第1話 鬼姫と弟

文字数 8,651文字

奥津城に翁の号を刻むなかれ(1)

 ― 明神の章 -

【鬼姫と弟】
 いかなる名刀でも切れない綱をいとも容易く切ってしまうのは、人の心である。
 のみならず、人は切った綱をこれまた気分でつなぎ合わせてしまう。
 いちど切れたものを継ぎ接ぎや強引な結びつけで繋げるのだからひどく不安定で脆いものとなるが、それでも騙し騙し使い、どうしても意のままに動かなくなったらあっさりと捨てる。
 『業』や『荒振』と呼ばれることを怖れずに。


 陸奥国、置賜。
 地域の鎮を名乗ってはいても、大きいとはいえない成島八幡神社の隣地。所在なく屋敷の壁にもたれて舟を漕いでいた喜多は、馬の軽いいななきで目を覚ました。
 「!」
 喜多が膝に抱えていた小刀を持って立ち上がった時、頭上にあった格子窓を破る勢いで産声が飛び出した。喜多は壁を回り込んで台所隣の狭い寝所に駆け込む。
 「母上」
 「元気な男子ですよ。ほら」
 「良かった。これで旦那さまのお役に立てましたわ」
 産婆は子の顔を直子に見せると、すぐに産湯を使わした。子が清められていく様を、直子は横になったまま微笑んで見つめている。
 「では奥方さま」
 赤子を産湯から上げ、手際よく襁褓と産着を着せた産婆が、子を外で待機していた巫女に託す。
 「頼みます」
 巫女は無言で子を預かり、屋敷を出た。水車のように決まり正しい動きの巫女が、撫木に弾かれた杵のようにうやうやしく一礼して鳥居をくぐる。
 「母上は、父上にはお会いにならないのですか?」
 不満そうな喜多に、母・直子はかすかな笑みを返した。
 「本日から三十三日間は『穢れ』の身ですから、鳥居はくぐれませぬ」
 「また『穢れ』ですか」
 それがどういう事なのかは、『娘』である喜多も知っていた。今日だって、喜多が巫女装束に袖を通せないのは『穢れ』だからである。
 神の教えは、いつも女性を穢れたものと見做す。
 (大変な思いをして産んだのは母上なのに。片倉の父上だって、鬼庭の父上だって、ばば様から生まれてきたというのに)
 女が血を流し、腹を痛めなければ男は生まれない。
 「伊邪那美之命(イザナミノミコト)は日ノ本を生んだし、その御子の天照大神だって女子なのに、不公平です」
 「穢れを払うのが男子の役目なのですよ。宮司として生まれた者は目に見えぬ穢れを、そして武士として生まれた者は自らの土地を侵す敵という名の穢れを、血を流しながら守るのです。優劣などつけられましょうか」
 持って生まれた役目を果たし、神の御心に従う心が、これまで日ノ本の民を守ってきたのです。直子は喜多が物心ついた頃から言い聞かせてきた言葉をまた繰り返す。
 生まれつき聡い喜多はそれ以上母を困らせる事はしなかったが、見えないものへの崇敬が今ひとつ理解できないのもまた喜多の性分である。
 一番苦しんだ母が、子にゆっくりと乳をやる時間も与えられない。そんな理不尽に黒雲に似たざわつく気持ちを抱くのもまた穢れだと言うのか。
 どうも自分は定められたものにおとなしく従う事が出来ない。
弟の誕生は、喜多の心にあるもやもやを増長させたように思えてならなかった。

