リイサ episode1

文字数 1,857文字

 『歌が好き、歌うのが好き。歌えるわたしが、もっと好き。』
 岬で海と歌う‥‥、一緒に歌ってくれる。
 素敵、あぁ‥‥とても、いい。
 導いてくれる。一緒にどこまでも、どこまでも往ける。
 わたしの中で、この滾る気持ち、‥‥すごく、いい。

 それなのに、つい最近までは最悪。
 都会の梅雨、重い匂いが籠る裏通り。ライブハウスの夜。
 どうして、わたしに合わせようとするの。
 音がついてくる。わたしを庇う、従う、憐れまれている。可哀そうに見えるの。
 違うでしょう。一緒に歌いたいの。
 『‥‥嫌っ、気持ち悪い。』
 途中で歌うのをやめた。歌えなかった。
 泣き出すのを堪えるのが精一杯‥‥。
 伴奏が戸惑う、止まる。
 そこは、続けないと。
 拍手なんかいらない。わたしを励ます拍手なんか‥‥。辛いだけ。
 わたしは、歌いたいだけ。
 『‥‥歌わせてよ。』
 もっと自由に、もっとわたしらしく。‥‥伴奏は、お供でないでしょう。
 一緒に往ってよ。往こうよ。
 どうして、どうして分かってくれないの。

 わたしは、怒りを抱えて帰った。
 部屋で独りになると、声を上げて泣いた。
 泣いた。みんな嫌い。歌えないわたしが嫌い。
 伴奏が、上手なのは判るよ。
 技術が確かなのも、聴いていて分かった。
 合わない、違う。感覚的なモノ。相性、そうじゃないよ。
 わたしが、我が儘だから。
 違う。違うよ。
 もう何人の伴奏者と迷ったの‥‥。
 わたしを理解する音を出してくれる人に逢わせてくれないのね。

 誰から聞いたのだろう。あの最悪な夜の後だったから、
 わたしは、傷心のまま海辺の町を訪れた。
 田舎ね。灯りが少ないし‥‥。
 岬を巡る道沿いに店はあった。
 古いコンサートピアノが置いてあった。
 マスターの顔を見て想い出した。
 ライブハウスのピアノを調律に来ていた。
 あのオヤジ、無視をする。
 「伴奏してよ‥‥。」
 「昔に止めたからな。」
 嘘つき、嘘つき。
 「弾けるって。とても、上手って。レイカが言っていた。」
 「上手いけどね。嬢ちゃんとは、無理だよ。」
 「どうして。」
 「嬢ちゃんは、自分が好きすぎるから。そんなディーバは、周りが見えない。」
 嘘ょ、自分が嫌いだ。嫌いは好き、好きは嫌い‥‥。
 「レイカが、嬢ちゃんをここに来させたのは、こんなオヤジに会わすためかな。」
 「‥‥知らないし。意地悪。‥‥わたしは、」
 時間がないの‥‥。

 最初の夜、潮騒を聞きながら眠りに落ちた。
 『‥‥これって、』
 わたしは、微睡みながら口遊んでいた。
 海と一緒に。
 いいょ。歌わせてくれるの‥‥。
 どこまでも、歌える‥‥。
 翌日から、わたしは独りでなかった。いつも傍に海の伴奏が聞こえた。
 好きな時に、一緒に歌えた。

 夏が始まっても帰らなかった。
 小さな入り江を囲む岬の古い別荘。
 ライブハウスのオーナーのレイカから渡された鍵の束には、車のキィがついていた。
 小さくて可愛い車。古いけど素敵だ。
 深紅の色は、明日の気持ち。
 海辺を風のように気儘に走れる。

 岬の店に、大学生のバイトが入った。
 その女子は、わたしが年上なのに気付いた。
 自由に振舞うから。童顔なわたしは、誰からも子供に見られる。
 マスターが、言うはずもない。
 年下なのに、見透かすような眼差し。
 『マスター、こんな女子が好みなんだ。』
 嫉妬、微かな苛立ち。
 なに、この感覚。
 でも、そんなのはどうでもいいんだ。
 
 マスターが、調律に出掛けた夕刻。
 女子学生が独りで店を任されていた。
 「ナナイと、申します。」
 その時初めて、自己紹介された。
 落ち着きようが、母を想い出させた。
 話をして判った。好い子なのが。
 年下の女子に心を許しそうになった。

 或る日、海岸を巡る道で古い車をオーバーヒートさせた。
 車の機嫌が直るまで、フェンダーに腰掛けて海と口遊んだ。
 男子大学生の三人組が通りかかった。
 一人が、わたしを睨んだ。
 数日前の海岸通り。
 想い出した。
 『‥‥あぁ、そうか。』
 道を横切ろうとする彼らを惹きそうになったのを。
 『渡ろうとするのを躊躇うから、でしょう。』
 「‥‥子供が運転してるぞ。」
 揶揄う言葉。
 わたしの口元に笑みが浮かぶ。

 通り過ぎようとして一人が、
 わたしの口遊む声に気付いた。
 海と一緒に歌っているのを。
 足を止め、視線を海に向けた。
 一瞬、見せた逡巡。
 偶然、それとも‥‥。今まで、誰も分かろうとしなかったのに。 
 知られたくなかったのかな。
 なぜ‥‥、年下の男子の暗い瞳が戸惑わせる。
 それが、ヒロムだった。
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