浮ついた気持ち

文字数 4,113文字

 家に帰ると、玄関には彼女の誕生日にプレゼントした黒のパンプスと、見たことのないスタン・スミスの白いスニーカーが並べて置かれていた。スニーカーの横幅は異様なまでに広がり、表面には皺が伸び始めていて所々に黒いシミがある。擦り減った中敷きからは、汗臭いにおいが漂って来る気がした。
 僕は反射的に音を消して玄関に入り、足音を殺してリビングに向かった。リビングのドアノブを最後まで下に倒してから、中の様子を覗き見てみる。

 すると、中では二人の男女がセックスをしていた。女の熱のこもった吐息の間に挟まれる聞いたこともない名前と、でかい男の背中と、その男の両脇から生えるように覗かせる女の白い脹脛とピンと張ったつま先。それが僕の目と耳から得られる情報の全てで、その光景は僕の彼女が浮気をしている現場に他ならなかった。
 僕はゆっくりとリビングのドアを閉めて、一度小さく息を吐く。眩暈のようなものが襲ってきて足元がおぼつかなくなったが、僕は懸命にそれを堪えた。今は弱っている場合ではないのだ。

 僕は自分の中に芽生えたあらゆる感情を寄せ集めてから、勢いよくドアを開け放とうとドアノブを掴む。その時、彼女の甘い喘ぎ声が僕の聞いたこともない男の名前を愛撫するように叫んだ。
 そんな彼女の声が耳に届いた瞬間、僕は不思議なことに彼らに対して吐き出すべき言葉を見失ってしまった。
 ついさっきまで、あらゆる感情が頭の中で彼らを突き刺そうとする鋭い言葉に変わっていたはずだった。もうすでにその引き金に指をつける段階まで進んでいたのだ。しかし、ありとあらゆる言葉たちは、頭の中を空き巣に入られたみたいに簒奪されてしまっていた。
 僕は掴んでいたドアノブから手を離した。この扉を開いて彼らを糾弾する気にもなれなかったし、彼らの世界に自ら踏み込んでいく気にもなれなかった。
 玄関に戻り彼女から貰ったコンバースのスニーカーを履いて外に出た。


 その数日後に、彼女から気になる人ができたと報告があった。彼女はソファベッドの上で俯きながら申し訳なさそうな表情を作っていた。(そのソファベットは彼女が激しく交わっていた場所だった)
「あなたはとても優しいし、すごくいい人だと思うわ。……だから、こういうことになっちゃったのは、全部私のせい」
「いや、いいんだ。僕の方にも非はあったと思う」と僕は言った。「当面、この家は君が使っていてほしい。必要なものは今持っていくから、その他の物は処分して構わない」
 僕は必要なものを部屋から探した。しかし、本当に必要なものなんて一つも見つからなかったし、僕にとって本当に必要な物には全て彼女の匂いが刻まれていた。結局、僕の荷物はトートバッグ一つでも足りるくらいの量だった。
 とにかく、僕は一刻も早くこの家から出ていきたかった。さっきからずっと眩暈がしているのだ。熱のこもった吐息。でかい男の背中。ピンと張ったつま先。

「ねえ。あなたには本当に申し訳ないことをしたと思っているの。だから、もしよかったら友達のままでいられないかしら?」
 友達? 僕は彼女と友達になって何を話すのだろう? 彼女の生理が遅れていることの相談でもされるのだろうか。僕は試しに彼女と友達になってみることを頭の中で想像してみたが、あの薄汚れた白いスタン・スミスのスニーカーがどうしても頭から離れなかった。
僕は彼女の質問には答えずに、必要最低限の荷物を持って家から出た。
 
 それから僕は彼女の全てを忘れようと必死に務めた。仕事に打ち込み、酒に溺れ、ゆきずりの名前も知らない女を抱いた。しかし、それらすべてが僕に与えたのは行き場のない空虚な気持ちだけだった。それは僕をどこにも導かず、ただ立ち止まって時間が過ぎていくのを辛抱強く待つことしかできなかった。

 ある日、僕はジャズが流れる上品なバーで出会った女を抱いた。その女をベッドに誘うのはとても簡単なことだった。僕は人肌に触れることを求めていたし、女は男の太い腕に抱かれることを求めていた。そこにためらいも遠慮も躊躇もなかった。
 女はおそらく僕よりも年下だった。人目を惹く金色の髪の毛をしていて、その毛先は意志があることを主張するようにカールしている。耳には楕円形の大きなピアスをつけていて、妖艶さに磨きがかかるようなピンク色の唇をしていた。僕の彼女だった女性とは違うタイプだったけれど、細い身体に浮き上がるような豊かな乳房は僕を十分に硬くさせた。