命は惜しまず、されど家の血筋は守り抜かなければならない。
 母はこの世の矛盾を説きたかったのだと喜多が気づくのは、まだ先の事である。
 武士も、町人も、商人も、農民も、そして神職も、突き詰めれば『血筋の存続』のために命を捧げているのだ。
男が『穢れ』とまで呼び、神域への立入りすら禁じる『女性』が居なければ、命より大切な血筋ひとつ守れないというのに。これもまた矛盾である。
 矛盾に目を瞑り、穢れも形骸化させて、人は世継ぎに先を託しつつ歴史を繰り返す。
 そのため、男として生まれた者は『穢れ』に目を瞑って『血筋』のために人生を捧げなければならなかった。
 このとき生まれた男子…小十郎はというと。
 自らの手を穢して道を切り拓く宿命をその小さな手に握っていたのだが、今はその身の寄る辺すら自分の意思で決められない赤子の身である。

 神主が片倉と名乗る神社において、喜多は母の連れ子であった。
 喜多の元の姓は「鬼庭」という。帯刀していたので父が武士なのは幼心に分かったが、屋敷の離れでひっそりと暮らしていたので父と顔を合わせた記憶はほとんどない。
 父はいつでも気まぐれに離れを訪れ、その時喜多は侍女とともに庭に遊びに出されていた。
 父がいつの間にか母屋に帰り、喜多が離れに戻ると、いつだって母は綻びたての花のような笑みをたたえながら火鉢で玄米を煎り、喜多に玄米茶を振る舞ってくれた。
 母が幸せならばそれでいい。もとより顔を合せない父は、喜多にとってただ衣食住と母の笑顔を与えてくれる存在で、情というものを持てるほどの存在ですらなかった。
 けれど、そんな記憶も数えるくらい。
 いつからか鬼庭家の大人たちの間で言い争いが絶えなくなり、母の辛そうな顔を見る機会が増えた矢先に、突如として母に連れられ鬼庭の家を出た。そして置賜の神社に住まいを移したのだ。
 鬼庭の家について、喜多はそれ以上を知らない。
 ただ、片倉喜多を名乗るようになって三年ほど経ったある日突然「あなたは姉になるのですよ」と母から告げられ、そして季節が三つ巡った頃に小十郎が生まれた。
 しかし片倉の八幡には、既に跡継ぎとなる男子がいる。

 「喜多、義母上がご無事に出産なされたと聞いた」
 八幡の跡継ぎが、息を切らして邸に戻って来た。妻を亡くし、鬼庭家から再嫁した直子と再婚した片倉の父の連れ子である。
 「まあ小太郎どの、またそのように汚れた格好で」
 齢十歳になったばかりの片倉家長男・小太郎は泥だらけだった。川魚が入った桶を抱えている。
 「鮎に岩魚、それに鯰が獲れたんだ。ほうら、立派だろう。義母上に食べていただくんだ」
 「あらまあ」
 たしかに大層大きな鯰である。竹の銛で一突きだったと小太郎が胸を張った。
 「それにしても弟かあ。俺もいよいよ学問に本腰を入れねばならないか」
 「小太郎どのは暢気が過ぎます。読み書きだけが出来れば神職が務まるとでもお思いでいらっしゃるのですか?」
 「祝詞ならば唱えられるぞ。毎日父上の加持祈祷を聞いているからな」
 「諳(そら)んじるだけの祝詞に神々の加護が宿るとは思えませぬが?」
 「でも唱えられなけらば始まらない。意味など覚えた後について来るさ」
 「呆れた」
 小太郎は良くも悪くも「あけすけ」であった。将来は自分が神職として八幡を守っていかなければならないという自覚もいまだ曖昧で、ただ毎日を享楽的に生きている。
 「鎮守として村の信仰をいただくのは、つまり集落の命運を背負っていることなのですよ。春には豊作祈願の祝詞を、そして秋には収穫に感謝する祭りを奏上して……」
 「毎年同じように祈ったって、日旱もあれば大雨も寒い夏もある。つまり、なるようにしかならないって事じゃないか。祝詞など気休めだ」
 「まあ。陰陽が重んじられる理由をご存じないとは言わせませぬよ」
 「あれは占いだろう。吉方は毎年変わるし、亀の甲羅の焼け具合で人は右往左往する。神宣ったって、単なる夢見で根拠もないし、喜ぶような事を言ってれば人はやる気が出て自分から良い結果を出すもんだ」
 「まったく神職らしからぬ物言いですこと…そのような罰当たりな事を仰っては、いずれ神罰が下りますよ」
 「はいはい。喜多も相当かりかり来ているようだな。今宵は俺が腕によりをかけて魚料理を作ってやるから、それを食って落ち着け」
 小太郎は桶を抱えてそそくさと退散した。「畑の葱をもらうぞ」「あれ、味噌はあったかな」などと呟く声が木立を揺らす。
 「あの分では、味噌も塩も神饌(奉納された品)を使うつもりね」
 祈りを無意味なものと言い切る心情は、分からなくはない。小太郎の言うとおり、どれだけ祈っても飢饉になる時はなる。
 人々が必要としているのは、形として縋れるものなのだ。
それが神なのか山や川といった自然なのか、はたまた人であるのかは分からない。
 ただ目に見える身近な存在として在るのが神社や仏閣であり、人々の信仰が自分達に糧を与えてくれる。
 そして、神仏に仕える者は人々の心に寄り添い安心を与える事で信仰心を還元していくのだ。

