合理的
文字数 3,271文字
晩夏の午後。テラスの寝椅子で彼らの到着を待っていたシドは夢の中にいた。
灰色の中間色が差し入れられた薄曇りの空。その天空から涼風が心地よく舞い込んできた。それはもう、どこか秋の気配のする風である。
トパーズの季節。この地域の秋はとても短い。その先で長雨が続く時期を過ぎると、世界を白く変える雪も降り積もる。
静かに寝息をたてているシドを認めると、サラとルシファーは同時に足を止めた。しかしカツミだけは真っすぐ寝椅子まで歩いて行き、そのまま何の躊躇もなく上に上がった。
顔を見合わせるサラとルシファー。二人の目の前で、眠っていたシドの頬にカツミが頬をすり寄せる。
「相変わらずだね。カツミ」
瞼を閉じたままシドが囁いた。その口元にはいつもの苦笑いが浮かんでいる。
「起こしてごめん。キスしていい?」
そう訊くカツミの額を、目を開けたシドの指がちょんとつつく。
「ギャラリーが気になるな」
「俺は気にしないけど」
「気にしてないのは、お前だけだよ」
「ふぅん。じゃあ添い寝させて。ここ気持ちいいから」
シドが他の二人に目配せを送った。苦笑いはもう伝染している。
「夕食の支度をしてたところなの。ルシファー、手伝って下さる?」
依頼したサラの後ろに、笑いを堪えたルシファーが続いた。
キッチンに入った途端、サラは両手を掲げると降参の白旗を振った。
「はああああ。私には無理だああ!」
「あ。俺もです」
サラの敗北宣言に、笑いながらルシファーが応じる。
「なんであんなに嫌味がないの? ほんと自然体で動けちゃうのね」
「カツミの特権みたいなもんですかね」
「びっくりしちゃった。見習いたいけど私には無理!」
ぷうと頬を膨らませるサラ。しかし彼女は、すっかりカツミの虜となったようだ。
「そう言えば先日。先輩の結婚式に行ったんですよ」
穏やかな声。背の高いルシファーをサラが見上げた。
「あら、素敵ね」
「お相手の女性。カツミの元恋人なんです」
「ええっ?」
「実質、彼女の片恋でしたけどね。ただ、カツミが彼女のことを尊敬してるのは分かりました」
「尊敬?」
誓いを終え、式場のバージンロードを並んで歩いていく新郎新婦。その時、カツミの姿を見つけたセアラが優しく微笑み手を差し伸べた。
彼女は軽く挨拶をしたつもりだったろう。しかしその手にスッと手を添え、片膝をついたカツミが、うやうやしくキスをしたのだ。まるで女王陛下に忠誠を誓う臣下のように。
美しい光景だった。羨望の眼差しと周囲から漏らされた溜息は、まだルシファーの記憶にありありと残っている。
「その後、カツミが俺の先輩に覚悟を求めるような顔をしたんです。それを見て先輩が頷き返したんですよね。言葉は一つもなかったのに通じてたんですよ」
「凄いな。目で語っちゃうのね。でも彼の衒いのなさは、もっと羨ましいわ。ああはいかないわよ」
「うーん。俺は羨ましがっていいんでしょうか」
「えっ? あっ。あはははは!」
ひとしきり笑った後、サラがキッチンの椅子に腰を下ろした。
色とりどりのカナッペが美しくプレートに並び、食事の支度はもう出来上がっている。家庭的な優しい匂いのポトフもコトコトと煮込まれていた。
テーブルの向かいの椅子に座ったルシファーにサラが目を細めて微笑む。
「尊敬の気持ちがあるのとないのでは、関係は大きく変わるものよね」
「ええ。ほんとそう思います」
サラはシドに最上級の尊敬をしていることだろうと、ルシファーは感じる。その彼に、サラは十年前とは正反対に変化した考えを告げた。
「パートナーの形って様々でいいと思ってるの。私とシドの関係も、貴方とカツミとの関係も、私の目からは自然なことに見えるのよ。そしてね。その底に相手を尊敬する気持ちがないと、続いていかないと思ってるの」
「ええ。分かります」
「カツミは貴方の中に沢山の尊敬する部分を見つけてるんだわ。だから彼は素直なままでいられるのよ。貴方のことを信じて安心できるのね」
