カア子
文字数 2,353文字
「なんか、その匂い、好きじゃない」
背後から、あの声がする。
あーもう。雨がカーディガンを濡らしてしまう。私は横断歩道を駆け抜けた。
この街自慢の「夢の日商店街」のアーケードは、途中途中で途絶えている。端から端まで歩いたら10分弱かかる長い商店街だから、まっすぐ歩いていると全部で4回、道路が横切るのだ。
「この街自慢の」とは言ったけど、土曜日の今日だって人はまばらだ。だから別に、街の外の人に自慢できるような場所ではない。
駅から私の家までは、この夢の日商店街をそのまま突っ切るのが便利だ。中学も高校も、隣の駅まで行ってから歩くのが早かったから、私は毎日毎日駅を利用している。今までで、一体何回この冴えない商店街を往復しただろう。
学校のない日だって駅には行くから、年間300回だとして、ここに引っ越してきたのが中1の時だから三年半前で、じゃあ…
「ねえ、聞いてんの?」
「…何」
全力で無視しようとしていたのに、しつこくまとわりつかれるから全身がだるくなる。足を止めて振り返ると、深緑の制服を“きちんと”着ているカア子が、腰に手を当てて、漫画顔負けのガミガミポーズをとっていた。
「あんたさ」
「もーうるさい」
「は?アタシまだ何も言ってませんけど」
「…なに?」
「香水つけてるでしょ、キツいんだけど」
「…関係ないでしょ」
「あとあんた、スカート切ったの?もう11月なのに。あと、ブレザーはどこへやったの?風邪ひくでしょ」
「ほーらうるさい」
しっしっと追い払う仕草をすると、カア子は深くため息をついてみせた。空からアーケードを打つ雨の音はさらに強まり、商店街を駆け巡る楽しげな音楽をかき消そうとしている。
深沢佳代子。彼女はみんなから「カア子」と呼ばれている。名付け親は私。彼女の中では、なんでもない、いや、親密さすら感じられるあだ名だろう。けれど、私たちは嫌味を込めて、そう呼んでいる。
「佳代子ってさ、親みたいにうるさいよね」トイレでつけまつげを直しながら、私は鏡越しのみんなに言った。
「わかるー」
「うちの親より口うるさいもん」
「ママっていうより、かあちゃんって感じ」
「わかるー」
「カア子でよくね?もう」私の言葉に4人が拍手をする。
「やば、めっちゃセンスあんじゃん」
「さすがなんだけど」
高校の入学式の翌日のことだ。「もうギム教育は終わったし」とワイワイ騒いで、私たち5人は揃ってつけまつげをして登校した。想像通り、カア子は朝一番にそれを見つけて騒いだ。「あんたたち!学校に必要ないでしょう?それ」
狭い街だから、中学のメンバーと高校のメンバーはさして変わらない。だからカア子とは、中学校から一緒だった。そして、私の「いつメン」の5人もそのまま。カア子くらいだ、クラスメイトで私たちに偉そうな口をきいてくるのは。他の子は、私たちのグループの言うことには何でも頷く。
カア子がついてくる気配を感じながら早足で歩いたから、もう商店街を抜けてしまいそうだ。抜けたところから家までは、ダッシュで3分。でもヤバいな、この雨じゃ結構濡れてしまうな。ケンくんのお古のカーディガンなのに。
「カア子、傘貸してよ」
「は?持ってないの?」
「うん。朝まで彼氏んち泊まってて、昨日は晴れてたから」
カア子は、自分が手に持っていた傘を私に差し出した。
「え?貸してくれんの?」
「は?今貸してって言ったじゃん」
まるでクラスメイトのみんなみたいに従順な対応のカア子に、私はちょっと気味が悪くなる。カア子だけは、私の言うことに従わないと決まっていた。
「それじゃカア子、濡れんじゃん」
「持ってるの、いつも」
カア子はそう言うと、当たり前のように鞄から折り畳み傘を取り出した。高校指定の、交渉入りの折り畳み傘。入学して半年、使っている人を今まで見たことがなかった。
「月曜日、返してよ?」
カア子は釘を刺すように私を睨むと、バサっと折り畳み傘を広げて歩いて行った。去り際に「ほんと香水キッツい」と言い捨てたカア子の声が、足元に落下する。
確かにちょっとキツいのかもしれない。
大好きなケンくんの匂いだから、家を出るときに3プッシュもしてしまった。当のケンくんは、土曜日だと言うのに早朝から仕事だから、朝起きたらもう部屋にはいなかった。激しさで乱れたシーツを整えて、私は部屋を出た。言われたように、鍵をポストに入れる。合鍵、くれればいいのに。でも、私たちが付き合ってるのかどうかは、怖くてずっと聞けないままだ。
信号が点滅していた。
カア子の体温がわずかに残る傘の取手を握ったまま、アーケードギリギリのところで立ち止まる。通りの向こうで、同じ深緑のスカートが揺れる。今日は風も強い。あれ、何でカア子、土曜なのに制服なんだろう。帰宅部なのに。
どうでもいい疑問のおかげで、ケンくんに関する不安はロケット鉛筆のようにどっかに行ってくれた押し出されていく。
だってほら、昨日はあんなに好きだよって言ってくれた。好きだよって言いながら、頬にも、脚にも、前髪にだってキスをした。身体目当てだったら、男の人は唇以外にはキスはしないんだって、ネットの記事で読んだ。
大事なカーディガンは、濡れたところの色がまだらに濃くなっている。今年の春に社会人になったケンくんのお古だ。さっき袖にふりかけたはずのケンくんの香水は、もう鼻が慣れてしまってほとんど感じない。
信号が青になる。
カア子の傘を開く。
今にも傘が壊れそうなくらいの突風が吹いて、私はキャッと、誰にも聞こえない悲鳴をあげた。
