第1話

文字数 4,633文字

 「素敵な香りの香水をつけてますね。心地が良い」

 その言葉を聞いた瞬間、目の前にいる幹夫さんが二重に見えた。ぼやけた私の視界から垂れる一本の雫。何度流したか分からない、涙。しかし、これは確かに嬉し涙だった。

「そうですか。これは、主人からの贈り物なんです」
 自分自身の口から発せられた主人という響きが、自分の耳に突き刺さる。
「ご主人は素敵な趣向をお持ちですなあ」
 そう言って、目の前にいる幹夫さんは笑った。少し照れくさそうな表情、はにかんだ優しい笑顔。そう、これなんだ。私は、何処に居ても何をしていても、この笑顔を愛しく想う。昔から変わらない。とうに還暦を過ぎた今でも、胸が締め付けられる。私は、昔と変わらない。

 私だけは、昔と変わらないんだ。
 
 私の額より少し高い棚に手を伸ばす。腕を目一杯伸ばすと、ちょうど良い位置で手に掴むことの出来る柄(つか)。私のお腹の位置に合わせられた水道周り。私の好きな藍色の台所用品たち。私が料理をしやすいよう計算尽くされた台所は、全てが主人の愛の証。私たちの、心中立て。この家を建ててからずっと、たっぷりの優しさで私を包み込んでくれた。

 そんな私たちの暮らしには、幸せがぽつり、ぽつりと訪れた。幸福とは連続するものではなく、断片的に訪れるからこそ有難く、嬉しいんだ。主人は、そんなことを教えてくれた。藍色の冷蔵庫に小鳥のマグネットで貼付けてある献立表を眺めながら、ふと、そんな思い出に浸る。
 
 ー水曜日
 
<献立>
 ごはん一杯、かぶの鳥そぼろ煮、春菊の和え物、里芋の味噌汁、苺

「晩ご飯の支度が出来ましたよ。いらして下さい」
 献立表通り、一遍の狂いも無い晩ご飯を机に並べながら、私は幹夫さんを呼ぶ。
「いつもすみませんね。ありがとう」
 ゆっくりとリビングに歩いてきた幹夫さんは、続けざまに「今日も美味しそうだ。苺の季節ですねえ。いいですねえ」と零す。色々なことを忘れても、四季に応じた食材の移り変わりは覚えているのだから、あの人らしい。日本の四季は美しい、誇りに思うよと、幹夫さんは常に言っていた。春にはお花見、夏には山登り、秋には紅葉狩り、冬には温泉ーー幹夫さんは毎年四回、必ず私を遠くへ連れて行った。目的地まで電車に揺られ続ける二人は、何を話すわけでもない。風にのって香る幹夫さんの匂いは、私を安心感で満たしてくれる。肩を寄り添って、そっと手を繋ぎ、二人揃って眠りに落ちる。目覚めると必ず肩に掛かっている幹夫さんの上着が、大好きだった。二人揃って落ちたはずの眠りに、幹夫さんはいない。私に合わせて肩を貸してくれていたに過ぎないのだ。ちょっとした充足感。妻である私だけの特権。

 思い出す度、ぽつり、ぽつり、私の中に幸せが溜まっていく。
 
「ヘルパーさん、すいません。布巾を頂けますか」
 この呼ばれ方にも、もう慣れたものだ。

 記憶を無くした幹夫さんにとって、私はもう妻ではない。
 ただのホームヘルパーに過ぎない。

 「今すぐ持っていきますね」微笑みながらそう答え、真っ白の布巾を手渡す。「ありがとう」と答えた幹夫さんの目はしわくちゃで、共に過ごした年月の長さを痛感する。

 私は、幹夫さんの目が大好きだった。少したれ気味な切れ長の目から覗く、大きな黒目。私がいつの日か幼い頃、飛び出す絵本で見た紫の縞模様をした猫の目に似ていた。冷徹に見える一方、表現豊かなその瞳に見つめられると、嫌なこと全てがどうでも良く感じた。私は十二分に、あの目の虜になっていた。そんな幹夫さんは目の通り、信用を置いた相手以外には冷たい人だった。
 