 誕生した小十郎は、音曲の才に恵まれた。
 三歳の秋、祭りで氏子が演奏していた笛に興味を持ったので片倉の父が吹き方を教えてみたところ、みるみるうちに上達していったのだ。
 笙も太鼓も然り。今では、一度聴けば大抵の神楽は演奏できる。だがやはり篠笛が一番合っているようで、今では祭礼で奉納される巫女舞の伴奏に加わっている。
 袖も裾も引きずる束帯姿で神楽を演奏する小十郎の姿は愛らしいと評判になり、何かと村人に可愛がられた小十郎は若竹のようにすくすくと成長していた。
 「なかなかに良き笛の音ですなあ」
 ある初夏の日、社殿で稽古をする小十郎の笛を聴きながら巫女装束で庭を掃いていた喜多に一人の旅僧が話しかけてきた。
 神でも仏でも、恩恵を授けてくれるものなら一緒くたに崇めてしまう神仏習合の時代。戦に出る武士が観音像を懐に忍ばせながら天照大御神に戦勝祈願をしてしまうのだから、旅の僧が神社に立ち寄ったところで追い返す理由も必要もない。
 「いきなり暑くなったものだから、喉が渇いてしまって難儀しておりましてな。巫女どの、水を恵んでくださらぬか」
 「それはお困りでしょう。すぐ汲んでまいりますね。そちらの木陰にちょうど良い岩がありますので、どうぞお掛けください」
 片倉の父と同じくらいの齢だろうか。裾や袖がすり切れた粗末な衣の下から除く筋骨隆々とした身体に日焼けした顔。おそらくこれから出羽三山にでも参るのだろう。
 言われるまま喜多が井戸から竹筒と柄杓に水を汲んでいる間、僧は笛の音に目を細めていた。
 「心に沁み入る良い音色ですなあ。ここの空気が澄んでいるのも、笛が邪を祓っているからかのう」
 「私の弟です。齢は五つ」
 「ほう、巫女どのの弟御ですか」
 褒められてつい答えてしまった喜多に、柄杓で差し出された水を口に含んだままの僧は零れ落ちそうな程に目を見開いた。
 「いずれ、こちらの神主になられるのですかな?」
 「いえ、神楽の奏者になると申しております…兄がおりますから」
 「跡取りではないからと遠慮しておられるのか。勿体ないのう」
 僧が社の中をのぞき込むように軽く背伸びする。
 「五つで遠慮を覚えるとは聡い子じゃ。が、不憫であるな」
 不憫という言葉に、喜多の胸がざらついた。
 「子は生まれる家も順番も選べませぬ。それに弟は寺子屋でも遅筆で……兄には到底及びませぬ」
 「それもまた遠慮であるな」
 「?」
 「兄者に遠慮しておるのじゃよ。弟が兄よりも優れてしまうと、ほれ、角が立つであろう」
 僧が両の人差し指を頭の横で突き立てた。
 「『かど』は『つの』とも読むとおり、人の諍いはまさに鬼の如しじゃ。神を司ろうが仏の弟子になろうが、所詮は人。欲に駆られた戦など、掃いて捨てるほどこの世にはある」
 喜多ははっとした。寺子屋で兄の後ろの席に座って読み書きや算術を学ぶ小十郎は、いつでも兄の筆の進み具合をちらちらと見ながら机に向かっている。それは盗み見などではなく、兄の進捗を気にしての行いなのだろうか。
 「童は、争わぬことで己の居場所を作っておるのじゃ。まこと深慮に長けた子よ。跡取りでないのなら神仏に尽くすのみが人生ではあるまい、何か別の生き方を見いだせれば良いのう」
 「わたくし達には、そのような縁(よすが)もございませぬから」
 脳裏に一瞬だけ描かれた、父・鬼庭左月斎の面影を喜多は心の手で覆い隠す。
 「そう卑下なさるな、巫女どの。人の世など、どこでどうなっておるか知ったものではない。まして童の今生修行は始まったばかり……おっと、夕刻までに友がいる寺に着かなければならぬのじゃ。まだ先がある故、失礼いたす」
 合掌をもって水の礼をした僧は、帰りしなにもう一度社殿を見やる。
 「笛の童にも会うてみたかったのう。また来る事があったら、今度は間近で笛を聴かせてもらいたいものじゃ」

