を下っていこうとしていた。交通事故で首が極端に曲がってしまったのだろうか。でもここまでは……。僕はゆっくりと、そしてわざと気がつかないかのように慎重に自転車のペダルをこいでいった。でも、何か避けたようで、祟りでもあるだろうかと、少し不安になった。
 僕には思い当たることが一つあった。それは鳩女を見かけて無視してしまったことだ。かかわりになりたくなくて逃げ出してしまったことだ。これは鳩女の祟りが続いているのではないか、と何となく思ったのだ。時の流れは人に叡智をもたらす。でも恐怖は学習することが出来ない。僕はそう思いながら男の横を通り過ぎた。男の視線は遥か上空を見ていた。空には青空が広がっていた――夏の。その時、まさにその時、ちらりと男の視線が見透かすように下に揺れたような気がした。僕は又何かが動き出しそうな気がして、心の底がざわついた。
 ともあれ、今は僕はビデオカメラからペンを持つことにしたので、どんなに不快なことや、書くのに躊躇することでも基本的にはこうして書いていこうと思っている。事故は気の毒には思うが、見たことや感じたことをそのまま書くのは、僕にとっての義務とさえ思っているのだ。でも、こう事件が続くのは、僕が書くことに対する世界からのメッセージなのであろうか。推理小説、ダジャレだけの小説、ゆるいエッセイ、ライトノベルぽいファンタジー、ホラー小説、食べ物日記、夢の話、こうした書きたいものだけを書いてきた僕に対する世界からのクレームのような気もする。もっと真剣に小説と向き合え、人生の生き方をペンで考えよ、とか。でも、どんなものでも僕は世界の片鱗を僕の世界に閉じ込めた気がするのだが。まあ少し斜めからの取り組みといわれれば、反論の仕様がない。もう少しこれからは気にするようにしよう、と一応考えてみるのだが。

 秋晴れの季節なのに、曇天が続きその日も雨が降っていた。僕はバイト帰りの自転車を走らせていた。こんな日にあの男に遭遇するのは嫌だな、と思っていると、やはり踏み切りのところで左手に傘を差し、右手にコンビニのビニールを持った横顔男に出会ってしまった。雨の中方向を定めにくいのか、時々頭を横の状態から少しでも持ち上げようとしているので、傘が上下に揺れているのである。僕は傘のお化けが首でひょいひょいと手まりを突いているような錯覚に陥り、気分が悪くなって目をそらした。
その夜僕は夢を見た。男は曲芸師のように日本傘をくるくると器用にまわしている。観客の拍手が起こる。でも、上でカタコトと廻っているのは男の首なのだ。首なし男は何かすっきりした様子で曲芸をやっていた。――この夢はどういうことなのだろう。僕には解らない。後味の悪さだけが残った。

また今度は残暑の厳しいある秋の日、僕は暑いので飲むアイスを買って吸いながら自転車をこいでいた。アイスに集中していたせいで気がつかなかったのか、踏み切りのところで帽子を被った横顔男とすれ違った。帽子は当然僕の方にてっぺんを向けていた。つまり真横になっていた。彼が帽子を被るのに、晴天ではあったがどんな効果があるのだろう、とふと思ったのだ。――やはり……だろうか。
そして横顔男が僕の中で日常のことになっていくのに僕は少し安心もしているが、危惧を感じることもある。非日常な現実が次第に繰り返しの時間の中で日常というアリバイを手にしていくのだ。極論すればアジアの、または中東の戦闘地域で、その辺に死体が転がっていても子供すら無関心なように、あるいは終戦直後の日本でも瓦礫の横に死体の山を見ても誰も無関心のように。そうした日常性への繰り返される侵食は少し怖い気がするの
である。 