 初めて会った日、こんなにも他人に冷たくされたのは初めてという位、邪険に突っ放されたことを覚えている。

 社会人一年目、幹夫さんは化粧品会社の上司として現れた。

 「はじめまして。堀田香織と申します。今日から、よろしくお願いします。お仕事があれば何でも言ってください」
 私は新入社員らしく挨拶をした。我ながら、元気良く挨拶し頭を下げたつもりだった。しかし、返ってきた答えは「木田幹夫です、よろしく。しかし、仕事は自分で見つけるものです。考えが甘い」

 一瞬向けられた目は、非常なまでに冷徹に見えた。それからはほとんど関わりが無かったが、一年後、私は幹夫さんのいる営業部に配属になった。真ん中に偉そうに座り部下に厳しい口調で話す幹夫さんを見ては、「嫌だ嫌だ」と同僚に零していた私に転機が訪れたのは、ライバル社が台頭してきた時である。

 ライバル社が、韓国から優れたファンデーションを輸入し販売し始めた。シミやくすみ、にきび跡の全てを消すという想像を絶するカバー力に加え、当時大人気だった女優の三上さんをコマーシャルに起用したことで、日本女性は皆このファンデーションの虜になったのである。それに伴い、我が社の売り上げは低迷し始め、いつの間にか株は暴落。営業部だった私と幹夫さんは、大手百貨店に足を運ぶ度、数字以上の直接的な屈辱を味わった。その不況を切り抜けようと共に協力していた最中、幹夫さんの持つ本来の優しさに気が付いていったのである。

 最初の印象が悪い相手というものは、一つの長所が見えた途端、どうしてこうも惹き付けられてしまうのだろう。減点から始まった私と幹夫さんの関係は、加点を増やし続ける関係に変わっていった。こうして心を開くようになった私たちは、仕事ともプライベートとも言えぬ食事を重ねるようになったのである。高級料理店から身近な居酒屋まで様々な店に足を運ぶ私たちは、自然と手を繋ぐようになった。

 幹夫さんは、食事のマナーをしっかりと携えている人だった。私が常日頃考えていた、ここだけは男の人に妥協できないという従業員への態度も、申し分の無いものだった。知れば知るほど、私は幹夫さんの虜になっていったのである。

 付き合っているともいないとも言えぬその関係は暫く続いたが、とある中華料理店の帰り道、繋いでいる手がいつもより熱く汗ばんでいるのを感じた。「どうしたの」と聞く私に、「結婚しよう」と幹夫さんは小さく呟いた。突然の告白に対する嬉しさと驚き、そして汗ばむ主人の可愛さに、思わず笑みを零したのが懐かしい。
 それからの結婚生活は、平凡な幸せが度々訪れる日々だった。ーーー男は釣った魚に餌をやらない。どこかでこんな言葉を耳にしたことがあるが、幹夫さんは釣った魚にこそ餌を与え続ける、そんな人だった。
 
 幹夫さんは今日も、ご飯粒一つ残さず食事を平らげてくれた。食べ終わったお皿を私が片付け始めると、居間で日記をつけるのが幹夫さんの日課だ。穏やかな顔で文字を書く姿は、背中こそ少し曲がっているものの、未だに愛おしい。

 幹夫さんのつける日記。

 内容は気になるものの、私は一切、幹夫さんの領域に目を通したことはない。愛する者の持つ秘密を知って良いことは起きないというのが、私の持論だからだ。
 
 私たちは出逢った頃、小さなことでも感性や趣向が異なっていた。幹夫さんの大好物は苺大福。ーーー苺大福である。どうして大福に苺をつめるのだろうか。別々に食べれば良いのではないだろうか。どうしてもその意味を理解できなかった私は、軽い気持ちで幹夫さんを否定した。
「どうして、そんな辺鄙な食べ物が好きなのかしら。変なの」
 この発言をした後、二日ほど口をきいてくれなかったのは言うまでもない。旗から見れば、些細なことかもしれない。しかし、対するは自尊心の高い幹夫さんである。長い夫婦生活の中で、この小さな割れ目は負えない痛手となって返ってくるのだ。
 
