カラフル

文字数 11,216文字

「これ、超可愛いでしょ~? 久しぶりに全色買いしちゃうかも」
「マジでー?」

 甲高い笑い声が噴水みたいにわぁっと湧き上がったかと思うと、バイト代の使い道を揶揄する声が、雨粒となってパラパラと降ってきた。
 放課後の教室に響き渡る喧騒は、自分とはかけ離れた世界の副産物に思えて、なんだか少しうらやましい。

 茜色の夕焼けに染められたルーズリーフをスクールバッグの中にしまってから、私はバッグの内ポケットからスマートフォンを取り出して、メッセンジャーアプリを起動した。
何度表示したって、私の友人、佳代ちゃんが本日欠席である事には変わりなく、

「大丈夫? お大事にね」

と送信したメッセージに返信は無い。
よっぽど具合が悪いのだろうと判ってはいるものの、無邪気にはしゃぐクラスメイトを目の前にすると、自分の友達の少なさを痛感して心細かった。

「とりあえず、一番のお気に入りだけ買ってみたんだよね。どう?」
「めっちゃ似合う! さっすが愛莉(あいり)だね」
「ありがと~! アタシも似合うと思ったんだ」

 再び歓声が沸く。
 話題の中心に居る松島愛莉(まつしまあいり)ちゃんが、ボルドー色に染まった両手の爪を、彼女の友人らに披露しているところだった。
一体全体どうやって教師の目をくぐり抜け、この時間までそんな色の爪でいられたのか気にならなくもなかったが、私はそれどころではなかった。

その右手に握られているスタイリッシュなマニキュアボトルに、心を奪われてしまったからだ。

 そのフォルムは全体的に丸っこく、華美な装飾が無い代わりに、キャップの色とネイルポリッシュの色とが同じで、シンプルで機能的な見た目であった。かといって、決して野暮ったくない。

 かっこいい、と、私は思った。

 マニキュアの中には、キャップのデザインを統一するが故に、ボトルに収まるネイルポリッシュでどの色か判別しなければならない商品もある。これはこれで可愛らしく、いろんな色をたくさん集めると、なんとも言えない眺めが楽しめるのだ。けれど、収納ボックスにしまっていると、いちいち一つずつ取り出してからどの色か確認しなくてはならない。いち早くネイルアートを楽しみたい時、それはほんの少しだけ、ストレスだった。

 愛莉ちゃんが持っているマニキュアはそんな悩みとは無縁のデザインで、あらゆる意味で無駄を省いたものに見えた。

 それはまるで彼女のクラスでの在り方に似ていて、なんだか不思議だった。

 過度に媚びず、見え透いたお世辞は言わない。それで反感を買ったら堂々と立ち向かう。松島愛莉ちゃんはそういう女の子だった。

 彼女が気に入ったというマニキュアは、秋を意識した深いボルドー色だ。光の加減か、少しだけ青みがかっているようにも見える。もしかしたら、ワインレッドとも形容できるかもしれない。

(あんな色、塗ったことないな)

 帰り支度をしながら私は、ぼうっと思った。
 私が選ぶ色は、ピンクやベージュなど肌馴染みの良い透明感のある色ばかり。それらの色に不満は全く無いし、教師の目を騙すために選んだ色でもない。そもそも、学校にマニキュアを塗ってゆくという発想もなかった。

 私にとってのネイルアートは、休みの日限定で楽しむ密かな趣味にすぎないのだけれど、愛莉ちゃんの纏う鮮やかな赤の前では、自分の選択がどれも冒険と無縁の無難な優等生に見えた。別にそれが悪いこととは思わない。ただ、その時には自分の“普通”さが何だか退屈で、愛莉ちゃんの鮮やかさの前では霞んでいるように思えたのだ。

(そういえば、季節に合わせてネイルの色を変えるなんて、したことないかも)

 愛莉ちゃんの手の中にあるマニキュアをもう一度、遠目で眺めてから、私は教室を後にした。
 誰と話すこともなく歩いていると、目に焼きついた深いボルドーばかり思い返してしまう。帰路に着いたはずなのに、気がついたら道中の雑貨店の前に居た。