  魔女男
                      
 朝バイトからの帰りに自転車で家に向かって走っていると、またいやな予感がしてきた。踏切の所で、横顔男と会うかもしれないと思ってしまったのだ。最近はそういえばずっと会っていなかった。もう会わないのではないかとさえ思っていたのかもしれない。日は射さずどんよりした天気で、雲が走っていく。僕の予感もそれにつられ悪い方へ悪い方へと流れていくのである。
 するとむこうからメガネをかけた男性が自転車に乗ってやってきた。顔の真ん中に何故か黒いものがある。そしてそれがだんだん大きくなってくる。ブラックホールだ、僕は思わず心の中で叫んでいた。でも、それは単に男が自転車で近づいてくるだけであった。人が近づいてくるので、顔も当然大きく見えてくるのである。でも、何故顔の真ん中がそんなに黒いのだろう。疑問は通り過ぎる瞬間に解った。鼻が魔女のように尖がっていてしかも黒いのだ。テカテカしているのでビニールで鼻を高く創っているようであった。何故だろう? 鼻を怪我して……それとも何かのおまじない――しかし、こんなふうに円錐形に鼻をとがらして、かえって魔女の様な顔になってしまっているからそちらの方がかっこ悪くないのであろうか? また僕は変なものに遭遇してしまったようだ。新たなる物語の始まりの様な気もするのだが……。鳩女のこともあるし――。
 と、思っていたところ、ホームセンターの前の道路の右側で女性が2、3人立ち話をしていた。僕は自転車を左に切る。すると左からは急に駐輪場から男が自転車を押して僕の前面に飛び出してきて進路を塞いだ。進行方向だけで僕のことは全然見ていない――ベルを鳴らすまもなく僕は左の駐輪場へと大きくハンドルを切ると、そのまま前方に転倒し、自転車から放り出された。何か映画のスローモーションのようなシーン。出来るだけうまく、被害を最小限にとどめるために転んだつもりであったが、左足に少し痛みを感じた。僕は少し腹を立てていて、こうなったら、と少し大儀そうに「いてててて……」とつぶやきしばらくそのまま転がっていた。男を睨んで怒鳴ってやろうとも思ったが、これは一連の定められた不幸のシナリオによるものではないか、という危惧もあったのだ。それで男の反応を見定める必要を感じていた。すると横でだべっていた先ほどの中年の女性の一人が「大丈夫ですかぁー」としきりに心配していた。きっと男の連れであったのだろう、しかし男は呆然と見ているだけであった。僕はいかにも予想外の災難にあったようにビッコを引き、あまつさえ「チェッ」と件の男の無関心を揶揄するように舌を鳴らして再び自転車に乗ってすいすいと漕ぎだとした。女はしきりに怪我の様子を心配していたが、そのまま悠然とまるで何事も無かったように、男の無視を女への無視で返すように立ち去ったのである。
 左足は大した傷ではなかったが消毒はした。それでも少し痛かったのでヨーチンを塗っておいた。ズボンですれると痛いので包帯をした。傷はじゅくじゅくと治らなかったのでさらにその上にヨーチンを塗り足した。するとヨーチンと傷で怪我したところは盛り上がっていった。
 そうこうするうちに「あー、まただ、年かなあ」僕は思わず呟いていた。先月美術館に行ってヘルペスが首に出たばかりなのに、今度は湿疹である。食にあたったのか、自転車で転倒した時の影響なのか解らない。病院に行くと、一診、二診とも予約で一杯なので、地下のローソンでお茶を買う事にした。見ると一診、二診とも女性の先生である。
「上半身だけなんですが、湿疹が出て昨日は痒くてなかなか眠れませんでした」
 先生は首を傾けてた。
僕はズボンの裾を上げて自転車の傷の後も見せた。
「これ薬の塗りすぎで瘡蓋ができてるよネ、ちょっと剥がしますよー」と、ベットに寝かされ、僕の膝の下をゴシゴシこすり始めた。「痛いー」と言おうとしていたのに、何か痛がゆい、というより気持ち良い。気になってベットから顔を上げて足の方を見ると、瘡蓋は綺麗にはがされてツルツルであった。
「あのぅ……包帯とか、バンソコウとかは?」
 若い先生は、まるで診察が終わったようにリラックスしていた。
「あっ、気になるのでしたら、どうぞ、どうぞ」何かこれで終わっている、という雰囲気、湿疹はどうなったのかと思い、
「湿疹は食べ物からなんでしょうか」と僕は空トボケて聞いてみた。
「あっ、そういう事も考えられますネ」あっけらかんと先生は答える。
「飲み薬と塗り薬を出しますので、また2週間後に再診して下さい」
ああ……やっぱり診察は終わっていたのだ。もっと検査とか、アレルギーの調査とか、採血とかを確信していたのに、何もない。これだけですかと、聞くわけにもいかないので、すごすごと病院を後にした。自転車をこぎながら僕は睡眠不足でぼうっとしていた。寝ていないのでぼうっとしながらも、余計な心配を僕の戻ってきた理性はするのである。実は僕は昨日の12時から湿疹を忘れる目的もあるが、リチャード・マシスン原作のSF映画「縮みゆく人間」を見ていた。海で放射能の霧を浴びた男が、半年後殺虫剤の散布で薬を浴び、双方が化学反応して人体が縮んでいく話だ。僕はたまたま中国から来た大気中の黄砂と最近食べた夜食のインスタント食品の添加物が化学反応し、湿疹の原因になっているのではないかと、はたと考えついた。今度2週間後に診察してもらう時に、あの若い先生に教えてあげようと妄想しながら、僕は眠りに落ちていった。眠る寸前に思いついた。あの魔女男の鼻の黒いとんがり帽子も一緒の包帯だと。鼻に怪我をしてヨーチンを塗り足しているうちに傷口が盛り上がって魔女の鼻のようになったのかもしれないし――。


