第3話

文字数 4,209文字


    凍った花




〈氷の風船〉


彼の家は小さい湖のほとりにある。その湖もこのところ凍るようになった。それも全面氷結さえありえそうだ。庭の草にはこの朝びっしりと氷が取り付き、まるでカプセルの中に入ってしまったようだ。
彼は白い息を吐きながら廊下を歩いてくる。そして庭に咲いた一輪の花を見つける。凍り付いた金属の花。彼の表情が途端に曇る。「私にどこへ行けというのだろう」その時、湖中を閃光が走って行き、その後でくぐもった爆撃音。まるで潜水艦から砲弾が放たれたような音だ。「いったい湖底で何が起こっているのだろうか」彼が怪訝に思いながら湖を見ていると湖面の一部が丸く持ち上がっていく。そしてその中から大きな風船が湖上に現れた。しかもそれは凍っている。
そして凍ったまま飛び立って行った。「これはどこの風景だろう。ここのだとしたら、おかしなことだ」庭に咲いていた花は何時の間にか二輪になった。やはり凍っている。彼が手を差し伸べると二輪は浮き上がり、彼の周囲をくるくる回った。「来いということか。湖へ行けということか」
彼は花を従えて湖岸まで降りて行く。花はそのまま湖を渡って行った。彼も花の後を追って湖上に足を踏み出す。「これで、ここはもう私がいたあの湖ではなくなった。さあ華よ、ここがどこか教えてくれ。或は私がこれから行く場所がどこなのかを」背後では火山が爆発し、大地が揺れている。それは彼の目が捉えた何かの投影だ。だが、その凄まじい音と共に湖は凍っていった。そして彼の一足ごとに。そして、その一歩ごとに、どこかの時間がくるくる回っていくのを彼は感じる。先導する花たち。その瞬間、彼にはこれがどこかから来た記憶に違いないと思う。そして、その中を堂々巡りし迷っている心。「厄介だな。記憶の主は今の私を知らないような気がする」そう、今彼がどこにいるのかさえ、そして何のためにそうしているのかも。
彼は思う。このように考えるのは恐ろしい事なのだろうかと。それはかつてどこかにいたもう一人の彼。彼はまだそこにいて何かに囚われている。それは果てしなくなってしまった誰かの依頼かもしれない。誰かがその囚われから彼を目覚めさせねばならないが、誰にもそれができないでいる。それでもいつか彼は解決らしきものを見つけるだろう。しかし・・・、花が迎えに来た、なぜだろう。
彼はいつからかもう一人の彼を感じるようになっていたのだ。それは例えば今の彼には理解しがたい信号を受け取った時にふと感じる。それは自分がこの世界に現れるずっと以前から彼はすでにどこかに存在しており、そこから何らかの事情で今の彼に通信したという思い。そして、もう一人の彼はその後死んだのだろう。或いは今もどこかに存在しているのか。彼が時々受け取る意味の分からぬほどに微細な振動。それを受け取った時に感じる重々しく暗い思い。そして苛立ち。それは通信士が通信をうまく送れない時に感じる思いに似ている。
しかし彼にはどうすることもできない。今の彼がその考えを深めてもその先にあるのは宇宙の解き明かせぬ闇と同じで回答ではない。しかし、そうであっても呼ばれたなら行かなくてはならないだろう。定かではない思いのままでも。そして今日も・・・、金属の花は彼を導いていく。彼は自分を誘う花に思いを馳せながら、どこかも知れぬ場所へと足を踏み入れていく。しかも花は凍っている。私たちは心配した。だが彼は、きっと鳥の続きだろうと思い、もっと気楽に考えることにしたようだ。気分も良さそうだ。楽しそうでさえある。
私たちは浮かび上がった風船を指差し合った。その中の空間に何かが見えたのだ。彼にも見えた。あれは別世界、いつものように彼の特別な場所なのだろうか。それとも何者かが逃げていく場所なのだろうか。
彼は瞑想へと入っていく。同時に、凍って行く湖上を笛の音が響き渡った。そういえば、先程彼が懐から笛を取り出して見ていた。とすれば、彼の吹く笛の音だろうか。竜の夜を吹き抜けて行ったあの笛の音。しかしそれに答えるようにどこからか立ち上がってくるのは、はっと胸をつくような声。声のない叫び、ため息、苦しい呼吸音。亡霊たちが立ち現れるのだろうか。どちらにしても、そこはもう、ただの凍っていく湖ではないだろう。私たちはあらゆる記憶を呼び覚まそうと、みなその胸を叩いた。そして誰もがどこかに持っている、いつも持ち歩いている、永遠に何かを、誰かを、慕い続ける想いが、その記憶の周りをうろついていくのを感じた。