なんだか無性に、冒険がしたい気分だったのだ。

 その店は名の通り、変わり種のお洒落な雑貨をはじめとして、文房具や食品などが売っている。そしてもちろん、私のお目当てである化粧品も。

 誰かに言い訳でもするかのように、文房具を選ぶふりを二呼吸ほどした後、真っ直ぐコスメコーナーへ足を早めた。

 愛莉ちゃんが使っていたマニキュアは、化粧品売り場中央の特集コーナーにディスプレイされていた。
人気のある商品なのだろう、幾つかの色はすでに売り切れていて、売り場の棚は所々がらんどうだ。

 私は、愛莉ちゃんが使っていたボルドーのポリッシュがまだ購入できることを確認した後、サンプルとしてディスプレイされている、爪の形をしたプラスチックに該当のマニキュアが塗布された物を、自分の指先にあてがってみた。深みのある秋色は教室で見た色よりずっと濃い色に見えて、これを自分の爪に塗るのか、と、ためらうほどだった。
 心なしか、サンプル越しの私の指もくすんで見える。
 もちろん、奇抜な色がコンセプトのお洒落なのだと、わかっている。

 実物を見るまでは――幻想だとわかっていても――同じ商品を使うことで少しだけ、愛莉ちゃんのような女の子に近づけるんじゃないかという淡い期待があった。
もちろん、私は愛莉ちゃんではないのだからそんな考えは夢物語だ。
それでも、昨日の冴えない自分より少しでも素敵な女の子になれるのならば、冒険のしがいがあるじゃないか。
おしゃれに疎い私だって、昨日の自分より今日の自分、明日の自分を愛したい。

 けれど――この色は私には、似合わない――。

 さっきまで魔法にかけられたような夢心地な気分だったのに、まるでシャボン玉が割れたかの如く、現実に引き戻された気がした。

 私は、買いそびれないようにと手に取っていたボルドー色のポリッシュを、のろのろと売り場に戻し、ふと同じブランドの通常商品――愛莉ちゃんが購入したのは、季節限定商品だ――を物色することにした。

 何も買わずに帰りたくはなかった。愛莉ちゃんと同じ色を選ぶことは出来なかったけれど、せっかく冒険をしようと決めたのだ、いつも選ぶ色とは違う色。それを纏う自分を好きになれる特別な色を、誰かの意見に流されるのではなく、自身の決断で選ぼうじゃないかと思ったのだ。

 私の目を引いたのは、くすんだ薄紫色だった。商品名は『ソフトバイオレット』というらしい。パープルだったらまだ、ピンクに近いような気がして心理的な抵抗が少なかったし、くすんだ色が季節感を表現しているように思えるから、いつものように通年使える商品を買う訳ではないと自分に言い訳もつく。
残念なことに、通常商品の棚にはプラスチックの偽、サンプルが用意されておらず、『ソフトバイオレット』が私の爪に合う色なのかどうか確認する術は無かった。
 私は少しだけ購入を躊躇ったが、「変わりたい」という気持ちに背中を押されて『ソフトバイオレット』のマニキュアを手に取り、レジへ向かった。
 

 家に帰るや否や、早速マニキュアを塗ってみた。

 爪を保護するベースコートを塗布し、よく乾かした後に『ソフトバイオレット』を塗る。くすんだ薄紫が指先を彩る。ポリッシュ液が乾くのを待つ間、両手をかざして「冒険」後の高揚感に浸っていた。
 ポリッシュ液が乾き爪の色が確定したあと、その高揚感は一抹の後悔へと変わった。
 最後の仕上げとなる、マニキュアを保護するためのトップコートを塗ってくすんだ薄紫をくるみ、今度こそ完成した両手を鏡に映してみる。

 ――なんだかほんの少しだけ、私の肌の色には合っていないような気がして、胸の奥がざわついた。
 失敗しただろうか。

せっかくの新たな挑戦にケチをつけられた気がして、私は爪を傷つけないよう気をつけながらごろんと寝転んだ。

 いつもの色の方がよっぽど似合う――喉元まで出かかった感想をぐっと飲みこむ。

 トップコートが完全に乾いたのを確認してから、スマートフォンで秋色に彩られた指先を記念撮影し、佳代ちゃんに送りつけてみようとメッセンジャーアプリを起動した。

 佳代ちゃんとのトーク画面には、私の送った「大丈夫? お大事にね」というメッセージに、先程までは無かった既読の印がつけられていた。具合が悪い中、急ぎの話でもないただの雑談を送って良いものかと少し引け目は感じたが、その時の私は、己の小さな冒険を誰かと共有したくてたまらなかったのだ。

