一話完結
文字数 3,023文字
錆びのついた古びた箱をあけると、そこに幾枚かの葉書がはいっていた。
シミのついた乳母色 の裏面でしまわれていた。宛先はかかれておらず、ただ古くホコリの匂いを立ちこめるだけのそれらの葉書に好奇心がわきおこり、いざ中身を拝見しようと手を伸ばすと、急に背筋が凍るような寒気に襲われた。おそるおそる後ろを振り返ると、両親が訝しく見つめており、目線が合ったら、軽い咳払いをして、それから、また作業に戻っていった。天井に吊るされている白い電球が部屋にあふれるホコリを照らし、それらが私の鼻の中にはいっていくのだと意識すると、とたんに肌が栗立って、幼いくしゃみを何度かした。両親は二人とも、窮屈に全身を黒く染め上げ、私もまた、紺色の制服に袖を伸ばしていた。箱を閉じて、掃除をするフリをしていたが、悶々と葉書の中身が気になって、少しすると、両親がホコリを纏った地球儀や机、椅子などを品定めするような様子で見つめているのが目に入り、私から注意がそれていることを確認してから、逃げるように箱を持って、隣の部屋に移動した。
湿った畳が燻 らす梅雨の匂いが立ちこめており、その暗い部屋の明かりをつけると、何度かの点滅の後に、鈍い光が全体を照らした。老朽化をしらせる不安な音といっしょにドアを閉め、唾を飲みこみながら、また箱を開けると、ポコッと明るい声音をだして、再び重ねられた葉書が現れた。
なにかを連絡する通知書だったのか、それとも送り忘れた年賀状か。はたまた、誰かの恋文か。ワクワクした健康的な緊張が走りながらも、一番上の葉書を手に取り、勢いよく裏返した。
文字が綴られているものばかり想像していたから、西日に照らされて茜に彩られたおもちゃの景色に、私は目を丸くするだけだった。写真の古さからくる侘しさか、夕暮れの陽光が導く懐かしさか。夢想は裏切られたが、期待は上回ったその不思議な魅惑を有した写真を、私は息を飲んで見つめ続けた。
「あら、さやちゃんや、なにしとるんかね?」
写真を凝視していると、唐突に耳に入った柔和に実った声に、思わず肩を震わせて、手に持っていた写真を戻そうと慌てて箱の中に手を突っ込んだ。
「お、おばあちゃん」
背中で箱を隠したまま、後ろを振り返り、ぎこちない笑みを向けると、忙しない私の行動にきょとんとしながらも、すぐに嬉しそうに目を細めた。祖母はまだ、数珠を握りしめていた。
「なぁに、あわててらっしゃるんだい」
「い、いやぁ、これはぁ」
言い訳を探ろうと脳を回転させていると、祖母は踵 を上げ、ぷるぷると足の指を震わせながら、私の奥にある箱を覗き込もうと努めていた。言い訳を考えることに集中してしまっていた私は彼女の初々しい溌溂 な行動に気づくのが遅れ、あぁ、という情けない声を上げて彼女を制止しようと両手をバタバタと振って視界をうばおうとした。それも手遅れだった。
「あれ、それって」
驚嘆に目を開いて写真を見つめる祖母の姿に、私は罪悪にも似た申し訳なさを感じながら、すっかり委縮して顔を下げ、彼女からの叱責を待ち構えたが、なつかしいわねぇ、なんていうあっけらかんとした声に、思わず顔を上げて彼女の顔を見た。
「そんな写真。いったいどこにあったのよ」
そう言って、私の後ろを周り、あのおもちゃの写真を手に取って、懐かしそうに見つめた。
「これはね。おかあさんの子どもの頃の写真よ」
「おかあさん?」
「あぁ、さなえよ。あなたのおかあさん」
するりと、畳と衣類の擦れる音がして、祖母は大和に立ち上がり、部屋を出て居間に向かったかと思うと、すぐに私の元まで戻ってきた。正座して、持ってきたケースから眼鏡を取り出し、皴だらけの顔にかけ、もう一度、写真を入念に眺めた。祖母の綺麗な姿勢に、私も居住まいを正して、彼女のまねをして正座した。
「さなえわねぇ、幼いときは毎日のようにこのおもちゃで遊んでたのよ。かあちゃん、かあちゃんってさ。いっつもあたしがお母さん役で、さなえがご飯を食べる役だったの。よく分からないでしょぉ」
微笑を漏らした祖母の吐息が私にかかり、優しく前髪を揺らした。
次はなにが入っているかなぁ、そう呟きながら、祖母はふとももに箱を置き、枯れ葉に変色した二枚目の葉書を取り出して裏返した。私も前のめりにその写真を見た。
「…電話?」