 行為が終わった後、僕は女に向かって自分の彼女が浮気していたことを打ち明けた。僕はこの話を誰にもしたことはなかったけれど、この女に対して話をすることはとても自然な成り行きの事のように思えたのだ。
「その彼女さんに浮気するような傾向はあったの?」
僕の話を一通り聞いた後、女は自分の手のネイルを注意深く点検しながら言った。
「ないと思う。少なくともこれまではなかったな」
「それって本当によく考えた? 女の人がそういうことをする時って、サインみたいなものを出しておくと思うんだけどね。そういうことをする前に」
 僕は彼女と交わした会話を記憶の中から洗い出して、そこに隠れたサインがなかったか慎重に検討してみた。(そこには細心の注意を払う必要があった)
「私も今日はね、そういうサインを出してきたの。本当にこのままあたしを行かせていいのかって」
「じゃあ、君が出したサインに彼氏は気付かなかったわけだ」
「そういうことになるね」
女は特に残念がる様子もなく平然と言った。女はまだ自分のネイルを見続けていた。
「具体的にはどういうサインを出してきたんだろう?」
「それはプライベートなことだし言えない。それに、あたしに聞いたってあなたの参考にはならないよ。女は100の嘘を使い分けるし、100のサインを持ってるの。たった一つを知ったところであなたの彼女さんは戻ってこないよ」
 僕は彼女の100の嘘と100のサインを頭の中に思い浮かべていたが、どちらも7個目あたりで考えるのをやめた。これ以上考え続けていたら朝日が昇ってしまう。
「7個も気づけたなら上出来だと思う」と女は僕の顔を見て驚いたように言った。「普通の人だったら多分3個くらいで諦めて、投げ出すところだもん。きっとあなたは本当にその彼女さんの事が好きだったんだね」
 僕は彼女の言ったことを認めないわけにはいかなかった。しかしそれに対してうまい言葉が見つからず、僕はしばらくの間じっと虚空を見つめていた。そこに適した言葉が転がっていないか探し求めるように。
「あるいはそうだったかもしれない」
「あなたの話し方ってなんか特徴的ね。『あるいはそうだったかもしれない』」
 絞り出したように僕が言うと、女はからかうように僕の真似をした。
「そんなこと君に初めて言われたよ」
「なんていうんだろう。話し方に抑揚がないっていうか、感情の変化が感じられないの。それって、わざとやっているの?」
「いや、考えたこともなかったな。わざとやっているつもりはないよ」
「ふうん。まあいいけど」と女は興味をなくしたように言った。「それよりさっきの話に戻るけどさ、あなた彼女さんの嘘とかサインに気づいていたって言ったよね。それなのに、浮気しているような傾向はないと感じていた。それってちょっと矛盾してるって思わない?」
「僕がさっき頭に浮かんでた嘘やサインは、それほど複雑な感情が絡んでいないものだったんだよ。些細な嘘だし、単純なサインだった。僕が思いつけたのはその程度のものなんだ」僕はベットの脇に置いてある間接照明の光をぼんやりと見ながら言った。「それに、彼女は本当に言いたいことはきっぱりという人だったんだよ。彼女のそういうところを僕は尊敬していたし、とても魅力的だと思っていたんだ。だからそんな彼女が、他の男に抱かれに行く許可を求めるサインを出していたなんて、正直イメージが湧かないな」
 女は僕が言ったことを時間をかけて頭の中で咀嚼しているように見えた。
「それがあなたの言い分ってわけ?」
「そういう言い方もできる」
 一分くらいの沈黙を挟んだ後、女はようやく口を開いた。そこには、悲しみや寂しさを含んだような色合いがあった。
「あなたって、生き方が上手なんだね。とても私には真似できないよ」
「それってつまりどういう――」
 僕は女が言った事の意味について尋ねようとした時、それを制するように女は僕に口づけをした。
「気にしないでいい。ただの皮肉だからさ」
 そう言ってから、女はもう一度吸い付くようにキスをしてくる。僕は女の言葉を深く追求する間もなく、色欲の波にのまれていった。

 それから僕たちはもう一度セックスをした後、嵐の夜を乗り越えるヤギとオオカミのように身を寄せ合って眠った。当たり前のことだけど、そこには生の人間の温かみと、高揚していた気分を落ち着かせてくれるような女性特有の匂いがあった。
 僕はこの女ともう少し会話をしていたいという衝動に駆られていたが、また明日にでもすればいいと思いそのまま眠りについた。
 しかし、朝起きた時にはもう女の姿はなかった。


 彼女と別れてかなりの時間が経った後、僕が喫煙所待ちの列に並んでいる時にようやく自分の過ちに気が付いた。それは誰かの落とし物の中身を僕がうっかり見てしまったみたいに、出し抜けに発覚したことだった。

 僕はおそらく、傷つくべき時に傷つかなかったのだ。
 彼女の浮気が発覚した時、僕は彼女に対して芽生えた気持ちに蓋をして言葉にしなかった。それが間違いだった。芽生えた気持ちがなんであれ、僕は彼女に対して言葉を吐き出すべきだったのだ。それが怒りであれ、悲しみであれ、あるいは殺意であっても。
 それをしなかったから、僕はここから身動きができずに停滞し、空虚な気持ちを抱きながら生き続けなければいけなくなってしまった。

 後ろに並ぶ人から押されるように、僕は煙草の煙で充満している喫煙室へと足を進める。僕は事務的に煙草を口につけてから、大きく息を吸って吐いた。ぷかぷかと浮かぶその煙はどこにも向かうことはなく、いつの間にか消えてなくなってしまった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み