第1話

文字数 1,753文字

大きく甲板が揺れ、林柳は微睡から覚めた。大きく傾いた廻船の壁に身体を預けた体制のまま、荘園への年貢の確保の仕事を終え、林柳が僧職を勤める京都にある禅寺へと繋がる、瀬戸内海の航路を渡っていた矢先だった。
この瀬戸内海から京都の禅寺への帰路に向かう途中だったこの禅僧は、すぐに甲板の傍らで同じく待機している船乗りに声を掛ける。

「問答はまだ終わらないのかい?」

「長引いているようでさあね」

そして、それは膠着していた事態が一気に動き出す事でもあったかもしれない。
林柳は長引く交渉との間に船の中で、いつの間にか微睡んでいたらしい事に気付いた。
筵帆(この時代の船の規模を示す単位)が十一瑞帆もある、人船が頼りなく見えるほどの
すぐに甲板の傍らで同じく待機している船乗りに声を掛けた。

月明かりに晒された、浅黒く日焼けした顔をこちらに向けながら、船乗りはぶっきらぼうに答える。
『問答』。
それは林柳が帰り道に着いていた京の禅寺で公安として出されるような謎かけなどではなく、まさに船の命運を預けるために海賊たちと行う交渉の意味であった。
片手の指の数でどころか、両手の指を使って数える必要がある程の賊船が林柳がこの度の航海で乗る事になった、塩飽の善吉と言う男が船頭を務める十一瑞帆(100~200石積みの積載量を誇る、この時代の中規模な船)の前に現れたのは、ちょうど午の刻(正午)の頃だった。
海賊と言うのは、今の時代だと航海中の商船などめぼしいものを積んだ非武装船を襲撃する無法者の事だと言う印象があるかもしれないが、この時代の海賊に関して言えば、現代的な感覚で言う犯罪者集団とは少し意味合いが違っていた。もちろん、略奪や強奪をする行為があったのは事実だが、それと同時に海賊とは土着の海域縄張りとして航海の無事を報酬と引き換えに請け負う、言わば海上警備の用心棒でもある。
『問答』とは、言ってしまえば、その海上警備の代金を請け負い、別の同業者である海賊との襲撃から航海中の船を守る警備代——この時代の言葉で言う『警固代』の値段を見積もる交渉であった。
警固代の代わりに依頼人の航海の安全を請け負う。この頃は瀬戸内海に限らず、海もまた様残な海賊が縄張り争いをする群雄割拠の場所でもあった。

「いよいよ、海賊との問答もこじれてくるかもしれないね」
それとなく口をついて出た、林柳の言葉に肌の黒い船乗りの顔が曇る。

「坊さん、鉄砲の心得はあるのですかい?」

問答がこのまま決着せずに、決裂したら——即ち、実力行使に出る事になったらと言う想定をして、海賊たちを迎え撃つ準備も必要であった。

「柳林和尚」

そこに現れたのは船頭の伊兵衛だった。いかにも海で鍛えられた身体も、今はどこか不安そうに委縮しているように見えた。

「どうなされた?」

もしや交渉が決裂したのか?このまま海賊との一戦と言う事態も覚悟しながら、林柳は尋ねる。

「それが…、俺にも何と言えば良いのか……、兎も角付いてきてください」


事態がよく呑み込めないまま、伊兵衛の言葉に従って甲板の先に足に足を進めた林柳は、ようやく状況を理解した。正確には、理解を超えた光景を理解したと言うべきだろうか。

「妖か?」

そこにあったのは——京都の寺でも時おり絵巻に描かれた超常の怪物と言えば良いのだろうか?
墨を流したように真っ暗な海面は砕けた賊船の破片が散乱し、林柳や伊兵衛たちがいる船の先から少し離れた位置には、まるで見た事のない巨大な生き物がその姿を晒していた。竜のような、山椒魚のような大人の胴体くらいはありそうな口を持ったその顔は暫しの間——ひょっとしたら、それは数えるほどの時間だったのかもしれなかったが——甲板に立つ人間たちと目を合わせると、そのまま大岩を投げ込んだ様な音と一緒に水飛沫を土産に瀬戸内海の塩の中に姿を消した。



この記録は後々の記録には残されなかった。

海賊が跋扈した時代、『風波の災』とされたそれら被害に、船を出した先の網領は地元の管轄者である郡司や刀禰に掛け合って『公験』と呼ばれる事故証明書の一種を出す事で中央政府に申し開きをした。だが、これらの中には到底免責されそうにない、もしくは信じてもらえそうにない事実を海賊被害と偽ったものも多かったと後年の研究者は考えて居る。この話も、或いは——


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