Interlude―換装

文字数 4,632文字

——お前はどこにも行けないよ。

締め切った暗い部屋。TVの野球中継を垂れ流し、総菜パックの底に残ったメンチカツの衣をつまみながら、あいつは背中でそう言った。娘の顔を見ようともしなかった。
嘲笑でもなく憐憫でもなく、ただ事実を述べる口調で。
いつだって、あいつの言葉は呪いみたいに私を蝕んだ。

——生まれ変わったら何になりたい?

あいつの機嫌が悪くありませんようにと神仏に祈るのが日課だったあの人。あの人は幼い私の耳元に、何度もそう問いかけた。声を殺して泣きながら。
生きてる人間にそんなこと聞くんじゃねーよとその都度苛立ったが、あの人は「どこにも行けない」自分を受け入れているのだと思うと、少し可哀相な気もしていた。

だからあの人が——母親が無言で家を出て行ったとき、驚いた。
あの人はどこかに行ける人だったのだ。
三行半さえつきつけず。立つ鳥跡を濁さず。母親は華麗に軽快に、愛想を尽かして出て行った。

あとにはゴミみたいな親父と、産廃みたいな私が残った。

・・・

弁当パックに均等に飯をつめる作業を終え、ダッシュで4限の講義に出席。
講義を残り15分ほど残したところで退室してレジ打ちのバイトに向かう。
最寄りのいなげや(注:関東地方南部を中心に展開するスーパーマーケット)のパートさんは、結婚・出産・子育てを経験した歴戦の女戦士ばかりだが、社会経験皆無の私にも甲斐甲斐しく接してくれる。

「アオイちゃん、休憩室にチョコパイあるから持って行ってね」
「ありがとうございます」

私は休憩室のロッカーに鞄をぶち込み、素早く髪を束ねる。女子大生にしては色気のないポニーテール。迫る就活のためにもう少し清潔感を重視すべきかもしれない。

「あ、あたし最近こういう甘いもの駄目なのよね。あたしの分もアオイちゃんにあげる」
「なぁに真中さん、ダイエット中?」
「そうじゃないんだけど。歳かしら。和菓子とか餡子はいけるんだけど」
「やぁだそれただの好き嫌いじゃない」

パートさんの愉快な会話をBGMにエプロンをまとい、チョコパイの個包装をふたつ手に取る。こういうのは愛嬌が大事だ。たいして欲しくもない本音はひた隠し、朗らかに告げる。

「チョコパイ2個いただきますね!」

どうぞ~という間延びした返答を待たず、チョコパイをロッカーにぶち込み、休憩室を出る。バックヤードの壁は薄いから、彼女達の雑談はその後もしばらく聞こえた。

「健気よね、アオイちゃん。今度ごはん作ってきてあげようかしら」
「短大生だがら今年就職活動って聞いたわよ」
「福祉系の学部でしょ。駅前の特養とか受けるのかしら。細かい所に気がつくし、介護職向いてそうよね」
「向いてそうというか、実質、毎日介護しているようなものでしょうに」
「ああ……麻木の旦那さんね」

——麻木の男はクズばっかりだ。

これはクズ人間代表・親父本人の言葉なのでおそらく正しい。
古くは神職の家系であったと聞く麻木家は、いまやその高貴なご由緒は完全消滅し、親戚間の繋がりもない。もしかしたらあるのかもしれないが、その場合、私と父はお呼びでない。それもそうだ。誰だってあんな穀潰しの優男と関わりを持ちたくなんてない。……異常なまでの面食いでなければ。

親父は近所でも有名人だった。

定職に就かず求職もせず、ふらりと家を空けたかと思えば、数日後に大金を抱えて帰ってくることもしばしば。かと思えば、数週間一歩も部屋から出ず、ただ食って寝ているだけのときもある。絵に描いたような放蕩者。そんな性分だから当然子育てなんて興味の外で、私のことは、多分便利な小間使いか何かに見えているんだと思う。

協調性の欠片もない人だ。皆が、ごみ捨ての日を守らない親父を指摘した。
倫理観の欠片もない人だ。皆が、公園の遊具で煙草を消す親父を指摘した。
だけど指摘するだけだった。
親父の視界に入らないよう、安全圏から親父を指さすだけだった。
警察に突き出した後の報復を怖れているとかそういうのじゃない。
平穏な街の小火。住民の退屈しのぎ、兼、目の保養がいなくなっては困るから。