     〈子供たち〉


子供たちの声がした。「私たちは生まれてはいけないの?」すぐにそれに答える声がした。「生まれたいの?」「わからない。生まれることはできないの?」「どうして生まれたいの?」「わからない。ただ、どこかへ行きたいだけかもしれない」「いつも、そう思っているの?ここではないところと?」「そう、ここではないどこか」「それは理想の場所?」「理想って何?知らないのよ、私たちはまだ何も。何も知らないから悲しいかどうかも分からないの?次はそう聞くでしょ?
みんなそうだから。」「だから生まれたいの?」「ただあそこへ行きたいの」「行って、知りたいの?」「いえ、本当はどうでもいい。ただ何かしたくなっただけ」
「こんなお喋りでもいいの?」「そうかもしれない。こんなんでも。でも私たちは生まれられないの?」「さあ、わからない。誰かが知るようなことでもない」
子供の相手は誰だろう。神だろうか。それとも子供の前にだけ現れる神。声だけしか持たずに来る神。子供たちへの贈り物は何一つ持たない神。しかし子供はその声を受け取るだろう。あれは最高の贈り物ではなく最古の贈り物かもしれない。いや、私たちは受け取れない。受け取るのは子供たち。でも、どうなるのだろう、それから先は。それから先?それは神の仕事ではない。それは別の何かがすること。そう、いつも別の何か。それは手に一杯の贈り物を持ってやって来る何か。そして微笑む。「全部君のもの。きっといいことが起こるぞ」
それは素晴らしいことに思える。しかもそれは恐ろしいことにも思える。とにかく、怖くても行かなくては貰えないもの。それが何か知らなくてもいいのかと考えても仕方のないもの。それで、一歩踏み出すのか?勇気がいるのか?さあ、知らない。というか、忘れた。誰もが忘れてからやって来る。贈り物が何か忘れてからここに来る。



     〈凍った花〉


彼はまたかと思う。「霧が立って何かを隠そうとしている。」「いや、霧ではないな、ここまで降りて来た雲だ」と彼。
「白き雲よ」雲の中に彼が見えた。そしてそれを取り巻くのは青い世界。「ああ、蒼穹よ、その果てよ」私たちは歌った。「ああ、清涼な世界よ。」しかし私たちは恐れねばならないのかもしれなかった。いや、ここまで来たからにはどうでもいいこと。
「ブルースカイ」それは私たちの気持ちだろうか。そこに神秘的な白い島々を浮かべたブルースカイ。そこに彼は朝日のようにやって来る。朝の爽快な目覚めのように。そして空が降りて来て私たちを取り囲む。
それとも私たちは古い記憶のようにやって来たのだろうか。ならば、そこから喜びだけをより分けても?それとも全てを思い出すのだろうか。その時、彼は私たちを見つけ、鳥たちに呼び掛けるように言った。歌っておくれと。しかし花は凍っている。だから、何かがどこかで違っている。しかし、凍ってはいても金属の花たちだ。
私たちは歌った。「雲が荒波のように沸き立っていく。地上の海と変わらない。一つ 二つ ザザー ザザー。いつも何かを数えていくのもと、そして時に眠れとささやくのも、金属の花は夜を導く花となった。世界に向かって本性を現せと言う花に。永遠に若い彼の瞳がそれを見て、巻き取る。昇ってきた陽の光に月が近づいて行く。」
私たちは歌った。「彼は右手に月を持ち、左手に太陽を持つ者のようにやって来た。迷子の風船がその間を彷徨っていく。それは凍り付いている。あ、捕まえた。彼が捕まえた。おお、時間よ、回れ 回れ、新しい時間よ、どこへ行くのか。どこへ導くのか。いや、導くのは金属の花たちだ。だが、その時、声がした。神が声だけ持ってやって来たのだろうか。別の声がそこに混ざっていく。それとも誰かの声を持ち去ろうとしているのだろうか。彼が声を追っていく。だがその時、氷の風船が割れた。」
私たちは歌った。「地上から何かに撃ち落された。だが、受け取れ、今こそ受け取らねばならない。何がそこに入っていたとしても。彼は捉えた。しかしそれと一緒に落ちていく。私たちには落ちて行く彼を受け取るとこは出来ない。彼の何も。そして彼は落ちて行く。ブルースカイ。そこに真っ白で無垢な雲が広がっていく。世界がそこを取り囲む。彼を受け止めよ。周囲には紺碧の青。その青さはひとつの広大な世界。私たちを超えていくものの一つ。ああ、青く美しい。しかし受け止めてはもらえない世界。彼はそこにいる。何も受け止めることの出来なかった私たちの手をすり抜けていく。しかし花たちが彼を想っている。花たちは彼のすべての居場所を知っている。しかし私たちは知らない。彼が何所に行ったか。何時もどこへ行くのか知らない。しかし今までここに彼がいたことだけは知っている。そして歌えばいい。そう、私たちは歌った。いつか、どこかでと。凍った風船に乗って飛び立った者たちよと。」
「ブルースカイ。遥かな世界よ。そこには真白き雲が浮かび山の続きの空白には、やはり真白き波頭が立ち上がる。世界の青よ。 私たちは歌う。そこへは花に導かれないと行くことが出来ないの?そして花たちは落ちていく彼の後を追って行った。そして私たちはその花たちを追って遠い記憶の果てを落ちて行く。しかし歌ならばあなたにも少しは受け取れるものがあるはず。そしてそこに彼が来ればそここそがこの世界。あの湖も凍り付いて今は別の物語が必要になったとしても。」
私たちは歌った。「花はとうとう追いついた。そして彼は微笑みながら目を閉じる。しかし、どこかで竜がその高鳴る心臓で、彼を受け止めた。空ろ舟に乗った人は不意に目覚め、彼を思う。どこかの渓流に突き出した岩の上。夜、暗くはなく、明るかった。清らかな明るさ。そして夜空に広がっていく天の川を静かな心で見上げた。」



    
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