第1話

文字数 3,975文字

 今日はいつもより帰りが早い。本当は休日だった。大きな案件を抱えている関係で、ここのところ、残業続きだ。いや、終電間際で帰ることがほとんどだ。せっかくの休日だから、今頃家でゆっくりしているはずだったのにと、心の中で愚痴る。トラブルが発生して、急きょ休日出勤をするはめになった。いつもより早いと言っても、すっかり夜だ。まあ、無事解決できたからよしとしよう。この案件が終わったら、今日の代休と溜まった有給含めてたっぷり休もう。
 それより早くシャワー浴びて、ビール飲みたい。ビール飲みながら、ゼットフリックスで映画でも見よう。せっかくだから何か食べたいし。宅配でも頼もうか。いつもなら諦めてコンビニで適当におつまみ買うけど、この時間ならオーバーイーツは余裕で注文できる。ビールはまだ冷蔵庫にあったなと思いながら、マンションの前でオーバーイーツのアプリを開く。何を食べようか、今日は休日出勤で頑張ったことだし、ご褒美に美味しいものでも食べよう。ピザ、ハンバーガー、唐揚げ、餃子、お寿司。アプリに表示されるお店のメニューを見ながら迷ってしまう。
 そういえば外灯もあるけど、何となくいつもより明るい気がする。そう思って空を見上げると、満月なのか、きれいな丸い月が浮かんでいる。ここのところ、心に余裕がなかった。早く帰って寝ようと、家路を急ぐばかりで、夜空を見上げようとすらしなかった。今日を休日として過ごしていたら、きっと家でダラダラして、きれいな月を見上げることもなかっただろう。たまには休日出勤も悪くないか。オーバーイーツ頼めるし、満月も見られたんだから。
「お好み焼き食べたい」
 思わず声に出ていた。すぐ近くでハハッと笑い声が聞こえた。声の方を振り向くと、若い男性が笑いを堪えていた。
「いや、失礼。通り過ぎようとしたら、満月見ながら、お好み焼き食べたいって言っているから」
 どうやらツボにはまったらしく、ククッとおかしそうに笑っている。少し睨みながら
「ちょうどお腹空いていましたしね。オーバーイーツで何を食べようか探していたくらいですから」
 と言い返してやった。
「いや、普通は月を見てきれいとか言うけど、お好み焼き食べたいは意外だったから。面白いな、どんだけ食い意地はってんだよって」
 またおかしそうに笑い出す。こんな人相手にしないで、マンションの中に入ろうとした時だった。
「ねえ、お姉さん。これから一緒にごはん食べに行かない?」
「は? ナンパ?」
「いや、月を見てお好み焼き食べたいって言うくらいだから、一緒にごはん食べたら面白いだろうなって」
「もう、そればっかり言わないで。ツボにはまったのは分かったから。思わず心の声がもれちゃってたの」
 じゃあ、とでも言うように手をかざして、このまま誘いを振り切ろうとしたが、彼はまだ諦めてくれない。
「急いでマンションに入ろうとしているみたいだけど、俺もここの住人なんだけど。コンビニでビール買って帰ってきたところ」
 ほら、とでも言うように小さなビニール袋を掲げて見せる。
「ビール飲んで何かつまもうと思っていたけど、お姉さん見て気が変わった。せっかくだから、満月の夜にお好み焼き食べて、ビール飲もうよ。目の前で、鉄板で焼いてくれるお好み焼きが食べたい。まだ、オーバーイーツ注文していないよね?」
 そう聞かれて思わず頷いた。
「じゃあ、これ直してくるから、ちょっと待ってて」
 マンションに入っていく背中を見つめながら、見かけない顔だなと思った。最近越してきたのだろうか。まあ、近所付き合いをしていないから、そんなに住人の顔を把握しているわけではないけど。それにしても、男の人と食事に行くなんて久しぶりでどうしよう。今さらながら、緊張してきた。流されていつの間にか食事に行くことになっているし。待ってと言われて、おとなしく待っている自分もどうかしている。同じマンションの住人なら、今後関わることがあるかもしれない。挨拶もかねて、食事くらいは付き合うか。食事と言っても、お好み焼きだけど。