皆が内心、親父の姿を見たがっていた——親父はハンサムだったから。

・・・

どうしたらあの顔を潰せるだろう。
(注:親父には世間体などないに等しいのでもちろん社会的な意味ではない)
私は度々脳内で、あいつの顔をぐちゃぐちゃに歪ませるデモンストレーションをおこなっては、現実的でないと落胆した。親父は表情に乏しかった。笑顔は知らないし、泣き顔なんて想像もつかない。いつも人を見下すような目をしていて、それは目鼻立ちの美しさと相まって、扱いづらい刃物のような印象を抱かせた。

親父は食事のときだけTVに背を向け、こちらを向いた。
私と親父は良好な関係ではなかったけど、食事はいつも一緒だった。家族団欒とかじゃない。それが一番都合がよかっただけ。無味乾燥な夕食を終え、NHKの動物番組を音だけ聞きつつ食器を洗っているうちに、テーブルに置いたチョコパイの包みが消えていた。

(あいつが勝手に食べたんだ)

胃の奥がちりちりと疼いた。
夕食後の楽しみにとっておいたわけでもない、むしろ、存在さえ忘れかけていた2つのチョコパイ。それなのに、当然のように奪われるとどうしても腹立たしさが募った。
掴みかかってやろうか。
私は唇を噛み、躊躇いを振り払い、決死の覚悟で——床に転がるTVのリモコンをほんの少しだけ蹴とばした。リモコンは親父の手の甲に少しだけ乗り上げ、すぐに床に落ちた。

親父の目が私を映す。
親父の手がリモコンを掴んで、手首だけでそれを放つ。リモコンが宙を舞う。

——なに。

それが私の言葉だったのか、親父の言葉だったのか。今ではもう知るすべはない。
ともかく私は、自分の額から流れる鮮血に驚愕した。血が出ていた。右目の上あたりがじんと熱を孕んでいる。リモコンが私の顔面を直撃したのだ。
親父はリモコンを蹴って寄越された所以を、淡々と問いかける。

——何か言いたいこと、あるの。

TVの声は、2000キロもの長距離移動をする蝶を取り上げていた。渡り鳥のように日本各地を転々とする黒翅の蝶。その蝶は、なぜ危険を冒してまで旅に出るのか。

「わた、しは……」

声が震えた。日ごろ腹の奥で渦巻いている罵詈雑言が、嘘みたいに鳴りを潜めていた。膝が笑うと血が頬を伝った。私は何に怯えているんだろう。親父は座したまま、追撃の動作はおろか身を乗り出そうともしていない。親父は私に暴力をふるわない。昔からずっと。

TVのナレーターが言う。実は、その蝶の旅の理由は明らかになっていないのです、と。適温の環境を求めてか、はたまた、各地域に咲く特定の花の蜜を求めてか。旅の理由はわからない。だけれど、理想の地を求めてどこまでも行く。どこまでも遠くへ。

「遠くに、行く……こんなところ、出て行く」

誰も私のことなんか知らない土地へ行く。初めて夜の仕事を入れたとき、客の男が私を憐れんだことを思い出す。あの可哀相な麻木の娘さんか。顔から火が出るほど恥ずかしくて、悔しくて、惨めだったときのこと。あんな悲劇のない場所へ。

蝶に感化されたわけじゃないが、私はそう言った。
親父はしばらく、表情の読めない目で私の額の傷を眺め、

——お前には無理だよ。

は、と息の塊を噴き出した。あれを笑みだというならこれ以上の絶望はないと思った。

——お前はどこにも行けないよ。
——このままこの街で適当に就職して、適当に暮らして、適当に死ぬんだよ。

親父はつまらなさそうに吐き捨てると、TVのほうへ向き直った。
その画面には、長旅で翅が破損した蝶の無残な姿が映っていた。

・・・

家を出ていくと言った手前、行動せざるを得なくなった私は、額の傷を気にしつつ、それでもどこか解放された気持ちで旅の計画を練った。

圧倒的に足りないのは軍資金。深夜にコンビニのバイトを追加した。
それから、パートの真中さんが通勤に使っているスクーターに目を付け、移動の足にバイクを選んだ。好みで言えばもっと厳ついバイクがよかったが、お財布と交渉した結果、原付二種の部類となる100CC超のスーパーカブにした。正直なところ、決め手は、その原付バイクの目にも鮮やかな青い塗装。晴空のような青だった。