<調子はどう?
 実は買っちゃったんだ 似合う?>

 ポンという軽快な音とともに送信される文字の羅列には、「似合ってると言って欲しい」という私の怯えと期待とが透けて見えていて、我ながらなんだかなぁと思った。
 すると直ぐに、メッセージへの返信が来たことを告げる電子音が鳴る。

<京子ちゃん、返信遅れてごめん! 寝てた。それにしても、珍しい色買ったね。なんか、京子ちゃんのキャラじゃなくない?>

思ったより早く返信が来て、目を見張る。佳代ちゃんからの率直なメッセージを読んで、ざわついていた胸の奥にあったものが急激に鉛となって、腹の奥が重苦しくなった。

「似合ってないって事か……」

 スマートフォンを机の上に置いた後、私は除光液を手に取って、たっぷりとコットンに染み込ませた。そして、塗ったばかりのマニキュアを落とす作業に没頭する。

 無駄な買い物をしてしまったのだろうか?

 マニキュアのボトルを再度見た。とても、美しい色だと思う。
 やはり私は、『ライトパープル』という色が好きだ。
そう、好きな色がたまたま、私に似合わなかっただけの事――
愛莉ちゃんのように、自分の好きな色が似合う女の子じゃなかっただけの事――

苦い思いがマニキュアを包み溶かす除光液のように、心の中に広がってゆく。
 
 ***
 
「古川さん昨日さ、ネイルコーナーに居たよね。マニキュア好きなの?」

 翌日、登校して早々に愛莉ちゃんから声をかけられた。
私たちは普段、所属するグループが違うせいか雑談など全くしない。あの雑貨店に居た所を見られていたのにも驚いたけれど、それをきっかけに話しかけてきてくれたのが心底意外で、私は二の句が継げずにぼうっとしてしまった。
 私の沈黙を、愛莉ちゃんは否定的な意味で受け取らなかったようで、急にはしゃぎ出した。

「意外! ネイルの話できる人増えて嬉しいな! 実はね、アタシも昨日あの店行ったんだ! もう、このシリーズが好みど真ん中でね!? もはや全部推せるって思っちゃって、見て見て、全色買いしちゃったー!」

 じゃーん! と言いながら、愛莉ちゃんはスクールバッグの中から大ぶりのポーチを取り出して、開いてみせた。中には色とりどりのマニキュアが顔を覗かせている。

「すごい!! 素敵!!」

 私にとってそれはまるで、宝石箱のようだった。

「でしょでしょ!?」

 嬉しそうにはにかむ愛莉ちゃんの顔を見て、ああ、この人はやっぱり、見た目も内面も綺麗だなと思った。

 地味な私が化粧品を選ぶ姿を、「似合っていないのに」とバカにしたりしない。美容については自分の方が詳しいなどと、人を下に見るような真似もしない。
 特に親しくもないただのクラスメイトの私に、仲間の目も気にせずこうやって話しかけられるのは、純粋に、好きな物を共有する喜びを分け隔てなく楽しみたいのではないだろうか。
 私は、愛莉ちゃんがもっと好きになった。
例え、私の中に彼女を羨んだり妬んだりする気持ちがあったとしても――あまり認めたくないものだけれど、人が誰かを羨む時は自分の立ち位置なんて考えちゃいないものだ。そう、私なんかがあの人を妬むなんて恐れ多いとか、そういう事は――今、愛莉ちゃんが笑顔で照らしてくれた太陽のおかげで、影となった負の感情が、すっかり掻き消えてしまった。

