第1話

文字数 4,935文字

 昔々、越後の山あいの村に、与平という名の若者がいた。彼は早くに両親をなくし、ひとりで村はずれのあばら家に住んでいた。いつもほがらかな笑みを浮かべ、口数は少なく、よく働いた。万事ものにこだわらない(たち)で、喧嘩の方で避けて通る類いの男だった。同じ理由で金とも縁がなかった。なかなかの男ぶりだったので、時に浮いた話が持ちあがらないでもなかった。ところがいつも、もの別れに終わる。彼の態度があっさりし過ぎているので、女の方が愛想を尽かしてしまうのだ。どう一生懸命しなを作っても、料理に腕をふるっても、「そうか」の一言で終わってしまうのである。暖簾に腕押しどころか、空気のように手応えがなかった。女たちは屈辱に青ざめながら、または鬼の形相で、捨て台詞を残して立ち去った。与平は決して深追いはしなかった。「そうか」と言って笑い、何ごともなかったように元の生活に戻るのである。

 ある晴れた秋の日、与平は山に入って薪を拾っていた。すると、山道から少し外れた薮の中から、突然、ケーン、ケーンと苦しげな鳴き声があがった。与平が覗きこむと、大きな鶴が一羽、じたばたと暴れ回っていた。見事な白い羽を必死でばたつかせているが、地面から離れられないでいる。狐の罠にはまっていたのだ。与平は近寄ると、鶴の足から虎ばさみを外してやった。鶴は与平を恐れて、羽で顔を打ったり、長い首を振りかぶってくちばしでつついたりしたが、彼は平気の平左で罠から外した鶴の足を持ち上げた。傷口から血が幾筋か流れて、握っている手を汚した。与平は、バタバタと暴れる鶴を片手で持ったまま、ブナやクリが生い茂る斜面をずんずんと下って、谷底を流れる小川に出た。彼は、せせらぎに鶴の足をひたしてよく洗ってやると、自分の着物の端を少し割いて、傷口に巻いてやった。「それ」与平は笑って声をかけ、鶴を離してやった。白い翼が大きく広がり、水晶のように透き通った秋の陽光を一身に受けとめた。きらきらと輝く川面と、黄金色に染まったブナの木々を背に、大きくて美しい鳥は高く飛び立った。そして、中天にのぼった太陽の周りを巡るようにして、三度輪を描くと、ケーンと一声高く鳴いて、そのまま山の奥の方へ飛び去った。与平は額に手をかざして少しの間見送ると、きびすを返して元来た山道に戻って行った。

 それから数日後の晩のことだ。与平の家の戸を叩く者があった。彼が建てつけの悪い板戸をガタガタと開けると、軒から数歩下がったあたりに影がひとつ立っていた。灯りといえば、後ろでちろちろと燃えている囲炉裏の火だけだったので、しかとは見分けがつかないが、どうやら若い女のようだった。女は涼やかな声で言うのである「旅の途中で行き暮れました。今夜一晩、お宿をお借りしたく思います」「どうぞ」与平はこともなげに手招きをした。戸口に立ったその見知らぬ女は、歳の頃はまだ二十歳になるかならないかだろうか、小柄でほっそりとしていて、質素だがこぎれいな身なりだった。薄黄色の小袖は洗いたてのようで、旅の埃を被った様子もない。荷物も持っていなかった。笠も手ぬぐいも被らず、つややかな黒髪を肩まで垂らして、色白の小さな顔のなかで、黒目がちの二つの瞳がじっと与平を見つめていた。うす桃色の小さな唇が動いた。「ありがとうございます。さぞかしご迷惑でしょうが」「いえ、ご覧の通り何もありませんが、夜露くらいはしのげるでしょう」そう言って、与平は足を洗う桶を取りに行った。女は待っている間、戸口に立ちつくし、みすぼらしく、がらんとした男所帯を眺めるのである。右から左に瞬きもせずに見やる女の視線の先には、確かに何もない。粗末な板敷きの床の真ん中で、囲炉裏が小さく燃えている。隅に(こも)が一枚、たたんで置いてある。ただ、それだけ。ぐるりの土壁は、あちらこちら崩れかけていた。奥から与平が現れた。水を張った桶を抱えている。「さあ、これで足をぬぐいなさい」言われるまま、女は上がりかまちに腰をかけて草履を脱いだ。女が足袋を脱ぎ、小さな、雪のように白い右足をそっと桶に入れた時、女の顔に少し、とまどいが現れた。与平は気がつかない。鍋を囲炉裏の鉤に吊るしていたのだ。わびしい夕餉はもう済んでいたが、汁がまだ少し残っていた。旅人は腹を空かせているはずだった。
 女は、部屋の隅の壁際に座って、静かに汁を食べた。「そこでは暗くて寒かろう。もっと火の近くに寄りなさい」と与平が勧めても、「いえ、わたしはここで」と言って動かない。空になった椀と箸を丁寧に前に置き、「ごちそうさまでした」と言うと、後はじっと与平を見つめているばかりだ。彼は囲炉裏端で肘をついて横になりながら、小枝で火をかき回した。パチパチとはぜる火の向こうの暗がりで、ただ静かに座ってこちらを見ている女がいったい何を考えているのか与平にはさっぱりわからなかったが、さしあたって大きな問題ではなさそうだ。与平をとろとろと眠気が襲った。「俺はもう寝るが、あなたはその菰でもかぶりなさい、汚くてすまないが、暖はとれるから」「それではあなたが寒いでしょう」「いや、俺はこうして火のそばで寝るからいい」与平はあくびをして仰向けになり、目を閉じた。「それでは」と、女の声が答えて、ごそごそと菰を広げているらしい音がした。かと思うと、与平の体に、ふわっと菰がかけられた。すると暖かい体がもぐり込んできた。与平は言った。「そうか」

