人間として生きたいですか?

文字数 2,355文字

 まず、最初に問いたい。「果たしてアナタは人間だろうか?」


 近年、未知の病原体の蔓延により在宅という隔絶された空間で他者と相対さず、電子を介した働き方がようやく国内で見直された。これは、2000年代からの情報化社会の中で、その変化に最も躊躇したポピュラーな出来事ではないだろうか。
 今や一昔前とは異なり、インターネットを介して個人が自由に発信、他者への干渉、情報へのアクセスが遥かに容易となった。その利用プロセスも実にシンプルなものだ。小さなスマートデバイスさえあればそれに指を滑らせ、ものの数秒で事を成せてしまうのだから。


 だがその代償として、その手軽さ故に本来(おもんばか)るはずであるところの「対人への配慮」が著しく欠落してしまっているのが目に余るようになってしまった。SNSを例に挙げて考えてみよう。

「あなたの発言は不愉快だ」
「お前の言動は私を侮辱した」
「その差別的思考は改めるべきだ」

 どこの誰かも知りもしない者の、誰に向けたでもない発言。
 それ自体にそれ以上の意味をもたないような無為な書き込みがSNS上には溢れ、これにまた赤の他人が群がる。そして更には、このような発言に対し自己主張を通り越し、まるで告訴でもするかのように発言者の謝罪だけでなく社会的排除さえ目論む始末。
 SNSとは個人が自由気ままに、自己都合の赴くままに利用できる単なる自己満足ツールなどではない。などと、ここでその利用における心構えを説くつもりはない。


 今回問題とするのは、情報化社会が進み自己と他者との適切な距離を図るための思考である「なぜ(Why)」という論理思考の著しいまでの欠落についてだ。例を挙げて考えてみよう。

「○○はつまらない。心底嫌いだ」

 このような書き込みがSNS上にあったとする。○○の部分には、あなたの好きなものを当てはめてみてほしい。つまりこれは、あなたが好意を寄せているものに対する批判的なコメントとなるわけだ。
 ともすれば、大半の者は反射的にこのコメントに対する反論を思い浮かべるのではないだろうか? そして、当てはめたものが自身にとってより重要なものであるほど、衝動的にその思いの丈をこの批判者にぶつけるのではないだろうか?
 それが昨今のSNSの縮図であり、また間違いなのである。なぜならば、その衝動的怒りの根源が、実は批判された対象と合致しない可能性があるからだ。


 さて、また一つ考えてみてほしい。あなたは「なぜ」その好意の対象を批判されると怒りを覚えるのだろうか?
 好意。つまり好きという表現は様々な感情の総評であることが多い。今回の追求においては妨げとなるため、一段階具体的に言い換えると紐解きやすくなる。かわいいから/かっこいいから/努力家だから/プライドの誇示だから。好きの下には様々な理由が内包されているはずだ。
 では次に、また一つ考えみてほしい。あなたは「なぜ」その好きな対象にそのような感情を抱き、魅入られたのか?
 このようにして「なぜ」を何度も繰り返し問い続けてゆくと、その答えにはいずれも「ない物ねだり」であり、且つそのない事実に不満をもち、納得できていない自分に気が付くことができるだろう。
 これは端的に換言するなら、"(1)自覚しておきながら怠惰故の自業自得な欠点"だと言える。もちろん、その欠点が"(2)外的要因により強制されている欠点"である場合や、"(3)限界の限り改善に望むも克服できなかった欠点"である場合もあるだろう。この内、(3)の場合は致し方ないため、それを理由に発言者へ内容の撤回、もしくは訂正を提案してみるとよいかもしれない。
 だが、そうではない(1)内的要因、(2)外的要因による欠点は、本件について一つの解をえたことになる。つまりは、他者の発言に限らず怒りや不満を覚えた場合は、自身の怠惰が原因となる(1)内的要因、もしくは自身の努力を阻む(2)外的要因にこそ向けるべきなのだ。
 そうやって半ば条件反射的に反論するのではなく踏み止まることで、他者に対し適切な距離感をもって無用な口論を避けることができるのではないだろうか?


 古来、人間はその誕生より常に考えることを武器として生きてきた。言語を生み出し、道具を用いり、火を使い。そうして生存競争を勝ち抜き、これまで進化と発展を成し得てきたのだ。考えることこそが、人間を人間たらしめてきたのである。
 どれだけ科学技術が発展し、日常生活がどれだけ不自由なく便利に送れるようになろうとも、この「考える力」を何よりも(ないがし)ろにしてはならないのではないだろうか?
 これはSNS上での書き込みに対する姿勢だけに収まることではない。
 テレビや漫画、映画、音楽、ゲーム。あらゆる娯楽において、まず最初は直感的な感情の変化を楽しむのもよいかもしれない。
 だがそれだけに留まらず、「なぜ」その感情を得られたのか? そうして「なぜ」を繰り返し問いつづけ根源を追求することで、クリエイターが作品に込めたメッセージや、自身の新たな一面、新たな教養を得ることができ、生物として僅かながらも成長できるのではないだろうか?


 ただ口を開け、宛がわれたものを吟味せずただ鵜呑みにすることだけを繰り返す。他者だけでなく自分の在り方さえ無関心、無頓着になり、何の益も生み出すことなく平平凡凡と生涯を終える。
 そのように「考える力」を放棄してしまっては、ただ人語を解す動物と変わりないと言われても仕方がないだろう。
 人間として生を受けたのであれば、人間だからこそ「考える力」があるのであれば、微々たるものであろうとも成せる事を少しずつでも積み重ね、最期まで人間としての生を全うしてみたいものである。
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