 そんな私と愛莉ちゃんのやりとりを、そばにいる佳代ちゃんが珍獣でも見るような目で眺めていた。自分が休んでいた間に繰り広げられたらしい、知らない話題について訝しげに思うというよりは、どう見ても、普段接点などなさそうな二人が会話しているのが不思議でしょうがないという風だった。
私が愛莉ちゃんのようなクラスの中心にいる子とコスメの話をするなんて、「キャラじゃない」んだろう。愛莉ちゃんといつも一緒にいる何人かのクラスメイトも、同じような目でこちらを見ているのが目の端に映る。

 佳代ちゃんも愛莉ちゃんの友達も、悪い子では無い。けれど、人からどう見られるかをものすごく気にするし、一度相手を「こんな人だ」と定義すると、そこから外れる行動をされるのを酷く嫌がる子達だ。
 その気持ちはよくわかるけれど、私は佳代ちゃん達のそういうところが、時々すごく窮屈に思えてしまう。

 どうして私達はこの狭い教室内でしか判断材料がないのに、その人の性格をひとつの色に当てはめたがるのだろう。明るくて皆に優しい愛莉ちゃんだって、そう演じているだけかもしれない。教室の外に出たら、もっと素敵な彩を放つ人かも知れないのに。
 もっと彼女のことが知りたい――私は胎をくくって、愛莉ちゃんに向き合った。

「松島さん、私実は、昨日はじめてそのシリーズのネイル買ってみたの。でも、なんだか似合うと思えなくて……いつも、ピンクとかベージュばかり使ってるからかな? たまには冒険したくなったんだけど、自分に似合う色がわかんなくなっちゃった。……よかったら、アドバイスくれない?」

 愛莉ちゃんは一瞬、目をまあるく見開いたけれど、すぐに元の笑顔に戻って、

「オッケ、じゃあ放課後開けといて!」

 と言った後、可愛らしく手を振ってから自分達のグループ内に戻っていった。愛莉ちゃんの付けている香水だろうか、甘い香りが微かに鼻腔をくすぐった。

「松島さんって、結構気さくな人なんだね」

 佳代ちゃんが恐る恐ると言った様子で言った。

「なんか、うちらがコスメ見てたら仲間内でバカにするようなキャラかと思った」
 随分な言いようだなと、思わず眉を潜めてしまう。けれど、咎めるのも違うような気がして、私は飛び出しそうになった言葉を慌てて噛みつぶした。

 もしかしたら佳代ちゃんは、今までにそういう経験があったのかも知れない。”女の子”を楽しもうと、昨日の私のように冒険の旅に出ていたところを、心ない誰かに傷つけられて臆病になっているのかも。だからこそ、よく知らない相手を「こんな感じのキャラの人」と決めつけて、自分を守っているようにも思えたのだ。
 正論は時に相手を傷つける。
 私と佳代ちゃんはまだ、瘡蓋を作りながら笑い合える間柄ではないのだ。

「かっこよくて憧れなんだ、松島さん」

 そう言うだけに留めて、それより体の具合はどう? と、私達も日常へ戻った。
 
 放課後が近づくにつれて、佳代ちゃんの態度はぶっきらぼうになっていった。それでも帰り際に、

「今度はいつもみたいに、私とも遊んでよね」

 と言ったから、本気で私が愛莉ちゃんと放課後を過ごすことを嫌がっているわけではないようだった。私は彼女のすねた態度をなんだか微笑ましく思いながらも、今後の二人の関係性に変化が無さそうに思えたので、そっと胸を撫で下ろしながら佳代ちゃんと別れた。
 タイミング良く、愛莉ちゃんも帰り支度用ができたようだ。

「じゃ、行こっか。それにしても、善は急げで今日都合がついて良かったよ。ネイル道具使いながら語りたいからさ、突然なんだけどアタシん家来てもらえる? 古川さん――京子ちゃんって呼んでもいい?」

「もちろん! 良いの? いきなりお邪魔しちゃって……。あ、ついでに私も、愛莉ちゃんって呼んでいいかな?」

「当然ー」

 “呼び名の確認”の儀式を終えて――個人的には何故か、居心地が悪くなるからあまり好きじゃないのだけれど――私たちは愛莉ちゃんの家へ向かった。

 閑静な住宅地の大きな一軒家が、愛莉ちゃんの住む家だった。お洒落な外観にきちんと手入れをされているお庭が、目に眩しい。
 私のありとあらゆる理想を具現化したら、彼女になるのかも知れない……そんな風に思っていた時だった。