続横顔男の怪

 最近横顔男に会わなかったので、日常の記憶の中で影が薄くなっていたが、今日遭遇してしまった。しかも、やはり踏切の所で、しかも自転車に乗ったあの男とすれ違ったのだ。横顔男が自転車に乗るとは思っても見なかった。フラフラと、自転車に乗って彷徨っていたので、心臓が止まりそうになった。ぶつかるかもしれないと、気がきでなかった。男の方も、こちらに近づくにつれ急にフラフラしだしたので、こちらに気づいて気が動転していたのかもしれない。前の籠に買い物をしたビニールの袋をたくさん入れていたので、どうやら病院の帰りではないようであった。踏切に一番近いのはコンビニだが、あんなに一杯買う事は恐らくない。とすると、堺市駅の方の玉出か泉屋である。個人的には玉出という気がする。いつもは病院の帰りにコンビニと考えていたが、今日は纏め買いの日のようであった。大量の買い物を両手でバランスをとって、長い距離を歩くのは、温かくなってきた五月の日射しでは苦しい。自転車か車が最善の方法であろう。昔から乗れたのであろうか? それとも何らかの事故の後、必要にかられて乗る事を練習したのであろうか。ともあれ僕の周辺でも物事は徐々に変わりつつあった。現実は奇なり――でもそれ以降自転車に乗った横顔男を見ることは無かったのだ。やはりこれは男にとっても冒険だったのだろう。

 小雨が降っている。本当に途切れない6月の雨はうっとおしい。いつものように朝のバイト帰り、僕は自転車をこいでいたが、路面がぬれているので転倒しないように注意していた。やがて左に曲がり、踏切へと登っていく坂に出た。ここが疲れた体にはきつい勾配であった。僕は路面に注意しながらも足に力を込めてペダルを踏み込んでいった。踏切の直前、安心したところに人影が見えた。僕はすぐに自転車のハンドルを右に切って避けた。すると視界を上げた僕は、その人影の先に、黒いレインコートをはおったあの横顔男が、しかも眼鏡をかけているせいかそのギョロリとした片目を真っ先に見てしまったのだ。左に首を傾けていたので、左目はフードに隠れていた。まるで船で沖に出て、目の飛び出た深海の異形の魚に出会ったように驚いたのだ。しかし、横顔男は、両手にスーパーの袋を持ちながらも、ひょこひょことステップを踏むようにうれしそうに僕の横を通り過ぎた。それはなんだかまな板の上の魚が跳ねているようで、違和感を覚えた。それでも、はねながら男は行ってしまったのである。あんなに度の強い眼鏡をかけていると言う事は――今まではあまり見えていなかったのだろう……。疑問はさらに深まっていくのだが。単純に子供が雨が降って喜んでいるようにも見えたのだ。これは長い年月の中にあっての、眼鏡を得たことは男にとって進歩と呼ぶべき事象であり、進化論で考察されるべきことだったのだろうか。らちもない考えにとらわれていく。


  半漁人男

 6月の土曜日、朝のバイトも終わって暑いのでガリガリ君をコンビニで買った。するといつもは64円なのに75円もした。中学生の友のガリガリ君は何処へ行った? と少し哀しくなってしまった。もうすぐ伊勢志摩サミットがあり、阿部総理はその席で消費税増税10%増税を延期すると発表するかもしれない。それでも今のタイミングなら何か重大な事が起きない限り、消費税は必ず上げますと政府は常々言っていたので、ドサクサに紛れて10円押し上げても許されるだろう、と判断した猫もしゃくしもびっくりな高等戦術なのか。そんな考えに囚われながら、口元はしっかりガリガリ君をこぼさないようにバリバリと豪快にかじっていると、自転車はあの魔の踏切の所へとさしかかった。
 と、口をパクパクしたおっちゃんが外股でペタペタと歩いてきた。何か少し変だなぁ……半漁人の様だなあ、と思っていると急に気がついた。服は少しオシャレで決めているのに、何故か裸足なのである。その足でペタペタと海洋生物のように歩いてくる。口をパクパクと見えたのは、タバコをスパスパと怪しげにふかしているからであった。
 この事象にどのような物語が隠されているのか。いや、これは現実かどうかも解らなくなってきた。確かに、水中から陸へ急に上がって息が上がっているのは、タバコのスパスパで隠せるかもしれないし、うろこの体はオシャレな服装で隠せるかもしれない。でも、足は? 水かきのある足は? そうか、未だ変身がうまくいっていないのだ。人魚姫が人間の足に変身したようにはうまく変われていないのだ。それで靴もはけず、少し人間にしては大きな足を、裸足でペタペタと歩かざるを得なかったのだ。僕は納得した。僕の推理力もまんざらではないと思ってしまった。自分でも理屈が滑っていくのは、頭の別の所ではわかっているのだが。
 やはり、この踏切は魔が通る交差点の様なものだろうか? 異形の者が紛れ込む通路の様なものがあるのだろうか。あの初老の口パクの裸足男は半漁人の仮の姿で、伊勢志摩が騒がしいので堺の港へ逃げてきたのであろう。
 

