卵かけご飯

文字数 1,125文字

 遥か昔、私がまだ大学生だった時のことだ。

 その頃は、毎晩のように飲み歩いていて、前以て母に言っておかないと、

 当然のように夕飯は用意されていなかった。

 当時は金もなく、貧相な肴で酒ばかりを胃に流し込むのが常。

 だから結果、いつも自宅に着く頃にはクークーと腹が鳴り始める。

 そんな帰宅時間は決まって真夜中。

 大きな物音でも立てれば、すぐに母の恐ろしい顔が現れ出るのだ。

 だからまさに抜き足差し足で、わたしは長い廊下を抜けて台所へと向かう。

 だが、そこで冷蔵庫を開けても、入っているのは調味料の類いか、

 飲み物くらいがせいぜいって時代だ。

 しかしなぜだか、いつも生卵だけは必ずあった。

 〝毎日1つは食べるようにしなさい〟

 昔から、母はよくこのわたしにそう言って、

 剥きたての茹で卵を朝食のテーブルに置いていた。

 だからと言って、家で食べなくなった息子の夜食用に、

 なんてことである筈もなかった。

 ただとにかく、いつものように生卵をひと掴みして、

 わたしはそうっと冷蔵庫の扉を閉める。

 コンセントの抜かれた炊飯ジャーから冷や飯を茶碗に装って、

 その上に卵を割って落とすのだ。

 あの時代、我が家には電子レンジなんてものはなかった。

 だから固くなった冷や飯に箸を差し入れ、

 生卵とかき混ぜながら少しずつ少しずつほぐしていく。

 そうするうちに、黄身も白身も米粒と一緒くたになって、

 見る見る旨そうに泡立ち始めるのだ。

 そこで一旦箸を止め、醤油をささっと回し掛ける。

 その上で、わたしは箸をしつこいくらいにクルクルと回した。

 この時、ふりかけでもあれば最高だし、

 胡麻や青のりが目に入れば迷わずパッパッと振り掛ける。

 そうしてわたしは、ふわふわに盛り上がった卵かけご飯を、

 立ったままひと口だけ食すのだ。

 口に広がる旨味を噛みしめ、その場でかき込みたいのをグッと堪える。

 後はただただ音を立てずに、自分の部屋へと急ぐだけだ。

 元々、料理上手な母だった。

 そんな母も晩年は認知症を患い、まるで料理ができなくなった。

 ただ、そうなって久しい頃、

 たった一度だけ、彼女の料理を食したことはあったのだ。

 実家を訪ね、父の代わりに母を看ていた時のこと、

 ふと気付けば、母が台所に立っている。

 驚いて駆け寄ったわたしに、母が笑顔で差し出したもの……。

 それは、父の炊いた白米を茶碗に装って、

 殻が混じった生卵をただ落としたものだった。

 醤油はかかっておらず、もちろんかき混ぜてもいない。

 ただこれが……わたしにとって、

 母の作ってくれた最後の料理となった。

 この時母は、意味もなく開けた冷蔵庫の卵を目にして……、

 ほんの少しでもわたしのことを、

 思い出してくれたのだろうか?
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