一人目

文字数 2,058文字

 幼い頃の記憶だった。すっかり錆び付いて、いつの日かは分からない。

 場所は路上で、僕は通行人だった。だけど、移動手段の自転車のブレーキが壊れていた。レバーを何度も押す内に、そのことにようやく気が付いた。

 日々のメンテナンスを(おこた)っていた自分に過失があるのは言うまでもなく、しかしながら下り坂の途中で、速度を緩めようと思った時には遅かった。

 止まらない、と思い、僕は横に身を投げ捨てた。

 無人になった自転車が坂を下る。通行人や車両に衝突すれば、間違いなく被害が出る。だけど、それを目で追うことしかできない。

 自転車が徐々に蛇行を始める。

「危ない」と声を出そうとした時、自転車の前に立ち塞がった同い年くらいの少女がそれを止め、横に倒し、勢いを全て地面へ流した。
 
 まるで暴漢を路上へ組み伏せるようにして――。


 ♢♢♢♢♢♢


「それで付き合うことになったの? 白石さんと」

 頷いて、僕は首肯する。

「あなたとは釣り合わないからやめた方がいいわよ、絶対に」

「もっと優しく助言できないわけ?」

「これでもビブラートに言ってるのよ」

「いや、それになんの意味が……」

 オブラート、と言おうとして失敗したらしい。いや、失敗のしようがないと思うけど。

 彼女の所作や言動には品があり、一見は温室育ちという印象を受ける。

 だけど、首からヨーヨーをぶら下げた恰好が、元々の印象と妙にミスマッチだった。以前、雑誌でそういう特集を見て以来、彼女はそれが世間の流行であると、鵜呑みにしている。

「白井さんにとっては、一時の気の迷いでしょうに、血祭りというか」

「火遊びね」

「それとも、なにか嫌なことがあって、強いショックで記憶を上書きしようとしてるのかも」

 端的に言えば、彼女は僕の幼馴染みということになる。

 名を松代(まつしろ)(ほたる)と言った。

 幼い頃に、路上で助けてもらったことをきっかけに知り合い、それから何度も二人で(特に廃墟で)遊ぶ仲になった。嬉しいことに、その縁が今でも続いている。

高菜(たかな)の花よ、白石さんは」

炒飯(チャーハン)にすると美味しいやつだから、それは」

 僕達は別々の高校に通っている。だけど、地域の合唱コンクールなどで、白石さんの姿を見たことがあると言った。目立つ人だから、事前に認知があったのかもしれない。

「ところで、高校生にもなって、いつまで首にヨーヨーをぶら下げて外を出歩くつもり? 恥ずかしくてコンビニにも行けないんじゃない?」

「あなたにだけは言われたくない」

 僕の足元のローラーブレードを見ながら蛍は言う。


 ♢♢♢♢♢♢


 それから、僕はコンビニに立ち寄って、飲み物を購入した。周囲の客からは、多少、奇異の目で見られたけど、気にしなかった。

 蛍はコンビニから少し離れた場所で、文庫本を片手に突っ立っていた。いや、僅かに左足が動いていたかもしれない。

 レジで会計を済ませ、彼女に駆け寄る。どうでもいいことだけど、ローラーブレードが壊れているので、歩き辛いこと、この上ない。自宅を出た段階で違和感はあったけど、散歩を続ける途中で完全に走行不可能な状態になった。

「お待たせ」

「待ってない、というか少し離れて、恥ずかしいから」

 彼女は言うと、手提げ鞄の中に文庫本を閉まった。「ノートルダムドパリ」と題にある。軽く訊ねると、その結末が気に入っているらしい。

 多分、何度も読み返している本なのだと思う。蛍は自分は気に入ったものを、簡単に手放すことをしない。物持ちがいいとも言えるし、意地悪な言い方をすれば、執着心が強いのかもしれない。

「大体、どうしてローラーブレードなんて履いてるわけ?」

「最近また例のアレ(ストーカー)があったから、いざという時、すぐに逃げられるように」

「また?」

 蛍は驚いた顔のあと、「対策が間違ってると思う」と、僕を小馬鹿にしたような顔になった。そして次に、心の底から僕を憂う表情を浮かべた。

「大丈夫なの?」

「大丈夫だよ」

 安心したのだろううか、「そう」と彼女は少し微笑んで目を閉じた。
 
 負担を掛けたくないと、白石さんには話せないことでも、彼女には打ち明けられる瞬間がある。それは僕達が人生の要所要所で、適度に相手にもたれ掛かかって来たからだろう。

「そう言えば、ついさっき、あなたを待っている間に白石さんを見掛けたわよ」

 なぜか、視線を下に向けながら、蛍は続ける。

「でももういなくなっちゃった」

 そして彼女は自分の靴の底を払うようにした。

「え」と僕は声を上げていた。人影は見えなかったけど、逆方向に後ろ姿だけ見えたのかもしれない。残念だった。

 僕達はその場をあとにする。

 民家の庭先に花が咲いていて、蛍はそこへ駆け寄るようにした。葉に穴が開いていることを知ると「悪い虫が付いちゃったのね」と呟いた。

「どれだけ大切に思っているものでも、こうやって突然荒らされることってあるわよね」

「そうだね」

「だから悪い虫は取り除かないと」

 それにしても、誤って虫でも踏んでしまったのだろうか。それからもう一度、靴の底で地面を払うような仕草をした。ぐりぐりと、非常に強い力で。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み