私の問いに、祖母は嬉しそうに声を漏らした。
「そうねぇ。さやちゃんは見たことないのかい?公衆電話よ。待ち合わせしたり、家に連絡を入れたりするときは、いっつも使ってたのよ。テレフォンカードも知らんかい?」
私は首を横に動かして、知らないと答えると、すこし驚いた顔をして、私の髪を撫で始めた。たおやかに心地よい撫で方だった。くすぐったさも、気持ちを温めた。
「おじいちゃんとも、こうやって連絡をとってたの?」
私の思いがけない質問に、祖母は撫でている手を止めて、私と目を合わせた。しまった、そう理解する前に、祖母はぽんぽんと私の頭を優しく叩いた。思わぬこそばゆさに、すこし目が緩めていると、すぐに叩いていた手は引かれてしまった。物足りなさに目を開けて、祖母のことを見ると、彼女は箱を慈しむようにゆっくり愛撫していた。撫でるたびに、箱から錆びた粉が部屋に舞って、私の後悔がにじみ出た。私は彼女から目をそらし、じっと畳を見つめた。傷んだ畳から顔を出す藁床 が家の歴史を伝えてきた。
「そうね、そんなときもあったわね」
祖母の顔を上目で見ると、しとやかな潤みを含んだ寂しい瞳が、古い箱を反射して映らせており、それがまるで湖に映る富士山のような、言葉以上の感動をもっていた。
私は水をさすように、箱の中に残った最後の写真を手に取り、目の前に掲げてた。
薄曇りのときに撮ったのだろうか、少し暗いトーンで映った波が、潮風の匂いを放ちながら砂浜から引いていた。私の顔の前に持ってきて眺めていた写真の枠から、祖母の姿がぼんやりと見えた。彼女はすっかり箱を撫でるのをやめて、私の方へ姿勢を正していた。
「その写真はね——」
見てもないのに、祖母は口を開いた。
「その写真はね、大切なものなの。なによりも大切な」
「そう、なんだ」
私の放った、ただ返すだけの言葉の後に、祖母は目をおとし、左手の薬指を何度も撫でた。何もはめられていないはずの左手が輝かしく光って見えた。
「うん。家族になって、初めて一緒に歩いた道だから」
海の見えないこの家に、不意に潮騒がやってきた。波が寄せて、やがて引く。その音が耳に入って、脳裏に白波をのぞかせた。
「あら、いけない。雨だ」
その祖母の声に、私は窓に目を向けた。曇天が辺りを暗く覆っており、目に見える透明に近い淀んだ色をした細い線が、幾重にも地面に当たって飛び跳ねた。私は箱に入っている全ての写真を、水の中に溶かしてしまいたい思いに駆られた。溶けて、水と一緒に悠久の中を漂って欲しかった。
よっこらせ、そう言って祖母は立ち上がり、あけすけに開かれた家中の窓を閉めに部屋を出た。部屋の上から、雨が滴ってくる。漏れ出た水滴が、私の持っていた海の写真に当たると、じわじわと色が抜けるように滲み、私は慌てて制服で水を払った。おばあちゃんに返さなきゃ。
立ち上がると、痺れが足を襲った。
それでも、私は引きずるように足を動かし、ドアを開けた。
ドアノブに手を伸ばし、それを回して押すと、耳に入ったのは壊れてしまいそうな甲高い音だった。
シミのついた
湿った畳が
なにかを連絡する通知書だったのか、それとも送り忘れた年賀状か。はたまた、誰かの恋文か。ワクワクした健康的な緊張が走りながらも、一番上の葉書を手に取り、勢いよく裏返した。
文字が綴られているものばかり想像していたから、西日に照らされて茜に彩られたおもちゃの景色に、私は目を丸くするだけだった。写真の古さからくる侘しさか、夕暮れの陽光が導く懐かしさか。夢想は裏切られたが、期待は上回ったその不思議な魅惑を有した写真を、私は息を飲んで見つめ続けた。
「あら、さやちゃんや、なにしとるんかね?」
写真を凝視していると、唐突に耳に入った柔和に実った声に、思わず肩を震わせて、手に持っていた写真を戻そうと慌てて箱の中に手を突っ込んだ。
「お、おばあちゃん」
背中で箱を隠したまま、後ろを振り返り、ぎこちない笑みを向けると、忙しない私の行動にきょとんとしながらも、すぐに嬉しそうに目を細めた。祖母はまだ、数珠を握りしめていた。
「なぁに、あわててらっしゃるんだい」
「い、いやぁ、これはぁ」
言い訳を探ろうと脳を回転させていると、祖母は
「あれ、それって」