 一台のワゴン車が、愛莉ちゃんの立派なご自宅に停車するのが見えた。白い車体には、何かの施設の名前が書いてある。その特徴的なロゴは、以前に街中で見かけたことのある物だった。しかし、それがどんな施設を表す記号なのか、私は知らなかったし、興味も無かった。

だから、愛莉ちゃんがその車を見た途端、能面のような無表情になったのに気が付かなかった。

「なんで、そんなに早く帰ってくるなんて聞いてない」

 先程までの甲高い声からは信じられない位低く、強張った声音を聞いて初めて、私は彼女の異変に気が付いたのだった。

 ――どうかした?――

 その一言を発しようとした矢先の出来事だった。ワゴン車の中から、大柄な少女が転がるように飛び出した。小学校高学年位の年だろうか、すこしぽっちゃりとしているその子は何を思ったのか、車外に出るや否や道路に飛び出そうとするではないか。
危ない、と思った刹那に、車の中から蛍光色のTシャツを着た女性が飛び出してきて、女の子の腕をつかんだ。

「危ない危ない、江梨香ちゃん、飛び出しません」
「とびだしま、せん」

 おそらく施設の職員なのだろう、女性の言葉を、女の子が独特のイントネーションで復唱した。そのやりとりが、なんだか会話をしているというよりは、赤ちゃんが母親の言葉を真似ている様子に似ていて違和感を覚えたのだけれど、その後に耳をつんざいた女の子の奇声によって、私の頭の中は真っ白に焼けてしまったようになった。

「あら愛莉、こんな早く帰るなんてめずらしいわね」

 お人形さんのお家のような豪奢な玄関が開くと、とても私たちの年頃のこどもがいるなんて信じられないくらい、小奇麗に身なりを整えた女性が、驚いた顔でこちらを見ていた。その表情が愛莉ちゃんそっくりじゃなかったら、私はその人が彼女のお母さんだと信じなかっただろう。

 愛莉ちゃんのお母さんも愛莉ちゃんも、無節操に響き渡る女の子のキンキン声を前に、一向に動じていなかった。その意味をつかむのに私はしばらく時間を要したが、やがてパズルのピースがすべて組み合わさったように、全貌が一枚の絵として見えたその刹那、全身を雷で撃たれたような衝撃が走った。車に描かれているロゴの施設がどういった類の場所なのか、朧気ながらも判ったからだ。

「江梨香、今日は早いんだね」
「天候が悪くなるとかで、外出予定が中止になったのよ。その場合は早帰りだって言わなかったかしら」
「……」
「あら、お友達?」

 愛莉ちゃんのお母さんが私に気が付いて、にっこりと微笑み、

「いらっしゃい」

 と続けた。先ほどはただただ美しい人だと思ったけれど、よく見ると目の下に濃い隈があった。緊張のあまりどもりながら挨拶を返すと、おばさんは「ゆっくりしていってね」と言いながら、

「ママ!」

 と、抱き着いてきた女の子をぎゅうと抱きしめる。そして、職員の女性と会話をし始めた。

「入って」
「あ……お、お邪魔します」

 おばさん達より先にご自宅へ入るのは気が引けたけれど、有無を言わさぬ愛莉ちゃんの様子に気圧されて、そのまま彼女の後をついていった。通されたのは二階にある一室で、掃除は行き届いているものの、机の上や小物入れにコスメグッズが乱雑に置いてあった。他にもベッドに放り投げられているヒョウ柄のクッションや、部屋の隅に脱ぎ捨てられているパーカーに愛莉ちゃんの人間臭い部分を感じていると、バタンと大きな音がして部屋のドアが閉められる。驚いて愛莉ちゃんを振り返り、鈍感な私はそこで初めて、彼女が人形のように強張った顔をしている事に気が付いたのだ。