 そのまま、幾日かが過ぎた。
 女は「つう」と名乗った。自分からではない。最初の夜が明けてから、与平に聞かれて初めて名乗ったのである。もっとも、与平はそれ以上のことを聞かなかった。二人は朝、貧しい朝餉を分け合い、与平はいつものように野良仕事に出かけた。夕方戻ると、つうはまだ家にいた。夕餉の支度までできていた。菜は、いつもと同じ、粟と麦と大根だったが、不思議なことに、大層おいしくできていた。与平は一口すすって、「ほう」とだけ言うと、後は無言で食べ続けた。つうは、そんな与平を黙って微笑みながら見ていた。
「与平は、嫁は取らないのかえ」つうは、与平の裸の胸に頬を預けながら、聞くのである。与平は半ばうとうとしながら答える。「俺の稼ぎでは、俺ひとり食うのでせいいっぱいさ」かなり直球の攻めに対して、一般論でかわされてしまった。しかしつうはあきらめない。「じゃあ、二人で食べられさえすれば、あたしを嫁にするかえ」「ああ、するする」与平は眠りに落ちた。つうは、暗がりの中で目を見開いたまま、しばらく何か思案している様子だった。
 翌朝、与平が目覚めると、囲炉裏に鍋がかけてあり、こぽこぽとおいしそうな湯気を吹き出していた。裏口からつうが薪を抱えて現れた。あねさまかぶりにたすきがけ、着物の端をからげて素足をさらしている様はもう一人前の女房である。つうはまだ寝転んでいる与平の頭の元にぺたんと座って薪をくべると、汁を椀に盛りはじめた。味噌のいい匂いが与平の頭をはっきりとさせた。彼はよっこらせと起き上がった。戸口から晩秋の朝の光がしらじらと差し込んで、鍋から湧く湯気を青く染めていた。二人はしばらく無言で朝餉をかき込んでいたが、つうが箸を止め、奥の部屋を貸してほしいと言った。部屋とはいっても、わずかな道具が放り込んであるだけの、物置同然の狭い土間である。「いいよ」与平は箸を止めぬまま言った。つうが椀を片付けるために立ち上がった。すると白くて華奢なくるぶしの上に、汚い布が巻きつけてあるのが与平の目に入った。彼の手首ほどの太さもないつうの足首をキリキリと締めつけている。洗いざらして垢は抜けていたが、所々、黒い染みが抜けずにブチになっていた。「何だい、それは」聞くともなしに、与平は尋ねた。つうは振り向いて自分の足を見ると、ハッと顔を赤らめた。「何でもないよ。お守り」そう言い捨てて、つうは、パタパタと走って奥に消えた。「そうか」与平は立ち上がって、野良仕事へと出て行った。
 もう、秋もずいぶんと深まっていたので、その日の仕事といえば、山の端で切り株の根っこを掘り返すことぐらいだった。難儀な仕事だったが、与平は無心に鍬を振るった。太陽はゆっくりと里から山へと動いてゆき、午後のひんやりとした秋の風が汗の流れる首筋を優しく愛撫した。与平にはそれで十分だったのだ。今までは。しかし、ごく開けっぴろげで陰影というものがない彼の心の中にも、なにがしかの新しい動きが始まっていた。向こうでそよいでいるすすきの群れを見ると、その涼やかで優しく、おごったところのない動きが、何とはなしに、つうのことを思い起こさせた。今日の骨折りが終われば、家でその女が待っているのだった。「そうか」与平は一人、ほほえんだ。
 足早に日が暮れた。心なしか急いで家路につく与平の頭の上では、空はもう青黒く沈んでいた。冬が近いこの頃は、虫の声もだいぶ弱々しく、まばらになってきた。与平がガタガタと木戸を開けると、中は真っ暗だった。人の気配がない。与平は家の裏手に回った。ただ、小川の流れる音だけが、こぽこぽと響いていた。夕闇の中で、柿の木が、低いあばら家におおいかぶさるようにして両腕を広げ、
くろぐろと、無言で立ちはだかっていた。与平は家に戻り、闇の中、小枝で囲炉裏をかき回し、灰の中から熾火を掘り出した。火がつくと、がらんどうの部屋の中がまざまざと照らされた。「そうか」与平はそのまま寝てしまうことにした。
 その夜半のことである。与平はふと目を覚ました。裏手で何やら人の声がしたようだった。与平は聞き耳を立てた。確かに、何人かが声を潜めて話し合っているようだった。何を言っているかは聞き取れなかったが、皆、妙に甲高い声の持ち主のようだった。しゃべっているのが男か女かもわからなかった。声が近づいてきて、裏の小部屋でゴトゴトと、何か重いものが運び込まれる気配があった。物音がおさまると、声はだんだんと遠ざかって行った。不思議なことに、その裏声のようなざわめきは、上へ、空の方へと消えて行くようだった。と思うと、裏の戸を閉める音がガタガタと聞こえた。そっと閉めたつもりなのだろうが、建てつけが悪いので、どうしても家中に音が響いてしまうのである。その上、音をひそませる意味があまりなかった。裏手から現れたつうは、寝ている与平に駆け寄って、がばりと抱きついた。女の確かな重みと暖かさは、与平についさっきまでの怪異を忘れさせるに十分だった。与平は黙ってつうの肩を抱いてやると、ぬくもりと安堵の中で、再び眠りに落ちた。