——そんなもの、自損事故ですぐに壊すに決まっている。

親父は裏庭に停めたバイクを一瞥してそう言ったが、取り上げたりはしなかった。
親父は娘のあらゆる行動、ひいては私に関心がなかったから。


いなげやのバイトを終えて、駅前のセブンイレブンに向かう夜中の雨道。
原付バイクでの遠出は旅立ちの日までとっておきたくて、私は、雨の日は徒歩でバイト先へ向かうことにしていた。
人通りのない真っ暗な舗装路。
透明なビニール傘を叩く雨音に、ふと、ノイズが混じる。

「……え」

違和感に振り返った瞬間、五感へ大量の情報が流れ込んだ。

眩しい——ヘッドライトが私を照らしたかと思えば、体はその光源を越えて宙に浮いていた。雨粒が痛い。傘より早く着地した先は車のボンネットで、今度はどん、という重い音と、確かな衝撃が体を貫いた。
次の瞬間、私の左目には地面が映っていて、数十メートルの舗装路をタイヤに引きずられるように這っていた。やがて運転手がハンドルをきったのか、私の体は遠心力で少しだけ路肩のほうへ投げ捨てられ、移動をやめた。

痛みは感じなかった。ただ雨が冷たかった。
リモコンを投げつけられたあの時のほうが、よっぽど痛みははっきりとしていた。きっと半身はぼろぼろに傷つき、顔の半分はぐちゃぐちゃに崩れているだろう。鼻先の水溜まりが赤黒く染まる。声は出なかった。
ややあって、車のエンジン音が遠ざかる。雨脚が弱まったのか、外の音が小さくなると、自分の心臓の音がかえって明確に聞こえた。

私は死ぬんだ、と思った。

ドラマみたいな大型トラックじゃない、ただの普通自動車に引きずられて、柔な肉体はぐしゃぐしゃになってしまった。死ぬんだ。旅に出るという志も半ばに、無様に車に轢かれて。親父の言葉通りになってたまるものかと奮闘した日々の熱量が消えていく——

ふと、親父の言葉を思い出す。

——このままこの街で適当に就職して、適当に暮らして、適当に死ぬんだよ。
——そんなもの、自損事故ですぐに壊すに決まっている。

どうだ。親父の呪いの言葉は、何ひとつ的中しやしなかったじゃないか。
私は就職活動なんてせず、この街で家庭を持つことさえせず、若い身空で死ぬ。
私の原付バイクは裏庭でその青色を輝かせながら、雨が上がるのを待っている。

ざまあみろ、ざまあみろ、ざまあみろ!

ぴくりとも動かない表情筋を持ち上げ、ほくそ笑む。実際に笑えているのかはわからないが、それでも勝ち誇った気持ちで、私は高らかに笑った。

血か涙か、雨か体液かわからないもので視界が滲み、空元気にも疲れたころ。
私は少し寂しくなって、まだ1,000キロも走らせていない原付バイクを想った。悔しいとかやりきれないとか、そういう陳腐な言葉じゃ言い表せない、どこか申し訳ないような気持ちが麻酔のように意識を溶かす。

——ねえ、アオイちゃん。生まれ変わったら何になりたい?

微睡の中どこかから、懐かしい人の声がした。
今なら聞いてくれてもいい。むしろ、今聞かないでいつ聞くのだ。

私はアスファルトの上、気持ちだけ目蓋を閉じて幼子のように夢想する。
どこまでも遠くへ行ける力と、
リモコンを投げつけられた程度では壊れない体。
そして、行く先に晴空をもたらすような青色の——
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登場人物紹介

シデ

原付バイクで旅をする青年。

人の顔を認識することができず、まれに、人以外のものを「人」と認識する。

”アオイさん”

青い塗装の原付バイク。

車種はホンダ スーパーカブ110。事故死した女子大生・麻木アオイの遺品。

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