  その後の横顔男

 ガリガリ君シヨックからしばらくして横顔男とであった。スーパーの袋は一つだったので、男は両手の親指に引っかけて袋を持っていた。重心の関係で袋は右側にずれていた。僕は親指に食い込むスーパーのビニール袋が少し気になった。
 最初は衝撃を受けた横顔男であったが、段々と日常の動作の一コマが気になってくる。僕の中で男は日常の生活の一部になっていく。

 あるとき、あの踏切で踏切が上がるのを待っていると、横顔男がめずらしくこちらの踏切の手前を、線路に沿って歩いていたが、バランスが少しおかしかった。顔が左側のどちらかというと後方に向かって曲がっているので、急いでいるらしく右の半身になって、ちょうど歌舞伎役者が花道を片足でとっとっとっ、と歩いていると言うか、自分の体勢にバランスを崩しよろけるように進んでいたのだ――そう、何かに引きずられるように、何かに吸い込まれるように……。それはさすがに興味を引いた。男が花道を行くのは、この物語も終わりに近づいたのであろうか。漠然とした不安が少し軽くなる。

 7月の初旬は未だ梅雨が残っていたが、その日は久しぶりの天気で、汗だくで坂から踏切へ自転車で這い上がってくると、向こうから横顔男がやってきた。電車が通り過ぎ、やがて踏切は跳ねあがった。今日はいつものようにスーパーの袋をちゃんと二つ持っていた。でも、そのままそこに座り込んでしまった。暑くて我慢できなくなったのだろうが、帽子はかぶっていた。でも、相変わらず顔は半分上を向いているので、太陽の日射しに容赦なく曝されている。日が眩しいのではないか、と心配した。この季節サングラスが必要ではないか、と思った。僕の中で横顔男は日常的な風景になってしまった。それは異形ではない普通の風景に――。
 でも、電車女,さえずり小母さんに鳩女、横顔男、魔女男、半漁人男に次々と遭遇したことは、どう考えても信じられず、不思議な現象であった。これは、現実は普通ではない本来は異形のものである、というアイロニー、つまり非現実の世界からのメッセージ。僕達は普通の人物、周辺環境に囲まれて暮らしていると思っているが、本当は日常の一瞬一瞬に魔の瞬間が存在している証ではないか――ただ僕達が見ていても、そう認識していないだけで――。
そう言えばもう9月になったと言うのに異形のものを最近見ない。それに……最近気付いたことがある。道路の両側は銀杏並木が続いているのだが、あの病院から踏み切りに掛けての道だけの銀杏の木の茂り方が半端ではない。病院の手前までは整然ととした並木道なのだが、それ以降の領域に入るとまるでジャングルのように茂っているのだ。緑の化け物だ。まるでそこからは生態系が違うかのように。これは――。

これは――恐怖の植物人間か? と、思った時、やはり僕は少しおかしくなっているのでは、と思い至ってしまった。電車女にさえずり小母さん、鳩女、横顔男、魔女男、半漁人男と続けて遭遇して、世界の認識が狂い始めていることにうっすらと気づき始めた。あれ? 先ほども同じようなことを考えていた。デジャブ? これはどうにかしないといけない……。もっとも単純な方法が解決になるかもしれない。