 だが、僧が実際に笛の音を聴きに八幡を再訪することはなかった。
 その年の彼岸の終わりに、置賜の広い地域で疱瘡が流行したのだ。
 毎日のように治癒祈祷の参拝者が訪れる中、片倉の父や直子の肌にもついに紅斑が出現し、たちまち全身に広がってしまった。
 しかし、神にすがる者を無碍にもできない。神と人をつなぐのが神職の役割であると、夫婦は己の役目に没頭した。
 全身の斑点が膨らみ、血を吹き出すまでになっても祈祷を行う神主の念が通じたのか、罹患した者こそ多かったものの死者は他の集落よりは少なく収束したのだが。
 八幡の神主夫婦は、罹患から半月ほどで相次いで黄泉の客となった。
 置賜の者は「八幡の神主さまが身代わりになってくれたのじゃ」と口々に称えてはいたのだが、それでも彼らの足は病の嵐が過ぎ去った頃には山霧が如く遠のいた。
 神主が血を流しながら祈祷を続けた社は喜多が清めたのだが、床板に沁みついた血の跡が取り切れない箇所もある。
 神社の境内に「穢れ」や「忌」はご法度。ゆえに血の汚れが不浄とみられ、あるいは自分たちが鎮守をそうさせたのだという罪の意識からか、あるいは大勢の者が詰めかけた場所にはまだ病の種が残っていると思い込んだのか。
 生きることは、すなわち働ける身体があってこそ。彼らにとっても、結局は神仏の加護より『いま』の身の安全が大切なのだ。
 どれだけ小さな危険も冒す訳にはいかないし、義理に殉じるわけにもいかない。

