第1話

文字数 1,881文字

 日雇いのアルバイトで得られるものなんて、お金以外ほとんど無い。前日に勤務先を告げられ、知らない人達と一日だけ仕事をし、終わってしまえばそれまで。雇い主だってきっとそう、こっちの名前にすら興味はない、そんなもの。思い返せばひどい仕事もあった。
「この現場で出る粉塵、体に悪いからしっかりマスクしてね」と言われた現場では、帰ってから少し咳が長引いた。何度か「フロンガス」と書かれたボンベを壊した事もある。これでまた少しオゾン層が壊れた。そんな日雇いアルバイトの中、一際光っている仕事がある。たった一日で私の人生をも変えてしまったその一風変わった日雇い仕事、それは今後一生携わることの無い現場「配管」だった。
 所詮金さえもらえればそれで良い。そう考えていた私は、当時大学生だった。ハイカン、とは新たに建設する建物に下水管などを配備する仕事、とその日初めて知った。現場は近々開局する薬局で、雇い主は田口クレーンの田口さん、おそらく社員は一人だった。
「まずはちゃんと挨拶からだろうがよ」
 彼との会話は厳しい指導から始まった。その時某国立大学に通っていた私は、正直この目の前の中年男性より良い仕事に就く自信があった。しかもこの、日雇いのどこの馬の骨とも分からない私を雇わねばならぬなんて、憐れな身だと正直馬鹿にしていた。
 仕事内容はそれなりにハードだった。下水管を埋める穴を掘ったり、重い器具を運んだり。田口さんの命令口調が少し気になったが、どうせ一日の辛抱だ、と自分に言い聞かせた。
 昼休み、私は田口さんと持参した弁当を食べることになった。
「君は大学生か」
「はい、●●大学です」
「そうか、国立大か。立派だな」
 ただの国立大じゃない、●●大学なんだよ。所詮大学レベルの違いも分からない程度なんだろうこの人は、そう思っていた私は次の質問に脳天を撃ち抜かれることになる。
「その大学では、将来何になれる?」
 答えられなかった。とりあえず有名大学に入れば後は何とかなる、そう考えていた私にやりたい仕事も無ければ、諸先輩方がどんな職に就いているのかすら全く把握していなかった。黙っている私を見かねた田口さんは、
「まあ国立大なら何とかなるだろう」
 そう言って、午後の仕事の準備を始めた。
 午後三時頃、トラブルが起きた。必要な部品が見当たらないのだ。田口さんは複数の業者に必死になって電話をかけ、何度も謝り懇願していた。自分に対する厳しい口調からは想像できない姿だった。何とか調達できる業者が見つかり事なきを得た。その時私は確かこんな質問をしたと思う。
「何でそんなに一生懸命になれるんですか?」
 田口さんはミニショベルを動かしながら、こう答えた。
「だってこれ、完成しないと薬局の人困るだろ。下水道使えないんだから」
 当たり前だ、でもその当たり前の為にこの人は必死になっている。こんな私みたいな人の手を借りてまで。その頃から私は、お金よりも何よりもまずこの仕事を完成させたい、そう思うようになっていた。
 徐々に日は落ち始め、作業には投光器が必要になってきた。私がその位置を絶妙に動かしながら田口さんが掘り、部品を配置する。いつの間にか息も合うようになっていた。夢中になっていた私に突然田口さんが口を開く。
「すまん、時間内に終わりそうにない。契約は五時までなんだ。ここまでで帰ってくれ」
 帰れって? 残り全部を一人でやるのかよ、そう思った私は思わず呟いた。
「いいですよ、後少しですから。手伝います」
 それでも田口さんは首を横に振った。
「いや、追加料金は支払えないんだ。後は一人でなんとかするから」
 もうこの時の私にお金はどうでもよかった。ただこの田口さんと二人で配管を完成させたかった。その後、小一時間の作業で配管工事は完了した。完成した作業場で田口さんに言われた言葉が今でも忘れられない。
「ありがとう、助かったよ」
 ——ありがとう、その言葉が胸に刺さった。
 何かのために一生懸命する仕事がこんなに気持ちが良いなんて。この何とも言えない感情は当時の私の心に深く染み渡った。
 あれからもう二十年が経つ。あの薬局は今もあるのだろうか。きっとそこで働く人達は私と田口さんを知らない。排水溝を流れる水は勝手に浄水場に流れると思っているだろう。でもそれが滞りなく行われているのは、間違いなく私たち二人のあの必死な作業のお陰だ。
 世の中、この当たり前を自分の知らない沢山の人が支えている。それを教えてくれたあの一日は今でも私の大切な宝物だ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み