背後から、あの声がする。
あーもう。雨がカーディガンを濡らしてしまう。私は横断歩道を駆け抜けた。
この街自慢の「夢の日商店街」のアーケードは、途中途中で途絶えている。端から端まで歩いたら10分弱かかる長い商店街だから、まっすぐ歩いていると全部で4回、道路が横切るのだ。
「この街自慢の」とは言ったけど、土曜日の今日だって人はまばらだ。だから別に、街の外の人に自慢できるような場所ではない。
駅から私の家までは、この夢の日商店街をそのまま突っ切るのが便利だ。中学も高校も、隣の駅まで行ってから歩くのが早かったから、私は毎日毎日駅を利用している。今までで、一体何回この冴えない商店街を往復しただろう。
学校のない日だって駅には行くから、年間300回だとして、ここに引っ越してきたのが中1の時だから三年半前で、じゃあ…
「ねえ、聞いてんの?」
「…何」
全力で無視しようとしていたのに、しつこくまとわりつかれるから全身がだるくなる。足を止めて振り返ると、深緑の制服を“きちんと”着ているカア子が、腰に手を当てて、漫画顔負けのガミガミポーズをとっていた。
「あんたさ」
「もーうるさい」
「は?アタシまだ何も言ってませんけど」
「…なに?」
「香水つけてるでしょ、キツいんだけど」
「…関係ないでしょ」
「あとあんた、スカート切ったの?もう11月なのに。あと、ブレザーはどこへやったの?風邪ひくでしょ」
「ほーらうるさい」
しっしっと追い払う仕草をすると、カア子は深くため息をついてみせた。空からアーケードを打つ雨の音はさらに強まり、商店街を駆け巡る楽しげな音楽をかき消そうとしている。
深沢佳代子。彼女はみんなから「カア子」と呼ばれている。名付け親は私。彼女の中では、なんでもない、いや、親密さすら感じられるあだ名だろう。けれど、私たちは嫌味を込めて、そう呼んでいる。
「佳代子ってさ、親みたいにうるさいよね」トイレでつけまつげを直しながら、私は鏡越しのみんなに言った。
「わかるー」
「うちの親より口うるさいもん」
「ママっていうより、かあちゃんって感じ」
「わかるー」
「カア子でよくね?もう」私の言葉に4人が拍手をする。
「やば、めっちゃセンスあんじゃん」
「さすがなんだけど」
高校の入学式の翌日のことだ。「もうギム教育は終わったし」とワイワイ騒いで、私たち5人は揃ってつけまつげをして登校した。想像通り、カア子は朝一番にそれを見つけて騒いだ。「あんたたち!学校に必要ないでしょう?それ」
狭い街だから、中学のメンバーと高校のメンバーはさして変わらない。だからカア子とは、中学校から一緒だった。そして、私の「いつメン」の5人もそのまま。カア子くらいだ、クラスメイトで私たちに偉そうな口をきいてくるのは。他の子は、私たちのグループの言うことには何でも頷く。
カア子がついてくる気配を感じながら早足で歩いたから、もう商店街を抜けてしまいそうだ。抜けたところから家までは、ダッシュで3分。でもヤバいな、この雨じゃ結構濡れてしまうな。ケンくんのお古のカーディガンなのに。
「カア子、傘貸してよ」
「は?持ってないの?」
「うん。朝まで彼氏んち泊まってて、昨日は晴れてたから」
カア子は、自分が手に持っていた傘を私に差し出した。
「え?貸してくれんの?」
「は?今貸してって言ったじゃん」
まるでクラスメイトのみんなみたいに従順な対応のカア子に、私はちょっと気味が悪くなる。カア子だけは、私の言うことに従わないと決まっていた。
「それじゃカア子、濡れんじゃん」
「持ってるの、いつも」
カア子はそう言うと、当たり前のように鞄から折り畳み傘を取り出した。高校指定の、交渉入りの折り畳み傘。入学して半年、使っている人を今まで見たことがなかった。
「月曜日、返してよ?」
カア子は釘を刺すように私を睨むと、バサっと折り畳み傘を広げて歩いて行った。去り際に「ほんと香水キッツい」と言い捨てたカア子の声が、足元に落下する。
確かにちょっとキツいのかもしれない。
大好きなケンくんの匂いだから、家を出るときに3プッシュもしてしまった。当のケンくんは、土曜日だと言うのに早朝から仕事だから、朝起きたらもう部屋にはいなかった。激しさで乱れたシーツを整えて、私は部屋を出た。言われたように、鍵をポストに入れる。合鍵、くれればいいのに。でも、私たちが付き合ってるのかどうかは、怖くてずっと聞けないままだ。
信号が点滅していた。
カア子の体温がわずかに残る傘の取手を握ったまま、アーケードギリギリのところで立ち止まる。通りの向こうで、同じ深緑のスカートが揺れる。今日は風も強い。あれ、何でカア子、土曜なのに制服なんだろう。帰宅部なのに。
どうでもいい疑問のおかげで、ケンくんに関する不安はロケット鉛筆のようにどっかに行ってくれた押し出されていく。
だってほら、昨日はあんなに好きだよって言ってくれた。好きだよって言いながら、頬にも、脚にも、前髪にだってキスをした。身体目当てだったら、男の人は唇以外にはキスはしないんだって、ネットの記事で読んだ。
大事なカーディガンは、濡れたところの色がまだらに濃くなっている。今年の春に社会人になったケンくんのお古だ。さっき袖にふりかけたはずのケンくんの香水は、もう鼻が慣れてしまってほとんど感じない。
信号が青になる。
カア子の傘を開く。
今にも傘が壊れそうなくらいの突風が吹いて、私はキャッと、誰にも聞こえない悲鳴をあげた。