 「喜多、俺は雪が融けたら出羽三山にて修練を積んでくる」
 氏子の参列もまばらで、それも遠巻きの状態で父母の埋葬が済んで五十日の区切りを迎えた日。いつもより早い雪が田畑や境内を…悲惨な流行病の痕跡すら塗りつぶした初冬の景色を社の障子ごしに望む霊爾の前で、小太郎は喜多に打ち明けた。
 「両親があのような形で亡くなった事で、この社には『穢れ』が憑いたと噂されてしまった。社を建て替えて一からやり直すにも、奉賛がなければ金子が整わない」
 「……」
 「それに……俺は父上と義母上の神葬祭の祝詞を最後まで奏上できなかった」
 小太郎のしくじりには喜多も気づいていた。氏子達が遠巻きに邸を囲んでいたため気づかれなかったが、亡くなって最初に行うべき帰幽報告…自宅の神棚や祖霊舎の封印を忘れそうになり、霊爾に魂を遷す遷霊祭でも式次第が頭から抜け落ちてしまっていた。
 のみならず、神葬祭の奏上をどこまで読み上げたか分からなくなり、同じ言の葉を何度も繰り返していたので、脇に控えていた喜多が小声で補佐しながらどうにか式次第を終えた有様である。
 小太郎が家業を蔑ろにしている間、巫女として氏子の神葬祭の手伝いに幾度も出ていた喜多が居なければ、穢れ云々以前に信用が失墜していたことだろう。
 情けない、と小太郎は唇を噛みしめた。
 「親の葬祭を禄に出来なかった事で、今更気づいたよ。両親が守ろうとしてきたものが何なのか…そして俺がいかに慢心していたか。だから、うんと修行して『禊』としたい」
 どうやら小太郎も今回の件で心を改めた様子である。これを機に神職の何たるかをきちんと学べたのならば父の御霊も浮かばれよう。
 「……そうですか。行ってらっしゃいませ」
 「ああ。社を建て直し、私自身が修行で禊を行って来たとなれば、また村の者も参拝してくれるようになるだろう」
 「社を……ですが金子は」
 疫病の後、しかも村人が寄りつかない今の状態では、奉賛を願い出たところで応えてくれる者は少ないだろう。
 「そのことなのだが……」
 小太郎は肩をすぼめて俯いた。
 「うちの遠縁が、小十郎を跡取りに欲しいと申している。庄内は湯殿山の近くにある神社だ」
 「湯殿山?」
 置賜より北にある出羽三山の一つ、修験の地として知られる場所だが喜多に地縁はない。
 「小十郎は、いずれそちらの神社を継ぐ事になるだろう。だが、私が修行に出ている間は父から譲られた成島八幡も守らねばならぬ。だから……」
 「わたくしが残ってお社を守り、小十郎が養子に出る。そういう事ですね」
 「……すまん」
 つまり、養子を取る側が払う支度金という名の金子に縋るのだ。
 裕福な家であってもそうでなくても、武家でも庶民でも。『家』にとって、子はどこまでも『駒』なのだ。
 農民の間でも跡継ぎ以外は名主や商家に奉公に出るといった話は特段珍しい事ではないし、娘だって親同士の思惑で会った事もない相手の家に嫁がされる。ひとたび飢饉となれば身売りや口減らしも横行する。
 そして、時にそれらを「神隠し」と呼んで封じてしまうことも喜多は知っている。
 貧しさを責めるのは詮無き事であるくらい、子のやり取りはありふれた話なのだ。
 それに比べれば、跡継ぎを前提とした養子縁組とは何と恵まれている話だろう。
 「小太郎どのが気に病む事ではございませぬ。小十郎と離れるのは寂しゅうございますが、立派な神主となってどこぞのお社を守ってゆくのでしたら、それは小十郎にとって幸せな事でしょう」
 「そう言ってもらえると心が楽になれる。ありがとう」

