『背中』
文字数 2,000文字
「わたし、大人になれなかったんだ」
夕暮れ。一級河川。土手に座り込み、流れゆく川を眺めながら、スーツ姿の彼女は残念そうにそう言った。
「世の中って、わたしには難しいんだよね。他人は結局色眼鏡で見てくるし、わたしはどうでもいいと思っていることでも、他人は何故だか気にしてくるし」
言いながら、彼女は煙草を取り出して銜えた。フィリップモリスのロング。ひと口吸うと、甘いバニラの香りが漂った。
「探偵さんはきっと、うまくやってこられたんだろうね。そんな尻尾が生えていても、わたしとは全然違う」
探偵尾賀 叉反 は黙って懐 からハイライトのソフトケースを取り出した。一本銜え、煙草に火を着ける。煙を吸い込むと馴染んだ味が口の中に広がる。
そよ風が吹いた。叉反の下半身、仙骨のあたりは普通の人間と違う。そこからは腕二本分の太さがある、長く黒みがかったヤエヤマサソリの尾が生えている。
「尻尾が生えた人間なんて、今時珍しくもないよ」
紫煙を吐き出して、叉反は言った。
川のほとりには釣りに興じる老人や、遊び回る子どもたちの姿があった。
「わたしに顕 れた部分なんて、大人になれない理由にはならないかな?」
「そんな意味じゃない。人には事情があるよ。越えるべき課題だって、人それぞれさ」
「そうだね。そうだとは思う。事情があるって事なら、わたしの事情は結局、普通の人とそんなに変わらないって言われたよ。ようするに、越えられて当然って事」
彼女の細い指が動いて携帯灰皿に煙草の灰を叩き落とす。
「半魚人ってあだ名だった。子どもの頃。うっかり背中を見られちゃって」
叉反に蠍の尾が生えているように、彼女の背中には一面に魚の鱗が生えていた。マゴイの鱗だ。叉反や彼女のような人間を、今の世の中では《フュージョナー》と呼ぶ。身体に、動植物の一部分が顕現した人間の事だ。
「あの頃はわたしのほかにフュージョナーがいなくてさ。クラスの子に引っ張られて、川にぶち込まれた事が何度もあった。泳げないのか半魚人、ってさ。だからわたしも、そうやっていじめてくる奴らの事、川に引き摺り込んでやったんだけど、そしたらそれが問題になった。やり過ぎだってさ。その時はめちゃくちゃキレたけど、結局、引っ越してうやむやになっちゃった」
フィリップモリスの香りが漂う。川辺で遊ぶ子どもたちの笑い声が聞こえる。
「中学の時にさ、フュージョナーの子どもが自殺してすごいニュースになったの。遺書が見つかって、大騒ぎだった。あの子は抵抗もできなかった。わたしのやられた事はひどい事だと思うけど、あの子はわたしより繊細だったんだろうし、わたしには耐えられない事もされていた」
彼女はそこで眼鏡を直した。煙草を吸い、夕日の照る川を見つめる。
「ニュースはすぐに話題にならなくなっちゃったけど、わたしはずっと覚えていた。何年も経って、進路か何かが原因で親と揉めた時に言われたの。あんたなんか、背中に鱗があるだけの普通の人間だって。言い訳していないで、しっかりしろって」
ロングサイズのフィリップモリスが、短くなりつつあった。
「わたし、半魚人だったのにね」
煙草が携帯灰皿に荒く詰め込まれた。彼女の細い指が柔らかな携帯灰皿をぎゅっと握り締めた。
「会社やめちゃったの。あのクソ女に、フュージョナーだから、可哀想に見られるから周りが甘やかしてくれてんじゃないのって言われたの。だからあいつに水ぶっかけて職場飛び出したの。ぎゃあぎゃあ叫んで、『辞めます!』っつってさ」
「探すのは大変だったよ」
叉反がそう言うと、彼女は少しだけ笑った。
「超逃げたもん。まじで。死んでやろうと思って。お母さんが探偵雇うなんて思いもしなかった」
「捜索願だって出していたよ」
叉反は自らも土手に腰を下ろすと、携帯灰皿に煙草の灰を落とした。
「見つけられてよかった」
「見つかっちゃって、どうなるの。真っ当に生きられやしないよ。わたしはこの世が憎くて仕方がないよ。わたしに苦しめって言うこの世の中が」
「この世は君を睨み付けてはいないよ。君の不幸を望む大きなものなんてない」
「そうかな。それでも世の人間の多くがわたしの不幸を望めば、わたしに抵抗する手段はないんじゃない?」
夕日が沈もうとしている。
「背中に生えたのが羽ならよかった。鳥の羽なら天使だったし、蝶の翅なら妖精だった」
「そしたら、君はここにいなかった。今の、君だけの大人になった君は」
蠍の尾が地面に触れた。
「探偵を続けられたのは尻尾があったからだ。なければいい目を見たかもしれないが、生憎 今以上の人生は思いつかない」
膝を折り曲げて、彼女は顔を伏せていた。
「……大人になる意味はある?」
かすかな声が問う。