 翌朝は、与平の方が早く目を覚ました。傍らで眠っているつうを起こさぬように、そっと起き上がると、肩に菰をかけ直してやった。裏戸を開けると、ちょうどその時、低い空にたなびく雲の間から朝日が顔を出した。与平は伸びをして、小川で口をゆすぎ、顔を洗った。ずいぶんと腹が空いていた。
 さて、家の中に戻った時、与平は初めて、夕べの不思議な出来事を思い出した。裏の部屋をそっと覗いて見た。すると、狭い土間いっぱいに、大きくて立派な機織り機が据えられていた。大概のことには驚かない与平も、これにはさすがに言葉がなかった。囲炉裏端を振り返って見ると、いつの間にかつうは半身を起こしていた。そして与平をじっと見ているのである。最初の晩に与平を見ていた目と、同じ目だった。つうは改まって正座をすると、与平にこう言うのである。「今夜から七晩、あたしは錦を織って、お前にあげるから、それを町で売るといい」「そうか」与平に特に異論はなかった。「それで、あたしたち二人で食べていける。だからお嫁にして」「ああ」いともあっさりと、与平は答えた。「でも」と、つうはしっかと与平の目を見すえて言った。「あたしが機を織っているところは、絶対に覗かないで」「ああ」またしても、与平はあっさりと答えた。「ほんとよ」「わかった。約束する。それより腹が減ったよ」つうは与平の心を計るように、しばらく黒目をひたと据えていたが、この男の心に裏などありようもないのだった。何となく物足りなさを感じながらも、つうは朝餉の支度を始めた。
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