驚嘆に目を開いて写真を見つめる祖母の姿に、私は罪悪にも似た申し訳なさを感じながら、すっかり委縮して顔を下げ、彼女からの叱責を待ち構えたが、なつかしいわねぇ、なんていうあっけらかんとした声に、思わず顔を上げて彼女の顔を見た。
「そんな写真。いったいどこにあったのよ」
そう言って、私の後ろを周り、あのおもちゃの写真を手に取って、懐かしそうに見つめた。
「これはね。おかあさんの子どもの頃の写真よ」
「おかあさん?」
「あぁ、さなえよ。あなたのおかあさん」
するりと、畳と衣類の擦れる音がして、祖母は大和に立ち上がり、部屋を出て居間に向かったかと思うと、すぐに私の元まで戻ってきた。正座して、持ってきたケースから眼鏡を取り出し、皴だらけの顔にかけ、もう一度、写真を入念に眺めた。祖母の綺麗な姿勢に、私も居住まいを正して、彼女のまねをして正座した。
「さなえわねぇ、幼いときは毎日のようにこのおもちゃで遊んでたのよ。かあちゃん、かあちゃんってさ。いっつもあたしがお母さん役で、さなえがご飯を食べる役だったの。よく分からないでしょぉ」
微笑を漏らした祖母の吐息が私にかかり、優しく前髪を揺らした。
次はなにが入っているかなぁ、そう呟きながら、祖母はふとももに箱を置き、枯れ葉に変色した二枚目の葉書を取り出して裏返した。私も前のめりにその写真を見た。
「…電話?」
私の問いに、祖母は嬉しそうに声を漏らした。
「そうねぇ。さやちゃんは見たことないのかい?公衆電話よ。待ち合わせしたり、家に連絡を入れたりするときは、いっつも使ってたのよ。テレフォンカードも知らんかい?」
私は首を横に動かして、知らないと答えると、すこし驚いた顔をして、私の髪を撫で始めた。たおやかに心地よい撫で方だった。くすぐったさも、気持ちを温めた。
「おじいちゃんとも、こうやって連絡をとってたの?」
私の思いがけない質問に、祖母は撫でている手を止めて、私と目を合わせた。しまった、そう理解する前に、祖母はぽんぽんと私の頭を優しく叩いた。思わぬこそばゆさに、すこし目が緩めていると、すぐに叩いていた手は引かれてしまった。物足りなさに目を開けて、祖母のことを見ると、彼女は箱を慈しむようにゆっくり愛撫していた。撫でるたびに、箱から錆びた粉が部屋に舞って、私の後悔がにじみ出た。私は彼女から目をそらし、じっと畳を見つめた。傷んだ畳から顔を出す
「そうね、そんなときもあったわね」
祖母の顔を上目で見ると、しとやかな潤みを含んだ寂しい瞳が、古い箱を反射して映らせており、それがまるで湖に映る富士山のような、言葉以上の感動をもっていた。
私は水をさすように、箱の中に残った最後の写真を手に取り、目の前に掲げてた。
薄曇りのときに撮ったのだろうか、少し暗いトーンで映った波が、潮風の匂いを放ちながら砂浜から引いていた。私の顔の前に持ってきて眺めていた写真の枠から、祖母の姿がぼんやりと見えた。彼女はすっかり箱を撫でるのをやめて、私の方へ姿勢を正していた。
「その写真はね——」
見てもないのに、祖母は口を開いた。
「その写真はね、大切なものなの。なによりも大切な」
「そう、なんだ」
私の放った、ただ返すだけの言葉の後に、祖母は目をおとし、左手の薬指を何度も撫でた。何もはめられていないはずの左手が輝かしく光って見えた。
「うん。家族になって、初めて一緒に歩いた道だから」
海の見えないこの家に、不意に潮騒がやってきた。波が寄せて、やがて引く。その音が耳に入って、脳裏に白波をのぞかせた。
「あら、いけない。雨だ」
その祖母の声に、私は窓に目を向けた。曇天が辺りを暗く覆っており、目に見える透明に近い淀んだ色をした細い線が、幾重にも地面に当たって飛び跳ねた。私は箱に入っている全ての写真を、水の中に溶かしてしまいたい思いに駆られた。溶けて、水と一緒に悠久の中を漂って欲しかった。
よっこらせ、そう言って祖母は立ち上がり、あけすけに開かれた家中の窓を閉めに部屋を出た。部屋の上から、雨が滴ってくる。漏れ出た水滴が、私の持っていた海の写真に当たると、じわじわと色が抜けるように滲み、私は慌てて制服で水を払った。おばあちゃんに返さなきゃ。
立ち上がると、痺れが足を襲った。
それでも、私は引きずるように足を動かし、ドアを開けた。
ドアノブに手を伸ばし、それを回して押すと、耳に入ったのは壊れてしまいそうな甲高い音だった。