  夜歩き
                       
 朝のバイトも人手が少なく、月の休みの少ない時もある。そんな時はさすがに体力の衰えを、例え2時間でも感じてしまう。反対に人手が多く、休みの多い日はなおさら日ごろの体力の維持の必要性を思ってしまう。ママ(妻)は昔から友達のお誘いがあると、仕事から帰ったすぐでも夜の9時前後から夜歩きを小一時間一緒にしていた。友達は糖尿病で医者から運動を進められていたのだ。朝からの仕事を終えて直ぐの事もあり、続くのかなと思っていたが、結構小まめにやっていた。但し、帰ってくるとベットにバタンと倒れてしまって、そのまま朝までという場合もあった。それでも僕の昼食と夕食はちゃんと用意されているのだ。僕はせっかく朝のバイトで体重が驚異的に落ちたので、バイトのスケジュールに左右されず体重を今のままで維持したかったので、僕もやってみようかなと言ったのだ。僕は歩くコースだけ聞くつもりであったが。
「じゃあ一緒にあるいてあげようか」仕事を終えテレビを見ていたママは言った。
 僕達はしゃべりながら夜の歩道を歩いて行った。交差点が赤信号でも、車が見えなければそのまま渡るのであった。いちいち交差点で止まっていたら運動にならないからである。
 夜風が少し気持ち良い。会話も弾んだ。
 やがて、外灯のあまりない、病院の前の暗い道にさしかかる。
 向こうから自転車がやってきた。
 僕達は、一列になって歩くことにした。自転車が通り過ぎたと思うと、また次の自転車がやってくる。何故だろう、と考えたが解らなかった。ママは腹立たしそうに呟いた。
「自転車道が傍にあるのにわざわざ歩道を走るし、しかも右側通行」でも逆に左側を、つまり後ろから来られるのは怖い。ママは前に友達と歩いていて、後ろから来た自転車に肩をぶつけられたこともあるようだ。また、違う日には後ろから来た自転車に「二人で歩いたらじゃま」とののしられたそうだ。その時はママはさすがに頭にきて「そっちこそちゃんと自転車道を走りいや」と言い返したそうだ。歩道は結構狭く、人と自転車が並ぶのはやはり少し無理があった。走っている人もおり、その人に後ろから言われるなら未だ理解できるが、暗くて狭い歩道をわざわざ自転車で走るってなんやの、とママは怒っていたのだ。
 僕にも何故夜に自転車が暗い歩道を走りたがるのか、解らなかった。昼間はあんなに交通ルールを守って左の自転車道を走ってるくせに。
 やがて、病院を通り過ぎ左に曲がると歩道は無駄に思えるほど広くなる。少し気分も晴れて、ピッチも早くなった。そして、さらに左に曲がり、堺市駅の手前で左に曲がると左側は刑務所の高い壁がずっと続く。
 中に居る人々を想像する。受刑者はもうベットに寝ているのだろうか、それとも未決囚として悶々たる夜を過ごしているのだろうか。そんな事を考えながら、ヒタヒタと夜の石畳の歩道を歩いていた。帰りにはママにコンビニでマンゴアイスを買ってもらった。子供か!
 こうして僕の夜歩きが始まった。毎日はさすがにきついので、ここは歩いた方が……という日に歩く事にしている。まあ2キロ程度なので、早いと40分程度で歩いてしまう。


魔と思ってしまった事も、夫々に考えれば、日常にある風景になるかもしれない。ただ、あまりにも連続して起こったので異世界への通り道に出くわした、と思い込んでしまっただけなのかもしれない。個々の出来事をとれば、どれも僕のコミニケーション不足能力からきている。本来他人との関わりをあまり好まないので、結局逃げている思いを募らせ、それによってかえって対象にこだわる事になってしまったのだ。個別に見れば普通の人にも起こり得る事象ではなかっただろうか?
 あるいはホラー映画を観すぎたせいで、日常の何でもない事を、そうした類のものとして考え結び付けてしまう心理傾向が、自然と出来上がってしまったのかもしれない。


 その日は少し早く8時半から僕は歩き始めた。火曜日なので10時から波瑠の猟奇捜査班ONを見たかったからだ。
 やはり、歩いていて病院の前の暗い歩道で緊張した。対向して自転車が続けて2台通り過ぎたからだ。それにたまにある外灯が街路樹と電柱の影を道路に、影絵のように斜めに落としていた。自転車はそのまま向こうの方から、影の国から光の国を――と言っても陽炎のように薄明かりの国なのであるが――つまり、現れたり消えたりを繰り返して進んでいるような錯覚に僕は陥っていった。
 夜の自転車道を走ると何かあるのだろうか? 単純に車と近いので怖いと言うだけなのか。むしろそちらの方が明るくて事故に会いにくいと思うのだが。僕にはやはり理解できない事である。それにポケモンGOの影響なのか、夜に出歩いている人が多くなってきた。
 魔とのコミニケーション。例えば鳩女に鳩女さん、と呼んで良かったのだろうか。電車女に、もしもし電車女さんと声をかけたら良かったのであろうか。横顔男に、そう呼べば? 魔女男には? もし、女なら魔女っ子と読んだら駄目なのか? 差別用語になるのだろうか? やはり魔法少女○○ちゃんと呼ばなくてはいけないのか。時にこの世界のルールが解らなくなる時がある。いや、むしろこの世界の常識という名のルールに怒りさえ感じる事もあるのだ。沖縄で自衛隊員が、抵抗する人に対して「この土人」と呼んでいた。そういう言い方は確かに差別というより見識がない。しかし、土人という言葉自体が悪いのだろうか。そうすると、冒険ダン吉とかの昔の本は全然読めないし、復刻もされないのか。幼いころのあの楽しかった物語の時間は無かった事にされるのだろうか。地元の人だから「このジモッチ」とか言わないといけないのか。さすがに少し脱線したがこの世界のルールも十分おかしいのである。それに、やはり年をとったせいか、若い時のように何にでも向かっていけないのだ。何にでも向かって行って、自分探しの旅になるような行動をとるエネルギーも時間も自分には残っていない気がする。
 しかし、年金が減るのに腹を立てて新幹線で火災を起こした老人や、立派な経歴の老人がやけになって車を爆発する無差別テロなど起こしている。人生の先が見えるので、ある意味怖いものは何もないのだ。人生の喜怒哀楽は十分経験してきたので、これからには未練はそうない。何かに立腹すれば、何でも起こせうる年代でもあるのだ。でも立派な教育者だった男が、単なるテロリストになるのは少しさびしい。今までの人生を否定することになる。未来はそんなに良くないかもしれない。ただ過去は慕ってくれた生徒もいただろうに。過去を大事にするなら、一時は怒りにかられても普通の平凡な人生を全うすべきではなかったか。そのほうが何倍も難しく勇気の要ることである。人生は映画やドラマではないのだ。本当に自分が生きたい人生だけを、あくまで今ある選択肢の中で求めればよいのではないか。あたりまえの考え方が、僕を正常に戻していくようだった。