「俺からしたら単に惚れた弱みですよ。もういい加減、慣れました」
「きゃはははは!」
サラが楽しそうに笑っていた。シドの余命を覚悟し、その上で何ができるのかを考え実行している彼女。その信念の強さにルシファーは感嘆するしかない。しかしサラにしてみれば、自分の決意などささやかなものに見えるのだ。
個人の想いはあの宇宙に通じていた。一個人の心の平安はこの世界の平穏につながっていた。そこには何の優劣もない。個も公も、たった一人の人間の中にある心の揺らぎも、この星を取り巻く万物の揺らぎも。
全ては続いている。絡まり干渉し合い、そして『ひとつ』なのだ。
「シドが本当の意味で生きることを楽しんでる。そのことが私はとっても嬉しいの」
「本当の意味で楽しむ。ですか」
「ええ。彼はね、生かされたからこそ今を楽しめるの。最近ね、疲れやすいのかよく午睡をするのよ。でもとても穏やかに眠ってるの。きっとジェイに会っているのね。シドの寝顔を見てるとね、私まで安らげるのよ」
葛藤を乗り越えた者だけが語れる言葉であった。穏やかな口調の中に微かに残る苦さ。しかしサラはもう、その苦さを蒸し返すことはない。昨日は捨て、今だけに生きる。愛する人と、そして自らのために。
「サラさん」
「なあに?」
「また来ますよ。貴女と話してると沢山の宝物を拾ったような気持ちになれます」
「ふふっ。そう? 特区双璧の一人にそれ言われると、なんか照れるな」
「中身は全然ガキですよ。日々、痛感させられてます。あの小悪魔に」
「きゃははは! もお。笑わせすぎよぉ。ルシファー」
「いや。そこ、笑うところじゃないんですけど」
ワインクーラーの氷の中にシャンパンをガサリとさし入れて、サラがにっこりと微笑む。
「泊まっていってね。今夜は飲むわよ」
どうやらウワバミらしいサラの言葉。どこまで付き合いきれるだろうかと、ルシファーは冷や汗を流した。
◇
「まったく。お前に昔、添い寝しろと言われた時のことを思い出したよ」
そう言いながら微笑むシドの頬に、カツミが唇を寄せた。
「うん。でももう、わざわざ訊いたりなんかしない。そんなの非合理だし」
「お前が合理的な根拠で、ここに横になってるとは思わなかったな」
「そう? 時間だけは待ってくれないからさ。無駄な遠回りはやらない」
カツミの言葉を聞きながら、遠回りも悪くないとシドは心で呟く。到達点が見えてきたからこそ思えることであったのだが。
「ねぇ。ドクター。魂ってあると思う?」
ふいに向けたカツミの問いは不思議なものだった。
「難しいことを聞くんだね。裏で飛び交ってるキースの映像のことか?」
「知ってたの? あれ、新型機で撮影したんだ。ルシファーは実際に見たんだよ」
「データならアーロンの所から直ぐに来るからね。私は残留思念だと思ったな。あの予言の言葉は残留思念だとリミター中佐が言ってたらしいね」
「それと同じものだとドクターは思ってるの?」
「断定は出来ないな。する意味もないしね。キースの思念がこの先どうなるかも分からないしね」
「そっか。夢を見たようなものなんだね」
夢を見たようなもの。カツミの解釈は的を射ていた。クレイルは見続けた夢で人生を左右され、それが行動に結び付いた。カツミもまた予知夢を見たことが、ドアを開ける切っ掛けとなっている。
夢。それをただの夢だと思うのも行動に繋げるのも、見た者が選ぶことなのだ。
「もしキースが生まれ変わってきたら、カツミはどうするんだ?」
シドの問いもまた不思議なものだった。しかしカツミは即座に答える。
「取りに行く」
いつものように。何の躊躇もなく。
くすりとシドが小さく笑う。その頬にカツミが頬を寄せた。何の心配もいらないな。シドはそう思いながらも、久しぶりに微かな寂しさを覚えていた。
シドにはもう一つの問いがあった。しかしそれは心の中に留めることにした。
もしジェイが生まれ変わってきたらカツミはどうするんだ? 問うまでもない問いなのか。それとも?
