第1話

文字数 1,558文字

「じゃあ、行ってくる」

卵でも買いにいくような身軽さで、随分と着飾った妻は玄関から出ていった。

居間の窓から、車に乗り込んだ妻を見ていると、あんなに時間を掛けてセットしていた髪に構わず、私が見たことも無いようなキャップを目深に被り、そして車で走り去っていった。

3ヶ月は長いなぁ、と、思う。

同じく、窓から母親を送り出していた末っ子の次男にそう言ってみる。両膝を床につき、万歳した両手をガラスに押し当て、「ぱぱ」と返事をする。ママとはまだ喋れない。

「お腹空いたんだけど」

ソファーに寝そべっていた長女が、テレビを見ながら不満を漏らす。手の平サイズの発泡スチロールに、何十本目かの爪楊枝を指し続けている長男も無言で頷く。

「何食べる?」

「コロッケを五つ」

「四人なのに?」

「私だけ二つ」

逞しくなったなぁと思いながら冷蔵庫を開けると、賞味期限切れの納豆と、大量のマスタードしかなかった。

試しに電子レンジを開けてみると、半分になったワンホールのケーキがあった。

わあっと歓声があがると、あれよという間にケーキは子供達に祭り上げられ、乱暴にテーブルに放り出された。

「手づかみで食べるのは止めなさい」

「お風呂で洗うからいいよ」

そうか、お風呂で手洗いしたらいいのか。長男の聡明さに軽く頷くと、そのまま湯船に飛び込む。

何か忘れてるような気がして、何を忘れてるのかを思い出してみる。

何気なく泳がしていた視線は、鏡の前に規則正しく並んだボトルに落ち着く。

リンス、リンス、トリートメント。

つやっつやになるぞ、これは。

風呂から出ると、三人共にパジャマを来ていた。

「お風呂は?」

「手、洗ったから」

そうか、手を洗ったから風呂には入らなくてもいいのか。

「もう寝るかい?」

「うん。お父さん、間に合わないよ」

長女の言葉にはっとする。そうか、仕事に行かないといけない。

「見つけたら帰ってくるよ。待っててくれるかい」

「間に合うかな」

子供達は列になって、二階の寝室へ上がっていった。

剣山みたくなった長男の作品をポケットに入れて、カバンを探しにいく。今からなら終電に間に合う。

タクシーを呼び、乗り込む。

「終電まで」

「行けるでしょう」

プラットホームに着いた途端、電車が線路の向こうへと走り去っていった。カバンは見つからない。

これから始発までが仕事だ。終わったら帰ろう。

通りすがりの女の人に笑われる。パジャマに革靴だと無理もない。

「せめて片方脱いだらどうですか」

「そうします」

軽く羞恥を覚え、端にある椅子に座り込む。

朝までが勝負だな

タバコを吹かし、意気込んでみる。風が心地好い。

煙を輪にして吐き出す。夜空を見上げながら、ふと思う。

なんだろうな、何かがおかしい気がする。

多分、帽子なのかな、と思う。妻が車で被った帽子。どこで買ったのだろう。見覚えが無い。

3ヶ月とは何の期間だろう。どこに行ったのか。帰ってきてくれないと困る。

そもそも、カバンを探す仕事とは何だ。アタッシュケースなら足元にあるのだが。

焦燥が募っていく。ポケットから剣山を出す。手持ち無沙汰に一本ずつ爪楊枝を抜いていく。ゆっくりと、時間をかけて。

おそらく、違っている。ズレている。

現実か。私自身か。あるいは両方。

汽笛が微かに聞こえてくる。ほら、汽笛なわけないのに。

「頑張れ。ほら、頑張れ」

何人もの車掌がいつの間にか私の回りを取り囲んでいる。

爪楊枝を抜く指先が震える。この震えだけが私の正気を示している。

紫煙の輪っかが頭上に落ちてくる。

「白か黒を」

どこからか声が聞こえる。

指の震えが全身に拡がり、奇しくも首は横に振れた。

「選ばぬも選択」

待ってくれ、と、衝動的に線路に身を投げる。

理が欲しい。

どれだけ苦しくとも、硬い鉄のレールに顔を叩きつけられたい。

地面に沈んでいく。沈んでいく。

あぁ、家に帰ろう。泳いで帰ろう。

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