 病院を抜けその先の踏切を越えて大きく回ろうと思っていたが、やはり夜は踏み切りのほうへは近づけなかった。いつものコースを辿っていく。刑務所の周辺では、携帯片手の2、3台の自転車とすれ違った。自宅近くのもうセブンイレブンに着く間際、ビューンとつむじ風のように過ぎ去る自転車に出逢って肝を冷やした。一瞬何が起こったか解らなかったが、その人はとにかく全速力で走っていた。確か……頭を少し右に傾け、俯いていた。その人は瞼を閉じて運転していたのだ。僕はぶつからなかったのが不思議とぞっとしたのだ。家に帰ってママに話すと、あらそう怖かったわね、と言われただけだった――自分がそういう目に会ったら、ギャアギャア騒ぐくせに……。

夜中に歩いていると、様々な考えが浮かんでは去っていく。
僕自身は、他人との関係において、良い意味でも巻き込まれてしまうのは、もうよいか、卒業だね、という気持ちである。そうしたある意味では、達観した処世感を持つにいたったように思う。そんなあきらめというか、自己中心的な、自分の行動を予想してしまう厭世感を伴った、人生に対する一歩引けた態度は僕のキャラクターになりつつあった。そうした感情の変化が僕にも影響し始めたのではないかと思う。僕が経験してきた怪異とも呼んできた事象は、僕の日常の中でゆっくりと延ばして行き、日常の生活の一コマになるまで薄め、日常の中に取り込んでいこうと思っている。
 僕はそういう思いで、朝のバイト帰りに先にあの踏切のある坂を登って行こうと、そして怪異は外からではなく、内部から生まれた、僕の純粋な創造物だけに頼ろうと、決断したのであった。


  七福神

 しかるに、早朝のバイトが終わって、自転車であの坂にさしかかると、七福神のうちのただ一人の女神、弁財天の様な人が、薄い色合いだがカラフルな服で、ショルダーバックを肩から掛けて歩いてきたのだ。一般的には琵琶を奏でる姿で知られている音楽の女神であり、学芸や知恵をもたらすと言われている。何か福福しくて(福福荘の福ちゃんほどふっくらしていなかったが)僕は思わず自転車を降りて、道のわきに寄ってしまった。しかも彼女は瞼を閉じたまま勢いよく坂を下りてくるのだ。僕はその神々しい外股の歩きっぷりにほれぼれして魅入っていた。僕は彼女が通り過ぎると――ずっと目を開ける事は無かったのだが――自然とその後ろ姿に対してお辞儀をしていた。そして、僕は何故か幸せな気分になって、再び自転車で坂を上りだした。ようやく鳩女の頃から明白になってきた、一連の奇妙な、怪異とも、たたり、とも呼ぶべきものは終焉を迎えたようであった。
 僕は彼女を七福神の弁財天と確信していた。その下ぶくれのふくよかな顔、イケテル70年代中間色のファションセンス、そして女神にもかかわらず、外見をものともしないその外股の大股歩き――。
 しかし、しばらくすると、こうした怪異とも呼ぶべきことは、ある程度の間隔を置く事によって、偶然を装っているのではないか、とも思ってしまった。連続して起こるなら、明らかに怪異であるが、忘れたころより微妙に短い間隔で怪異は起こってきた。日常の平凡な生活の中で、たまに奇異なことが起こる事は有り得る。そうした有り得るレベルのギリギリの所で怪異は起こってきたのではないか。これならまあ、有り得るかも知れない……と。そうした作為を怪異はしてきたのかもしれない。何となく、祟りかも知れない、と少し不安になるくらいに。でも連続して起こり、追い詰められている訳ではないので、「たたり」とは断定できない。何となく人間として、神秘に対する尊厳を助長するような配慮でそれは行われたのではないか。そして最後はこれで怪異の終りが宣告されたような――。
とにかくこの件について考えるのは、これで終わりにしたい。再び怪異が現れても、それは日常の中の出来事として把握し、日常とは、現実とは、そういうものだという、ある種の諦観をもって生きていきたいのである。