「驚かせてごめん」

 私はとっさに返事ができなかった。その沈黙をどう取ったのだろう、愛莉ちゃんはたどたどしく言葉を続ける。

「江梨香は私の妹で……普通の子と、少し違う。いつもはもっと帰りが遅いから、鉢合わせず済むはずだったんだけど」
「……そっか」

 なんと言っていいか、判らなかった。

 江梨香ちゃんの様子を見て、驚かなかったかと言えば嘘になる。だって、私にとって“江梨香ちゃんの住む世界”はテレビの向こう側に在る世界で、そこで繰り広げられている出来事は、所詮は対岸の火事だったのだから。
私は、芸能人が二十四時間かけて応援しているのを、見ているだけの観客にすぎない。私には無縁だと勝手に思っていた世界に、予期せず踏み込んでしまったような心地だった。

 私にとっての非日常を、愛莉ちゃんは日常として生きている。
その事実に、脳天を撃ち抜かれたような衝撃を覚えた。

 だからといって、愛莉ちゃんのお家に遊びに来たのを後悔したなんて事は絶対に無い、それだけは断言できた。

「ひいた?」

 愛莉ちゃんの双眸に、怯えが揺らめいていた。私は居ても立っても居られず、声を荒げてしまう。

「まさか! そんな訳無い! 絶対無い!」

 アーモンド型の目が零れ落ちそうなほど見開かれるのを見て、私はそこに、愛莉ちゃんの痛みをひしひしと感じた。
彼女が人に優しくなれる理由を――愛莉ちゃんという人間が抱く確固たる意志が、どのようにして生まれたのかを――垣間見たような気がして、胸が熱くなった。

彼女は綺麗なだけのお人形さんなんかじゃない、辛い事も苦しい事も経験している一人の人間なのだと実感して、私は、ふわふわした気分で勝手に憧れていた己を恥ずかしく思った。
私だって佳代ちゃんと同じく、愛莉ちゃんの事を何も知らぬまま、羨望の対象という型に押し込んでいたのだと痛感したからだ。

「――ありがと。嬉しい」

愛莉ちゃんはささやくように言ってからはにかんで笑い、

「それじゃあ、さっそくネイルしよ! 明日休みだしね、思いっきり楽しむぞー!」

と、いつもの声に戻ってからからと笑った。

強がりかもしれないその態度を見て、彼女は辛い時でもこうやって、明るい女の子を演じてきたのだろうかと胸が痛くなった。
 
 ***

 部屋の片隅に置いてあったプラスチック製のラック付きキャスターをころころと引き寄せて、愛莉ちゃんは四段ある引き出しのうちの一つを空けた。中には、ありとあらゆるネイルグッズが所狭しと収納されている。

甘皮を押し上げるのに使う「プッシャー」と呼ばれるスティック状の道具や、押し上げた甘皮を除去するために使うニッパー、保湿オイルなどの爪の整形に使用する商品から、色とりどりのネイルポリッシュ達。UVライトを当てると1分ほどで硬化する、ジェルネイルや、きらきらと輝くストーンまで。

 そんなにたくさんマニキュアを持っていて、使い切れるのかとびっくりして尋ねると、なんでも、練習がてらネイルチップという、プラスチックでできた爪の形をした部品に派手なアートを施してオリジナルの付け爪を作り、休日につけているのだとか。

教室で友達に披露していたボルドー色のマニキュアも、実は自分の爪に直接塗布していたわけではなく、ネイルチップに塗っていたのだそうだ。そうすれば、授業中教師に目をつけられること無く、放課後のみ友人らと楽しめるのだとか。一つ、謎が解けたような気がした。

 愛莉ちゃんは、マニキュアコレクションをごそごそと漁りながら言う。

「肌や髪、目の色だとか、その人の雰囲気で似合う色も、そうでない色もあると思うけれど。そんなの全部無視して、いつもの自分と無縁な色を選ぶのも、ネイルアートの醍醐味だと思うよ。似合う色しか使っちゃいけないなんて決まりは無い。マニキュアは特に、冒険しやすくて楽しいよね。爪って人間の体の中で、一番手軽に書き換えられる部分だし。
 京子ちゃんが『ライトパープル』を好きなら、人からどう思われようが関係なく使えばいいんだよ。
 ――と、いうのを前提で、あえてアタシのオススメを紹介させてもらうならぁ、やっぱこの『マンゴージュレ』って色かな」