 それから一年経った年の春、小太郎は吉方に新築した八幡の遷宮にかかる祭礼を終えると、北へ修行に旅立った。
 小太郎と入れ替わるように、庄内からは小十郎の養父母となる中年の神主夫婦が迎えに来る。
 「小十郎、今日からこちらの方々があなたの両親です。さあ、ご挨拶なさい」
 この日のために喜多が仕立てた白い着物に松葉色の袴を身につけた小十郎は、あらかじめ練習しておいた所作で深々と頭を下げる。
 「片倉小十郎にございます。どうぞよろしくお願いいたします」
 「おやおや、随分と賢い子じゃ。小太郎の童時代とは大違いじゃのう」
 小太郎は「やんちゃ」だったから。紫色の袴姿の小十郎の養父は、養母と顔を見合わせて笑う。明るく気さくな人柄に、喜多は安堵した。
 「庄内は神仏に守られた神聖なお山が護ってくださる土地じゃ。神に仕える心を忘れずにおれば、天照大神のご加護をいただいた節目正しき子に育つでしょうぞ」
 「そうそう。出羽三山には最上のお殿様や姫様もお詣りにいらっしゃるのですよ。遠くは藤原氏の方々もお詣りされたとか。とても霊験あらたかな土地なのです」
 「そうなのですか……」
 「ただ、それゆえ厳しい自然と向かい合わねばなりませぬ。庄内は置賜よりも夏の暑さは厳しく、冬は凍える寒さと雪深さで歩くことも儘ならない世界。生半可な気持ちでお山に入り、途中で修行を投げ出す者や命を落とす者も毎年のように居るのです」
 小太郎は大丈夫だろうか。夫婦は早速案じている。だが当人が意気揚々と出立していった今はもうどうにもならない。
 「覚悟いたします。よろしくお願いいたします」
 むしろ喜多の方がはらはらするような話を聞いても、小十郎は落ち着き払って頭を下げた。その様子には継両親になる夫婦も感嘆する。
 「よき心がけじゃ。……では、我々は成島八幡の奥津城(神道の墓地)に参拝してから庄内に戻ります。姉上どの、小太郎が戻るまで八幡を頼みますぞ」
 「心得ました。しかと守ってまいります」
 「小太郎が戻ったら、あなたも時々は小十郎の顔を見にいらっしゃいな。離れて暮らしても、同じ片倉家の者ですもの」
 「ありがとうございます」
 「では姉上、行ってまいります」
 養父母に手を引かれて八幡を旅だっていく小十郎は、喜多の顔をじっと見つめて深々と頭を下げた。
 鳥居をくぐる瞬間、何かに気づいたように小十郎が南方の空を見上げた。
 「どうしましたか?」
 「いえ。龍が空を舞っていたような気がしたのですが…気のせいでした」
 その言葉を残し、小十郎は振り返らずに生まれ育った八幡を出ていった。


 たった一人の血縁を見送ることが寂しくない訳がない。
 しかし、見送ることが弟のため…兄に遠慮せず己の力を発揮できるのならば、名残を惜しんでいる場合ではない。
 小十郎はこのまま神職としての人生を全うすることが全てであり、それ以外の生き様など考えられない。
 (長い人生、何が起こるかわからない、か……)
 かつて出会った旅の僧の言葉がふいに思い出される。
 (どのような人生であろうと、小十郎には鬼庭の父上のようにはなってほしくない)
 脳裏をちらりと過ぎった父親の顔を、心の霞でかき消して。
 (いえ、小十郎は鬼庭の血筋ではないのですもの、このまま居なかった者として静かに暮らすべきだわ)
 武家は修羅道であり伏魔殿である。妻子は駒であり、思惑次第で道具のように捨てられる。自らの手も血に染まる。
 小十郎は、鬼庭の父のような人生を歩まないように。
 喜多がそんな祈りを小十郎の背中に投げかけた時。

 篠笛の音が山間にこだました。
 歩きながら、小十郎が吹いていたのだ。
 村の幸を言祝ぎ、禍が治まるよう祈り、祈りを神に届けるために吹き続けた音色。
 幼い小十郎なりの喜多への別れの挨拶であり、世話になった村への餞別であった。

 笛の音が遠くなり、小さな背とともにかき消えた時。
 喜多はその場にしゃがみこんで背を丸め、そのまま日暮れまで動けなかった。
 耳に刻まれた笛の音が、何度も心を反芻している間は。

(つづく)
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