  エピローグ

 で、結局どうなったかと言うと、この四カ月程、横顔男とかを見ていないのである。やはり、時々夜歩きしたことで僕の気持ちが切り替わり、弁財天が現れて状況が一変したのだ。異常な事が起こっていた、と信じていたが、もしかすると僕の方に原因であったかもしれない。他の人やママにも変なことを見たことは、一切言わず、ただただ状況が通り過ぎるのを待っていただけなのだが。
 ママは怖がりで、映画を一緒に観る時は、ホラーはいやだからね、と最初に言うのである。そのクセ、「アイアム・ヒーロー」などは正当なゾンビ映画なのに、ラジオで紹介されたらしく、行きたがるのである。最近では「新感染ファイナルエクスプレス」も友達と見に行ってキャアキャア騒いでいるのである。でも、とにかく怖がり、と言う事になっているので、ママにも相談できないできた。特に鳩女以降一年半近くもこの状態が続いていた。はっきり言って、歩く事で気分が変わらなければ、もうどうなっていたか、何処に向かって進んでいたか、解らない。でも、それはちょっと観方が変わったに過ぎないのかも。例えば、怪異は相変わらず僕の周囲で起こっているが、僕の視点が少しずれてしまって、見えなくなっているだけ、と言う気もするのである。僕自身もそういう意味では怪異に取り込まれていた未来も……あったのかもしれない。そう考えるとぞっとするが。僕の外部に起こった事象であれ、僕の内部が生み出した異形物であれ。――そうして、気づいてみれば、半年近く怪異を観ていない。
 
が、ある日突然気がついたのだ。最近夜の歩きをさぼっている事に。すると――。
 いや――でも、とりあえずは、僕は本来の日常を取り戻したのだ。多分……。
                           

 本来は「魔の通る……」として75枚でまとめたものを、改題し62枚までダウンサイジングした。時間を掛けてパーツ、パーツを間歇的に書いたものだから、まとめた時に一貫性がなくなってしまった。要するに筆がすべり、わき道にそれすぎたので、怪談、怪異としての本通を見失ってしまったのだ。怪談は書かないことが恐怖のポイントになる。書かないことを読者に想像させて、イマジネーションの力を利用する。僕の周りである時期に起こった怪異が、僕の中で日常化し取り込まれていく恐れを僕は描きたかったのだ。それがわき道に逸れたり、解釈に終始してしまった。もっと短くすればよかったのかもしれないが、今の僕の力ではここまで。それに心理的な恐れを解って貰うためには、事実だけではなく、僕の心の説明も必要であった。
――と言う風に、最後をまとめようと思っていた。しかし、これらは実際に僕の周りで起こった事なのである。しかし、既に述べたように怪異は、日常の中で怪異と認識されるかどうかというギリギリの間隔でおこったのである。だから、僕は怪異を引きのばし、日常の中に折りたたみ、あたかもそれが有り得る事のように装う事を目指したのだ。ところが、文章にし始めまとめてみると、明らかに日常のレベルではない怪異と認識されるのである。これは普通ではない、明らかにこの世の世界とは異質のものである。書かれたものはそう主張していた。
 それで、少し怖くなって夜歩きなどで、自分の環境を普通の状態に戻そうとしたのである。それがきっかけになったかは、解らないのだが、そもそも怪異が起こり始めてから二年近く立っていたので、なんとなくそろそろ収束するのではないか、という予感めいたものもあったのだ。
 その時に弁天が出現し、決定的になった。僕は怪異から救われた事を確信したのだ。僕は前向きに、小説の発想の元を外部に頼るのではなく、内部から来るものだけにする決意を書いているが、実際は鈍感な僕は、怪異の方から見放された、というのが正解かもしれない。


 それから何年かして、いや、2年位かもしれない。あれは、あれで終わったと思っていたのだ。世間はコロナウィルスで自粛モードであった。僕は、映画館へも行かず、レンタルとか配信とかで自宅に篭るようになった。僕は、あの不可思議で奇異な経験もおぼろげになっていて、とりあえずは、コロナの脅威から身を守ろうとしていたのだ。そんな時にとんでもない事が起こったのだ。いや、世間の常識ではあり得る事かもしれない。でもあのような経験をした僕には、とんでもない事であったのだ。