「自分が大人なら救える人がいる。自分のままで、大人として」
吸いさしの煙草を携帯灰皿に仕舞い、叉反は隣に目をやった。
スーツ姿の女性が、やがて、そっと立ち上がった。
夕暮れ。一級河川。土手に座り込み、流れゆく川を眺めながら、スーツ姿の彼女は残念そうにそう言った。
「世の中って、わたしには難しいんだよね。他人は結局色眼鏡で見てくるし、わたしはどうでもいいと思っていることでも、他人は何故だか気にしてくるし」
言いながら、彼女は煙草を取り出して銜えた。フィリップモリスのロング。ひと口吸うと、甘いバニラの香りが漂った。
「探偵さんはきっと、うまくやってこられたんだろうね。そんな尻尾が生えていても、わたしとは全然違う」
探偵
そよ風が吹いた。叉反の下半身、仙骨のあたりは普通の人間と違う。そこからは腕二本分の太さがある、長く黒みがかったヤエヤマサソリの尾が生えている。
「尻尾が生えた人間なんて、今時珍しくもないよ」
紫煙を吐き出して、叉反は言った。
川のほとりには釣りに興じる老人や、遊び回る子どもたちの姿があった。
「わたしに
「そんな意味じゃない。人には事情があるよ。越えるべき課題だって、人それぞれさ」
「そうだね。そうだとは思う。事情があるって事なら、わたしの事情は結局、普通の人とそんなに変わらないって言われたよ。ようするに、越えられて当然って事」
彼女の細い指が動いて携帯灰皿に煙草の灰を叩き落とす。
「半魚人ってあだ名だった。子どもの頃。うっかり背中を見られちゃって」
叉反に蠍の尾が生えているように、彼女の背中には一面に魚の鱗が生えていた。マゴイの鱗だ。叉反や彼女のような人間を、今の世の中では《フュージョナー》と呼ぶ。身体に、動植物の一部分が顕現した人間の事だ。
「あの頃はわたしのほかにフュージョナーがいなくてさ。クラスの子に引っ張られて、川にぶち込まれた事が何度もあった。泳げないのか半魚人、ってさ。だからわたしも、そうやっていじめてくる奴らの事、川に引き摺り込んでやったんだけど、そしたらそれが問題になった。やり過ぎだってさ。その時はめちゃくちゃキレたけど、結局、引っ越してうやむやになっちゃった」
フィリップモリスの香りが漂う。川辺で遊ぶ子どもたちの笑い声が聞こえる。
「中学の時にさ、フュージョナーの子どもが自殺してすごいニュースになったの。遺書が見つかって、大騒ぎだった。あの子は抵抗もできなかった。わたしのやられた事はひどい事だと思うけど、あの子はわたしより繊細だったんだろうし、わたしには耐えられない事もされていた」
彼女はそこで眼鏡を直した。煙草を吸い、夕日の照る川を見つめる。
「ニュースはすぐに話題にならなくなっちゃったけど、わたしはずっと覚えていた。何年も経って、進路か何かが原因で親と揉めた時に言われたの。あんたなんか、背中に鱗があるだけの普通の人間だって。言い訳していないで、しっかりしろって」
ロングサイズのフィリップモリスが、短くなりつつあった。
「わたし、半魚人だったのにね」
煙草が携帯灰皿に荒く詰め込まれた。彼女の細い指が柔らかな携帯灰皿をぎゅっと握り締めた。
「会社やめちゃったの。あのクソ女に、フュージョナーだから、可哀想に見られるから周りが甘やかしてくれてんじゃないのって言われたの。だからあいつに水ぶっかけて職場飛び出したの。ぎゃあぎゃあ叫んで、『辞めます!』っつってさ」
「探すのは大変だったよ」
叉反がそう言うと、彼女は少しだけ笑った。
「超逃げたもん。まじで。死んでやろうと思って。お母さんが探偵雇うなんて思いもしなかった」
「捜索願だって出していたよ」
叉反は自らも土手に腰を下ろすと、携帯灰皿に煙草の灰を落とした。
「見つけられてよかった」
「見つかっちゃって、どうなるの。真っ当に生きられやしないよ。わたしはこの世が憎くて仕方がないよ。わたしに苦しめって言うこの世の中が」
「この世は君を睨み付けてはいないよ。君の不幸を望む大きなものなんてない」
「そうかな。それでも世の人間の多くがわたしの不幸を望めば、わたしに抵抗する手段はないんじゃない?」
夕日が沈もうとしている。
「背中に生えたのが羽ならよかった。鳥の羽なら天使だったし、蝶の翅なら妖精だった」
「そしたら、君はここにいなかった。今の、君だけの大人になった君は」
蠍の尾が地面に触れた。
「探偵を続けられたのは尻尾があったからだ。なければいい目を見たかもしれないが、
膝を折り曲げて、彼女は顔を伏せていた。
「……大人になる意味はある?」
かすかな声が問う。
「自分が大人なら救える人がいる。自分のままで、大人として」
吸いさしの煙草を携帯灰皿に仕舞い、叉反は隣に目をやった。
スーツ姿の女性が、やがて、そっと立ち上がった。