第1話

文字数 1,390文字

 この不吉な予感の季節、忍び寄る鈍い胎動、さんざんわめく太陽の照り、ソーダ水の沫と消え、とんとん階段を駆け上がる地球温暖化の影で、ひんやりした間取りの床に、体温の冷めやらぬのを、少しずつ移し、好意や気持ちも薄れかち沈んでいく、突然の失踪の果て。

 書置きには、

「夕暮れにあなたを思い出し、しかし逢うこともかなわず、いつしか存在の薄れ行くのに怖れ、いっその事とこの部屋の花瓶ごと実家に持って帰ることにしました。」

 夏には日照らいの賛歌が隅々まで浸透し、郊外であればセミ、ビル群の空調音、ちんちん電車のレールに頭を横付け、今日来た帰り道に同じ地蔵様を拝む。陽炎に珍客を呼びつけ、これが幻覚ってやつで、夢の一夜の寝付けなさや、蚊の羽音の辛抱ならないを生み出す永年製造工場なんだ。アニメ化前の漫画の登場人物の声を想像して食い違いに気を揉んだ。

 また書置きには、

「夕暮れと言えど、この時期の暮れ難きの憎らしさに悶とするのに、忘れえぬ君を、更に憎らしく思った際、感謝の言葉が滲み出た所存に御座います。ありがとうございました。一晩考えて、思い出のメモ帳を捲り、残しておきました。明日、発ちます。」

 横添えには熊のプー太郎の絵が描いてあった。机上の仕事をほったらかして横んなって徳利を持ち上げている熊さんの絵で、腕枕が大層気持ちがいいのか、酒の味にこそ悦を得たのか分からないが、微笑んでいる絵であった。吹き出しに、ねえちゃんおそいよー、と書いてあり、このキャラクターは長電話時に偶然メモ書きに生まれた、ステレオタイプという抽象義語の擬獣人化されたものだった。書置きにはいつもこいつが付いてきた。

 静まり返った野外灯、一方通行で人通りの少ない横道、この時間帯には東京に住んでいることを忘れる。よし、ビールを飲もう、するとプー太郎が冷蔵庫を開けて、電気代が掛かるねえ、じゃあアイリッシュの地ビールがあったろう、輸入費が大変なんでさあ。パラパラ漫画の最後には背中を掻いたプー太郎が向こう向きでイクラの粒を数えていた。彼女が最後にしてくれた悪戯は思いの他早く、惜別の念も草し、短い間に更け、ゴミ箱に棄てられることとなる。

 その屑篭には映画の半券やテーマパークのチケット、昔使った携帯電話、フロッピーディスクが混在している。何曜日に出すゴミなのか分からないのでプー太郎に聞いてみた。何曜日かは分からんけど、明日にでも、交通費ぐらいはあんやろ、その人しか分からない、答えの出ない迷路みたいな東京駅で、いつもの待ち合わせ場所でキョロキョロすんのに、おまいさんの苦手な人ゴミってやつの中で、昔捨てた大切なもんも落ちてたりするんやで。プー太郎はプシュッとプルタブを開け、寝そべった。何かムカついた。

 翌朝、その思い出の場所には彼女が立っていた。どうして分かったの、すぐには分からなかったよ、自動改札がカシャンカシャン忙しなく二人の沈黙を数えさせた。彼女の大きなバッグには入りきらない夏の絵日記に、一ページ、真っ白な空欄、自分の名前を書いて予定を確かめた。プー太郎の言うには、たまにはサーモン以外も食いたいねえ、グルメだもんで。彼女が平手打ちをして泣きベソを掻いたが、互い言い訳はなく、また元の日差しに帰って行く。プー太郎は、花瓶にはそれなりの花を飾りんや、吐き捨て寝返りを打った。


              〈完結〉

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