答えは……彼にも分からなかった。
──了──
灰色の中間色が差し入れられた薄曇りの空。その天空から涼風が心地よく舞い込んできた。それはもう、どこか秋の気配のする風である。
トパーズの季節。この地域の秋はとても短い。その先で長雨が続く時期を過ぎると、世界を白く変える雪も降り積もる。
静かに寝息をたてているシドを認めると、サラとルシファーは同時に足を止めた。しかしカツミだけは真っすぐ寝椅子まで歩いて行き、そのまま何の躊躇もなく上に上がった。
顔を見合わせるサラとルシファー。二人の目の前で、眠っていたシドの頬にカツミが頬をすり寄せる。
「相変わらずだね。カツミ」
瞼を閉じたままシドが囁いた。その口元にはいつもの苦笑いが浮かんでいる。
「起こしてごめん。キスしていい?」
そう訊くカツミの額を、目を開けたシドの指がちょんとつつく。
「ギャラリーが気になるな」
「俺は気にしないけど」
「気にしてないのは、お前だけだよ」
「ふぅん。じゃあ添い寝させて。ここ気持ちいいから」
シドが他の二人に目配せを送った。苦笑いはもう伝染している。
「夕食の支度をしてたところなの。ルシファー、手伝って下さる?」
依頼したサラの後ろに、笑いを堪えたルシファーが続いた。
キッチンに入った途端、サラは両手を掲げると降参の白旗を振った。
「はああああ。私には無理だああ!」
「あ。俺もです」
サラの敗北宣言に、笑いながらルシファーが応じる。
「なんであんなに嫌味がないの? ほんと自然体で動けちゃうのね」
「カツミの特権みたいなもんですかね」
「びっくりしちゃった。見習いたいけど私には無理!」
ぷうと頬を膨らませるサラ。しかし彼女は、すっかりカツミの虜となったようだ。
「そう言えば先日。先輩の結婚式に行ったんですよ」
穏やかな声。背の高いルシファーをサラが見上げた。
「あら、素敵ね」
「お相手の女性。カツミの元恋人なんです」
「ええっ?」
「実質、彼女の片恋でしたけどね。ただ、カツミが彼女のことを尊敬してるのは分かりました」
「尊敬?」
誓いを終え、式場のバージンロードを並んで歩いていく新郎新婦。その時、カツミの姿を見つけたセアラが優しく微笑み手を差し伸べた。
彼女は軽く挨拶をしたつもりだったろう。しかしその手にスッと手を添え、片膝をついたカツミが、うやうやしくキスをしたのだ。まるで女王陛下に忠誠を誓う臣下のように。
美しい光景だった。羨望の眼差しと周囲から漏らされた溜息は、まだルシファーの記憶にありありと残っている。
「その後、カツミが俺の先輩に覚悟を求めるような顔をしたんです。それを見て先輩が頷き返したんですよね。言葉は一つもなかったのに通じてたんですよ」
「凄いな。目で語っちゃうのね。でも彼の衒いのなさは、もっと羨ましいわ。ああはいかないわよ」
「うーん。俺は羨ましがっていいんでしょうか」
「えっ? あっ。あはははは!」
ひとしきり笑った後、サラがキッチンの椅子に腰を下ろした。
色とりどりのカナッペが美しくプレートに並び、食事の支度はもう出来上がっている。家庭的な優しい匂いのポトフもコトコトと煮込まれていた。
テーブルの向かいの椅子に座ったルシファーにサラが目を細めて微笑む。
「尊敬の気持ちがあるのとないのでは、関係は大きく変わるものよね」
「ええ。ほんとそう思います」
サラはシドに最上級の尊敬をしていることだろうと、ルシファーは感じる。その彼に、サラは十年前とは正反対に変化した考えを告げた。
「パートナーの形って様々でいいと思ってるの。私とシドの関係も、貴方とカツミとの関係も、私の目からは自然なことに見えるのよ。そしてね。その底に相手を尊敬する気持ちがないと、続いていかないと思ってるの」
「ええ。分かります」
「カツミは貴方の中に沢山の尊敬する部分を見つけてるんだわ。だから彼は素直なままでいられるのよ。貴方のことを信じて安心できるのね」
「俺からしたら単に惚れた弱みですよ。もういい加減、慣れました」
