第1話
文字数 2,337文字
丁度、大人の肩の丈の大谷石の石垣の上にサザンカの生け垣が背高く植わっている。
庭はおよそ七百坪だと聞いた。その庭のぐるりをその塁のような垣が取り巻いて庭を世間から隔でていた。
町内の子供らは「ばけものやしき」と呼んでいたが外から見えるのは弐階建ての西洋館で他は大きな柏の木やびわの木の陰になっていて外からは見えない。
東向きに小さなレンガ積みの門があり元は鉄扉がついていただろう蝶番の後がさび付いている。
今は小さな木枠が取り付けてあって板張りの引き戸がついている。
五十嵐五男は、名のとおりその家の五男であった。兄たちは父の家業を継いで研究医やら大学病院やらに勤務している。姉は名古屋の医者に嫁いだ。
末子であった自分は年の離れた兄たちとは馴染まないまま、多忙の両親には放念され、厳しい祖母に育てられた。
兄たちのように私学の幼稚舎から小学校に電車で通うようなこともなく、近所の学区の小学校から帰ると父が子供らのために書架に置いた本を抜き取り、庭のコノテガシワの木の根元に置いてある庭石に座って読み耽っていた。
生け垣は庭の内から見ると土手になっていて、祖母の苦労もものかわ雑草が伸び放題に生い茂っていた。
カラスウリや木イチゴが這い、土蜘蛛のふわりとした巣が根元に潜んでいたりもした。
時に夕暮れで母の呼ぶ声がするまで、本を庭石に置いて蟻が巣穴に撤収するまでを眺めていたりもした。
五男には、小学校の校庭でボール蹴りなどする遊び仲間との時間よりもそのような独りの時間が好もしかった。
と、いうよりも、それとこれとはあまりにかけ離れて比ぶべくもない、次元の違う時間の過ごし方だったのである。
書架の本は兄たちが成長すると補充されなくなり、小学校の学級文庫に飽きると書店と図書館とに通い、五男はついには両親の思惑とはかけはなれた文学の道に進むことになった。
五男が大学を卒業する頃には兄たちは勤務地の近くのマンションに引っ越し、父が己が創立に携わった病院に入院すると、看病に疲れたか心労か、母が脳梗塞であっという間に身罷った。
葬式は離れの庭先に葬儀社がテントをしつらえ八畳間一杯に幕を掛けて行った。母にこれだけの知己、友人がいたのかと思うほどの人であふれ、病身の父が号泣するのをみて 、普段の両親の距離感との微かな違和を感じながら棺に花を手向け、出棺の時は自分が兄弟の中で背がひとつ大きいことを改めて知ることになった。
ふと庭先の母が愛した大ぶりの萩の叢が葬儀社のてによって、ごっそりと刈り取られ根元だけになっているのに気がついた。
五男はこれが失われると言うことであるのかということを寂寞もなく思いながら、手際よく天幕をたたむ作業員が働くのを縁から眺めていた。
母の四十九日が済むと父は病室に不動産屋を呼び等価交換で家屋敷を低層マンションの敷地として不動産屋の手に渡してしまい、今より2年後には家屋敷を取り壊すことに決まっている。
祖母は五男が夏休み中のバイトで貯めた金で2週間の英国旅行に行っている間に、検査の為に入院した病院で亡くなった。見舞客の風邪を貰い肺炎で亡くなったのだそうだ。
戻ってから祖母の遺影に英国土産のストールを置いた。
繊細で美しい物の好きな祖母には海外の文学やその挿絵画家などを教わった。
大学の入学祝いと言って当時簡単には買えないようなワードプロセッサを買ってくれた。
五十嵐五男は、自分は祖母に育てられたのだという思いが強かった。
その祖母の亡き後に祖母の何代目かの飼い猫が遺された。
建坪二百、庭七百坪のこの広い屋敷にはその猫のほか、今誰もいない。
父が次男のために建てた物置の隣のプレハブはNゲージ用の大きな電環がそのまま放置されて物置になっている。
離れは祖母の隠居所だった。祖母の生前は五男は大学から帰った時も母屋よりも離れで祖母と居る時間が長かった。だが、兄の電環が眠る掘っ立て小屋には来ている電気が西洋館と離れにはもう来ていない。
母屋の台所の勝手口から家に入り電気をつけて荷物を置く。
祖母の猫は「久遠(くおん)」と言った。
真っ白な大きな猫で、膝にのし上がると祖母は「重い重い」と言ってしばらく久遠をこね回すと膝からそっと下ろしていたものだ。
もう相当の年だとは思うのだがしなやかで色艶もよい、しっかりとしていて抱き上げるとたしかに重かった。
しかし祖母以外にはめったに抱かれない。葬儀の時葬儀社の人は祖母の枕辺から猫をどかすのに難儀したそうだ。
父が揃えた食堂の立派な椅子が一台、台所の日当たりのよい一角に据えてある。
母が台所を使うときに腰掛けて休むために置かれたそのままのその木造の椅子に丸まっていた猫はのびをして椅子から降りると、屈んだ五男の脛をその体でしなやかに押しながら口をきいた。
お帰り
編集というお仕事は、またずいぶん帰りの遅いお仕事なんだね。
待ちくたびれて、たいそう退屈で空腹ですよ。
今日は校了日ですからね。
お食事は用意していったぢゃあないですか。
昼には美味しくったって、夕方にはすっかり乾いて味気ないのですよ。
ゆでたなまり節なんざね。
「じゃあ」と五男は木戸の斜め向かいの酒屋から買ってきた削り節パックを開けて、久遠の皿の上に少し残っているなまり節の上にまぶした。
「これでいかがでしょうか」
五男はガスコンロをつけて湯を沸かし、買ってきたカップ麺を手際よく作ると、野菜ジュースの缶を開けて中を飲み干し、久遠の椅子を調理台に引き寄せてカップ麺を食べ始めた。
「まだ時間じゃないでしょう?」という久遠に
「固めが好きなんですよ」と応える。
ため息のような息を継ぐと
久遠は椅子の背もたれと五男の背中の間にひょいと飛び乗るとそこで香箱を作った。