 そのため私は、主人の物は主人の物、私の物は私の物、そういうスタンスで夫婦生活を送り続けた。こうも長続きしたのは、苺大福のお陰なのかもしれない。婚姻関係とは、互いが常に向かい合って過ごすものではなく、それぞれが前を向いて歩き続ける際にふと隣にいる、そんな関係ではないだろうか。ーーー空気。この言葉こそ、しっくりこよう。
 
 しかし、時が経つにつれ、私たちの趣向は不思議と似てきた。ふとした瞬間に思うこと、見るもの、嫌いなもの、好きなもの…。出会った当時、あれだけ異なっていた物たち全てが、シンクロするようになっていたのである。今では、私の大好物こそ苺大福である。それに気がついてから、私の考えは変わっていった。

 「主人の領域を知ってはならない、というこれまでの持論を覆しても良いのではないだろうか」
 そう思うようになったのである。

 ここまで似てきた私たちだ。私が知らない幹夫さんの日記内では、私たちが夫婦だったことを覚えているかもしれない。もしかすると主人は、私のことを覚えているのかもしれない。
   
 今こそ、日記に目を通しても良い。

 そんな時なのかもしれない。
 
 その晩幹夫さんは、いつもの様にお風呂に入った後、寝室で眠りに落ちた。私は扉越しに、すやすやと眠るその姿を横目で確認する。完全に眠っていることを確かめると、寝室へと足を踏み入れた。そっと幹夫さんに近づいた私は、枕横の棚に手を伸ばす。上から二番目の引き出し、一番奥の箱の中。

 私は日記の置き場所を知っている。

 日記帳を掴んだ手が、やけに震える。
 
 居間に移動した私は、居間に置いてある茶色い狸の置物と目が合った。小さな、漆塗りの狸。軽蔑する目で、私を見つめている気がした。

 しかし、ここまで来たんだ。もう後には戻れない。私は、汗ばむ手でそっと一頁目を開いた。


〈日記・津田 久夫〉


 「ーーー津田久夫?」

 聞いたことも見たこともない名前である。しかし、日記の記名欄には慣れた手つきでその四文字が記されていた。
 
 一体どういうことなのだろう。

 主人の名前は木田幹夫である。この日記は別人物のものなのだろうか。いや、しかし幹夫さんは確かに、枕横の棚、上から二番目の引き出し、一番奥の箱に日記をしまう。私は知っている。毎日見ていたのだ。確かに、書いた後の日記をあの棚へしまうのだ。私は知っている。間違いはない。
 
 では、一体これは、誰の日記なのだろう。不思議に思いながら、私は一頁目を開いた。


〈日記・津田 久夫〉


【四月二十四日】

 今日から始まる新生活に合わせ、私の生きた証として日記をつけることにする。ここに記すことに、嘘偽りは一切無い。彼女は、軽いアルツハイマー病を煩っている。私たちは、三ヶ月前デイサービスで出会った。彼女は親戚がおらず、独り身である。彼女の夫が四年前に亡くなってからというもの、家に引きこもりがちだったという。やっと外出することが出来た先で私に出会い、意気投合した。その嬉しさから、私のことを時々、夫だと錯覚する。
 
 私もつい最近、最愛の妻をなくした独り身の立場である。似た境遇であるが故に、彼女を放って置くことが出来ない。このまま一人で孤独死するのも辛いため、今日から一緒に住むことにする。亡くなった妻は、一緒に住むことを許してくれるのだろうか。嫉妬深い妻だったことを考慮すると、やはり夫のふりまではしない方が良かろう。

 ホームヘルパーさんという設定で望もうと思う。

 これからが楽しみだ。


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