第1話

文字数 1,480文字

その水族館には空飛ぶペンギンが居るのだと、彼は言った。
美奈は、この町に暮らして長いけれど、そんな話は聞いた覚えが無かった。
ずっと昔に建てられた、さしたる展示も無い、ごくありふれた水族館。どこか打ち捨てられたような風情で、訪れるのは遠足の小学生か、たまたま迷い込んできた数少ない観光客くらいのもの。―それが彼女の知る、水族館だった。
だから、恋人である茅野が「その水族館に行きたい」と言い出した時、彼女は、ひどく戸惑った。
茅野も同じ県内の出身で、あの水族館がどんな場所かは、知っているはずだ。
「水族館って言っても、何を見に行くの。あそこには、変わったものは何も無いわよ」
「君は今月、四十時間も残業をしているじゃないか。少しくらい、気分転換をした方がいい。それにね、あそこには空飛ぶペンギンが居るんだよ」
そう言った茅野は、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
たぶん間違いなく、からかわれている。けれど、彼の性格上、悪気は無いのだろう。
彼が心配してくれているのが分かるから、美奈は誘いにのって、水族館に行く事にした。

次の日曜日、美奈は茅野の車で、水族館を訪れた。
休日だが駐車場に他の車は無く、館内は深海のように静かだった。
水族館は子供の頃の記憶のままで、一定の度合いをこえると古さは変わらなくなるものなのかと、美奈は内心で思った。
大量の魚が泳ぐ水槽の前を通って、美奈と茅野はペンギンの水槽を目指した。
狭い水族館なので、すぐに目当ての場所に辿り着く。
水槽は古いが清潔で、その中でペンギン達は、それぞれ気ままに過ごしていた。
こうして見ると、ペンギンにも様々な個性があるものだが、誰も、誰かの顔色をうかがったりしていない。
水槽前のベンチに腰かけて眺めていると、残業続きで頑なになっていた心が、ほどけていく気がした。自覚は無かったけれど、自分は限界だったのかもしれない。
美奈が茅野に礼を言うと、茅野は肩を竦めて頷いた。
「お腹がすいたし、そろそろ帰りましょうか」
お昼ご飯は自分が奢ろうと決めて、美奈は立ち上がった。一拍遅れて、茅野も立ち上がる。
「そういえば、空飛ぶペンギンは結局、居なかったわね」
水族館の出口で美奈は立ち止まり、振り向いて言った。
美奈としては、別に茅野を責めているわけでも、本当に空飛ぶペンギンが居ると信じていたわけでもない。ただちょっと、茅野を困らせてみたかっただけだ。
案の定、困った顔で頬をかく茅野を見て、美奈は笑いながら、再び歩き始めた。
「……空飛ぶペンギンは、本当に居たんだけどな」
茅野の呟く声は小さすぎて、美奈の耳には届かない。

触れずして物を動かす、いわゆる念力という力が茅野に芽生えたのは、いつからだったろうか。
気が付けば身についていたというのが、実際のところだ。
しかし、これがまた、微妙な能力だった。念力といっても、彼の手で持ち上げられないような重い物は動かせないし、動かせる時間も微々たるものだ。年月を重ねても、この点は、まるで向上しない。だからこそ、今日まで誰にも知られずにこられたとも言える。
煮詰まっている美奈を、助けてあげたかった。少しでも気がラクになればと、とっさの思い付きで、空飛ぶペンギンの話を持ち出した。この町の水族館に空飛ぶペンギンなど居ないが、自分の能力なら出来るのではないかと考えた。
―まあ、実際のところ、彼女には気付かれず終わってしまったのだが。
「それもそうか。一羽のペンギンを一センチ、浮かすだけの能力なんてね」
それでも結果的に彼女が元気になってくれたのだから良かったと、茅野は鼻歌を歌いながら、美奈の後に続いて、水族館を出た。
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