 愛莉ちゃんはたくさんあるネイルポリッシュの中から一つ取り出し、私に見せてくれた。その間に、ベースコートとトップコートも準備してくれている。
塗ってくれるのかと嬉しく思いながら、私は『マンゴージュレ』を見た。
透明感のある明るいオレンジは、秋らしい色ではなかったけれど、ビビットすぎずかつ可愛らしい。見ていると元気が出てくる色だった。

「手、出して」

 私の指に、甘皮を処理しやすくするためのキューティクルリムーバーを塗る愛莉ちゃんの顔はいたって真剣で、少し意外だった。指をマッサージしながらリムーバーをなじませて、甘皮プッシャーを持ったところで、私の視線に気が付いた愛莉ちゃんは、照れくさそうに笑う。

「ネイリストになりたいんだ。まだ、確定じゃないけど」

 そう言いながら私の甘皮を優しく押し上げてゆき、無駄な皮膚をニッパーで取り除く。とても手際が良かった。
 ベースコートを塗って乾かすと、いよいよ『マンゴージュレ』のお出ましだ。愛莉ちゃんのポリッシュを塗る手は私のように震えたりせず、美しい直線を三度引き、私の爪をちゅるんとしたオレンジに仕上げた。
明るいオレンジは私の肌の色を綺麗に引き立て、普段の数倍手元が綺麗に見えた。選ぶ色によってここまで違うのかと感動していた時、愛莉ちゃんがぼそっとつぶやいた。

「辛くてどうしようもない時、下を向いて涙をこらえるしかない時……爪が綺麗だと、なんだか心が慰められた。カラフルな色に励まされたんだ」

「愛莉ちゃんみたいにカッコいい人でも、そんな風に思うことがあるんだね」

 愛莉ちゃんは私の爪から目線を外さず、少しだけ何かを考えてから、言った。

「小学校の時、江梨香と一緒に遊ぶと障害が移るって言われて、アタシも一緒に避けられたことがある。中学で出来た彼氏には、重すぎるって言われて振られた。
 江梨香の事を知って離れてゆく人もいれば、腫れ物に触るみたいに扱う人もいる。まるでアタシ達が見えてないみたいにスルーする人だって珍しくないよ。
 そうしなかった京子ちゃんの方が、アタシにはずっとカッコイイ。
 ……なーんて、なんか、らしくない事言っちゃった?」

 言葉の裏にある感情を誤魔化すかのように、愛莉ちゃんは豪快に笑った。そして、マンゴージュレによって美しく彩られた私の爪に、トップコートを塗ってくれる。
私はなんだか愛莉ちゃんのその笑顔が無理して貼り付けた仮面のように見えて、気が付いたら言葉が口から飛び出していた。

「人にはさ、いろんな顔があると思うよ。友達に見せる顔、親に見せる顔……どんな顔も全部、愛莉ちゃんだよ。その人“らしい”って、何だろう。外側から見たその人のイメージは単一かもしれないけど、本当はもっと多彩で当たり前だと思うんだ。人ってきっと、すっごくカラフルな生き物なんだよ。
 似合う色しか身に着けちゃいけないって決まりが無いように、無理して自分のイメージを演じなくて良いと思う。悲しい時は、泣き顔で良い。無理して笑わないでよ、愛莉ちゃん」

 はじかれたようにこちらを見た愛莉ちゃんを、私はどんな表情で見ていたのだろう。よく、わからなかった。

「今度は江梨香ちゃんも一緒に、ネイリストごっこしよっか。もちろん、迷惑じゃなかったら、だけど」

 今にも泣き出しそうな顔に笑顔の仮面を貼り付けようとして、愛莉ちゃんはそれを思いとどまった。下を向き、使ったポリッシュをラックに片づけている。

「――よっしゃ、じゃ、京子ちゃんには遠慮なく練習台になってもらうから。覚悟してよね」

 震える声に、私は彼女の本音を垣間見た気がした。

 両手をかざして、愛莉ちゃんの塗ってくれたネイルを存分に楽しんだ。夕焼けが室内に入り込み、明るいだけのオレンジに僅かな影が落ちる。そのグラデーションもまた、美しい。
 今の私だったらきっと、『ライトパープル』でおしゃれした指先も好きになれるだろうと思った。
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