   鳩よ天まで
                          

「どひぇーえ、エエエエェー」ある日、ベランダからママの声が聞こえてきた。空から隕石でも降ってきたのだろうか、僕は慌てて網戸を開けベランダのスリッパを履いた。それともUFOだろうかと。
 見ると、ママはベランタの端っこで両手をハの字の反対にして漫画みたいに固まっていた。おそらく両手は口元を押さえてから、呆然自失して自然と開いていたのであろう。
「タマゴ、タマゴ、タマゴ、鳩が卵産んでる~」そう言えば、ベランドの手すりのとろで、二羽の鳩が止まっている事が多かったのである。ママは後ろ向きのまま、来て来てと手を振っていた。
 ベランダの端っこのプラスチックゴミの横に、なんと親バトが卵二つを温めていたのである。少し近づくと叱責するように、片方の羽根をばたつかせてくる。卵を守ろうとする本能からであろう。
 巣は親の居ない時に、良く見るとコンクリートの上に少しばかりの枝をばらまいて、その上に卵を乗せているだけであった。
 ある日洗濯物を干しに行ったママがシュンとして帰ってきた。
「卵一つコンクリートの別の所に転がっていたのよ。少し割れ目がはいっているし、中身も少し漏れているかもしれない。親鳥が飛び立つときに引っかけたのかもしれないし、他の原因かもしれないけれど……」
 僕も見に行くと、確かに巣から離れて、コンクリートの上に卵が転がっていた。ママは一応元の所に卵は戻しておいた。それと竹籠にキッチンペーパーを入れて卵があまり転がらないような配慮もしたのである。僕も少し心配になった。一つは駄目かもしれないが、もう一つは雛に孵るのだろうか、と。
 暫くして確認すると、親鳥は、最初から卵は一つだったかのように、卵を温めていた。何時見ても温めているので、親鳥も今度は必死なのだろう。
 でも、二週間ぐらいすると時々親鳥は居ない。時々ベランダでバタバタと羽根の音がするので、育児放棄ではないと思うのだが……。

 8月8日にママが雛が生まれている、と言ってきた。幸い孫も来ていたので、家族でベランダに出て雛を見ることにした。雛はまるで飴細工のように透明で儚いものであった。親鳥はどこに行ったのか? 僕達はこの異常気象の暑さが少し心配になって、水を飲ますことにした。ピィピイと、雛はそれでも元気に鳴いている。孫達はその様子に大はしゃぎであった。雛はピィちゃんと名付けられた。
 時々親は帰っているようである。雛が成長しているのでそれは解るし、ウンチの量も半端ではない。でも、この暑いのにピィちゃんは親鳥に温められているのである。色は少し灰色がこくなり始め、ある時などはピィちゃんは屈伸運動をずっとしているのである。イチニィ、イチニィと。いや、これはもしかするとスクワットかもしれないぞ。
 
 最近特に親鳥を見かけない。バタバタと飛ぶ音は聞こえるので、雛に餌をやりに来ていると思うのだが……前は雄と雌のペアであったが、一羽分の羽音しかしないので、おそらく交替で来ているのであろう。
 でも、朝夕、ピィピイとうるさいのである。それにママは籠のキッチンペーパーは時々代えているが、周辺のウンチの汚れもすごいのである。見ると、時々籠から飛び出している事も多い。ママが洗濯物を干しに行って、籠に近づいた時などは、ピィちゃんはママのサンダルに飛び乗ったりするらしいのである。なつかれている? でも、一線はどうやら心得ているらしい。ベランダの半分以上には来ないのである。
 最近は籠の所でピィちゃんは、バダバタと羽ばたいている。飛ぶための筋肉をつけているのであろう。でも、未だ飛べないのでお腹がすくと、ピイピイと鳴いている。まあ、深夜以外はずっと鳴いている気もするのであるが。

 強烈な台風が来ようとしていた。ママは日射しをガードしていたプラスチックが吹き飛ばされないか心配して、補強していた。果たして、台風が過ぎ去って、ベランダに出てみると、ピィちゃんは何事もなかったように籠の中にちょこんと座っていた。僕の顔をみても、騒がしくピィピイと鳴きだす。
 それから少し経つと、安心していたのに、ピィちゃんは居なくなっていた。もう十分に成長していたが、ちょうど雛が生まれてから一ヶ月経っていた頃である。


 僕は「鳩女」に出会ったころは、孫守と母の介護で、精神的にいっぱいいっぱいで有り、鳩女の呪いとかの妄想に捉われていた。精神が少しダークな面に引っ張られ、実際に経験した事柄が、全てマイナスの空想へと繋がっていたのである。今はその呪縛もとれ、現実は、そのままの現実と捉える事が出来る。鳩の卵の生と死に立ち会って、僕は生の方へ応援し、プラスの局面を見る事ができた。ベランダは汚くなったが、これも人生の経験だと思えるようになったのである。物は考えようなのである。
 孫が来て、ピィちゃんの事を聞いてくる。ママは大人になって空に飛んでいったのよ、と説明している。また帰ってくると良いね、と言われると、ママも嬉しそうにしている。

でも、あれだけ鳩のピィちゃんに萌えていて、世話をしていたくせに、ママはしっかりと鳩ネットを買って、ベランダの隅のガードを固めている。さらに時々、鳩は来ていないよね、と監視を続けているのだが……。ああ、何日か前にママは、鳩は生まれた場所への帰巣本能がすごいと言っていた。何回も帰ってまた卵を産むらしい、とか。
                                   

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