第1話

文字数 2,621文字

 仕事帰りに近所のスーパーに寄った後。三軒隣にある食堂で飯でも食って帰ろうと入った。すると知合いの中国人がいたので声をかけた。
平日の午後に主婦一人で飯を食っているのも珍しいが「今日は仕事は? 」と聞くと「今日は休み」と答えた。まあ、祭日でも休まない中国企業で働いているからたまに休んでも文句は言われないのだろう。
彼女はこの食堂から一〇分もかからない空港の近くに住んでいる。旦那は日本人で、出会い当初は漢字の筆談でコミュニケーションをしてたらしい。漢字は中国から来たものなので意味はほとんど変わらないようだ。日本最古といわれる日本書紀の原文がネットで見れるが、彼女に見せると「これ中国の学校で習う古文ね。日本人には読めないんじゃない」と言う。確かに意味は分からない。まあ、文字に限らず文化的なものも中国から来たんだなって事を彼女と話していて感じる。大きな違いは大陸的か島国的かって違いだ。
歳は四二歳なのだが丸顔で目がパッチリで若い頃はさぞかし美人だっただろう。出身は昔の満州のどこかで中国語で言うので正確には聞き取れていない。日本に来る大連や南方の中国人は結構多い。まあ、近いし現地に日本企業も多いらしいから。
何食べてんの? と見るとオムライスであった。何食おうかな? と振り返ると店のババアが近づいてきた。
「あら、せいちゃん久しぶりやね。今日は彼女と一緒ね? 」
 このババア、日頃からよく喋る。
「彼女じゃねえよ。この人、人妻」
「この色男。とうとう人妻ね」
 おい、ババア。誤解を生むような事言うんじゃねえ。取引先の事務員さんだと言うと、ハハハンって風に疑惑の目をする。このババア、何度か来るうちに、後ろから近づいたかと思うと私のケツを触るようにもなった。恐らく七〇は超えていると思うのだが。
「これからゴーゴー喫茶でも行くの? 」
 いつの時代だよ。クラブ、ディスコ以前の話だぞ。
「へ~、ばあさんゴーゴー喫茶とか行ってたの? 」
 と私が聞くと、ばあさんは手を上下に振りながら「若い頃ね」と言った。
それってモンキーダンスってやつじゃね? という事は六〇年代? 。すると中国人の彼女が「それ知ってる。ニュージーランドのラグビー選手が試合前に踊るのじゃない? 」
う~ん、似ている気もするがオールブラックスのハカではないぞ。
「墓って何よ。まだ死なん」
 と言うババア。それも又違うな。
「ところで彼女、まだ若いわね、いくつ? 」
 と聞くので私は新婚さんと嘘をついた。
「あら、御新造さんね」
 新造? とても古い言葉である。元々、水揚げ前の女郎の事をいった言葉なのだが、明治時代には新婚間もない良家の嫁さんをそう呼んでたらしい。このババア、ひょっとして一〇〇年以上生きているのかもしれない。
私はよく頼む酢豚定食を頼むことにした。大した特徴のない店なのだが、何故かこの店の酢豚はいけるのだ。
店の厨房の奥を見るとババアは相変わらずモンキーダンスをやっていた。何がそんなにハッピイなのか分からない。「脳みそに虫でもわいたかな? 」
と中国人の彼女に言うと? って顔をした。
「これから暇なんだろ? 飲みに行くか? 」
「ダメ。洗濯や家事で忙しいの」
 まあ、主婦を本気で口説くつもりは全くなく、からかいのつもりなのだがそうもハッキリ断られるとちょっと残念でもある。意外と中国人は身持ちが固い。そうでなくちゃな。
 それを聞いていたのか、奥からババアがやって来た。
「私、五時間くらいしたら空くわよ。カラオケでも居酒屋でも大丈夫よ」
 おい、ババアお前には言ってねえぞ。ってどんな地獄耳だよ。何が悲しくて五時間も待ってお前と時をひさがねばならぬ。嫌だ。
「あんた元ロックンローラーでしょ? 踊れるんでしょう? 」
 おいおい、元バンドマンはアイドル歌手ではないぞ。というか自慢ではないがダンスは全くダメだ。バンドやってたことをつい喋っちまったが、個人情報は簡単に明かすべきではないな。
「あ~ら、昔はよく踊ってたじゃない。ディスコとかで」
 確かに一八位の時はナンパの為行ってはいた。しかし、そんな事話した覚えはないのだが。
「随分、派手な生活だったわね。年上のホステスと毎晩飲み歩いたり、女に貢がせたり」
 へ? そんな話? 確かに二〇位の時水商売のバイトをしてて、仲良しの三人のホステスと飲み歩いてはいた。只、女に貢がせていたというのはちょっと違う。たまたま付き合っていた彼女が毎日弁当を持って来ていただけの話で、こちらから強要した訳ではない。
ってそんな事より何で知ってんだ? もしかして若い頃すれ違った事でもあるのだろうか? ちょっと気味が悪い。すると横に座っていた中国女が…… 。
「でも、あれ良くない」
 といつになくしっかりした日本語で言った。あれって何だ? 何かを知っているって目で俺を見る彼女。
「そうね、あんな事しちゃあダメね」
 とババアが答酬した。いよいよこいつら何かを知っているのか? 話してもいない事を知っているって事は? 益々、気味が悪い。
「おまけに病気まで貰って…… 」
 とババアが言った日には背筋に悪寒が走った。ひょっとして風俗嬢に淋病を伝染され、人目を避けて久留米のマリア観音近くの泌尿器科に通っていた事を知っているのだろうか? あれは伝染した風俗嬢しか知らないのだが。
「そうそう、あれは最悪」
 と中国人女も言う。いや、ちょっと待てよ。いくら素性を知っているにせよ、知り過ぎている。エイリアンか預言者でもない限り知るはずもない。
「まあ、子供の頃から臆病な子だったからね。母親と正反対の子になるなんてね」
 ゲ! ババアは私の幼少の頃から知っているのか? 
「お父さんの血かね? この糸が切れた凧は」
 とババアは追い打ちをかける。
「ちょっと待て。君たちは『いたこ』か何かなのかね? 」 
「ふふふ、あなたの事は全てお見通しよ」
 とババアが不敵に笑み。すると隣の中国女も意味ありげにほほ笑んだ。
私はババアの奥に見える湿って油の浮いたコンクリートの厨房床を、靴下だけで歩いているような気味の悪さを感じた。
「じゃあ、私はこれで…… 庭の苗木に水をやらねばならぬので」
 と理由にもならない文句を並べ逃げるように店を出た。恐らく話した事もないはず。適当にからかわれたのだろうが、女は時たまにずば抜けた洞察力と勘を巡らせる。げに恐ろしきものなり。
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