「きゃはははは!」
サラが楽しそうに笑っていた。シドの余命を覚悟し、その上で何ができるのかを考え実行している彼女。その信念の強さにルシファーは感嘆するしかない。しかしサラにしてみれば、自分の決意などささやかなものに見えるのだ。
個人の想いはあの宇宙に通じていた。一個人の心の平安はこの世界の平穏につながっていた。そこには何の優劣もない。個も公も、たった一人の人間の中にある心の揺らぎも、この星を取り巻く万物の揺らぎも。
全ては続いている。絡まり干渉し合い、そして『ひとつ』なのだ。
「シドが本当の意味で生きることを楽しんでる。そのことが私はとっても嬉しいの」
「本当の意味で楽しむ。ですか」
「ええ。彼はね、生かされたからこそ今を楽しめるの。最近ね、疲れやすいのかよく午睡をするのよ。でもとても穏やかに眠ってるの。きっとジェイに会っているのね。シドの寝顔を見てるとね、私まで安らげるのよ」
葛藤を乗り越えた者だけが語れる言葉であった。穏やかな口調の中に微かに残る苦さ。しかしサラはもう、その苦さを蒸し返すことはない。昨日は捨て、今だけに生きる。愛する人と、そして自らのために。
「サラさん」
「なあに?」
「また来ますよ。貴女と話してると沢山の宝物を拾ったような気持ちになれます」
「ふふっ。そう? 特区双璧の一人にそれ言われると、なんか照れるな」
「中身は全然ガキですよ。日々、痛感させられてます。あの小悪魔に」
「きゃははは! もお。笑わせすぎよぉ。ルシファー」
「いや。そこ、笑うところじゃないんですけど」
ワインクーラーの氷の中にシャンパンをガサリとさし入れて、サラがにっこりと微笑む。
「泊まっていってね。今夜は飲むわよ」
どうやらウワバミらしいサラの言葉。どこまで付き合いきれるだろうかと、ルシファーは冷や汗を流した。
◇
「まったく。お前に昔、添い寝しろと言われた時のことを思い出したよ」
そう言いながら微笑むシドの頬に、カツミが唇を寄せた。
「うん。でももう、わざわざ訊いたりなんかしない。そんなの非合理だし」
「お前が合理的な根拠で、ここに横になってるとは思わなかったな」
「そう? 時間だけは待ってくれないからさ。無駄な遠回りはやらない」
カツミの言葉を聞きながら、遠回りも悪くないとシドは心で呟く。到達点が見えてきたからこそ思えることであったのだが。
「ねぇ。ドクター。魂ってあると思う?」
ふいに向けたカツミの問いは不思議なものだった。
「難しいことを聞くんだね。裏で飛び交ってるキースの映像のことか?」
「知ってたの? あれ、新型機で撮影したんだ。ルシファーは実際に見たんだよ」
「データならアーロンの所から直ぐに来るからね。私は残留思念だと思ったな。あの予言の言葉は残留思念だとリミター中佐が言ってたらしいね」
「それと同じものだとドクターは思ってるの?」
「断定は出来ないな。する意味もないしね。キースの思念がこの先どうなるかも分からないしね」
「そっか。夢を見たようなものなんだね」
夢を見たようなもの。カツミの解釈は的を射ていた。クレイルは見続けた夢で人生を左右され、それが行動に結び付いた。カツミもまた予知夢を見たことが、ドアを開ける切っ掛けとなっている。
夢。それをただの夢だと思うのも行動に繋げるのも、見た者が選ぶことなのだ。
「もしキースが生まれ変わってきたら、カツミはどうするんだ?」
シドの問いもまた不思議なものだった。しかしカツミは即座に答える。
「取りに行く」
いつものように。何の躊躇もなく。
くすりとシドが小さく笑う。その頬にカツミが頬を寄せた。何の心配もいらないな。シドはそう思いながらも、久しぶりに微かな寂しさを覚えていた。
シドにはもう一つの問いがあった。しかしそれは心の中に留めることにした。
もしジェイが生まれ変わってきたらカツミはどうするんだ? 問うまでもない問いなのか。それとも?
答えは……彼にも分からなかった。
──了──