「お待たせ」
 と声がして顔を上げた。いつの間にか着替えてきたようだ。先ほどのスェットから、デニムに履き替えている。
「えっ? 着替えてきたの? ずるい。私も着替えたかった」
「お姉さんはまだきれいな格好しているからいいじゃん。あまりにもラフだったからさ。俺一人だったら、そのままでもよかったけど、お姉さんと一緒に行くから着替えた方がいいかなって」
 不意打ちで言われて、ドキリとする。
「せっかく着替えても、臭いつくよ」
 ごまかすように言った。
「別に。洗えばいいんだから。お姉さんだって臭いつくからお互い様」
「ねえ、さっきからお姉さんって呼んでいるけど、私にも名前あるんだけど。同じマンションンの住人だし、大人なら挨拶すべきじゃない?」
「それも、そっか。まだお互い名乗っていなかったね。俺は柴崎雅人。最近ここに引っ越してきたばっかりで、この辺のお店とかも知らないから教えてよ」
「柴崎さん。私は一木麻里。そっか。最近越してきたんだ。お好み焼きと言っても、ここの近くにはなくて、少し離れているんだよね。せいぜいもんじゃ焼きのお店ならあるけど。今日はまた移動も大変だから、もんじゃ焼きにしようよ」
「ええっ。せっかくなら、お好み焼き食べたかったけど。でも、次はお好み焼き食べに行くって約束できるしね。うん、もんじゃにしよう」
 何だかいちいち惑わせることを言ってくる。口説かれているのかと錯覚しそうになる。
「そういえば、お好み焼きって、あの形から連想したの? パンケーキとかの方がかわいくない?」
「いいの。別にそこにかわいさを求めてないから。地元にさ、『満月』ってお好み焼き屋があったの。店名にちなんで、満月の頃にサービスデーがあって、ちょと割引してもらえるの。学生の頃よく食べていたから、懐かしくて思い出しちゃった」
「なるほどね。それでお好み焼きだったんだ。まだ、パンケーキとか、ウサギとかの方がかわいかったけど」
「ウサギ? そんな月にウサギがいると信じている子どもじゃないわよ。食い意地はってるし、かわいげもないしね」
「ごめん、麻里さん。怒んないで。食い意地はって面白い麻里さんは、かわいいよ」
 いきなり名前呼びと思ったら、今度はかわいいとまで言う。でも、よく聞いたらフォローしているんだか、けなしているんだか。単にチャラいだけか、人との距離感が近いんだと思う。
「ねえ、柴崎さんは大学生? ずいぶん若そうだけど」
「えっ? 俺? 26だけど。大学生に見えた? 童顔だからかな。ちゃんと社会人なんだけど。麻里さんはいくつ? あ、呼び方も雅人でいいよ」
「女性に年齢聞くってデリカシーないよ。まあ、言うけどさ。私が先に大学生って聞いてきたしね。私は29歳。あと、いきなり雅人呼びはちょっと。柴崎君で勘弁して」
「麻里さんも若く見えるよ」
 もう、何だコイツは。名前呼び、慣れ慣れしいまでは付け加えなかったが。これは流した方がいいのか。久しぶりに女性として扱われているようで、くすぐったい。どうすればいいか内心焦っているのに、彼は余裕そうだ。ちょっとカッコいいし、モテるんだろうな。付き合っている彼女とかいないのだろうか。もし、彼女がいたら、一緒に食事に行くのもマズイのではないか。思いきって聞いてみる。
「柴崎君は彼女とか、いないの?」
「何だよ、麻里さん。人にはデリカシーないとか言いながら、踏み込んでくるじゃん」
「いや、彼女とかいたら、こうして食事に行くのもマズイかなって。人によって浮気のラインとか許せる範囲とか違うじゃない?」
「そこを気にかけてくれるのは嬉しいけど。今は彼女いないよ。少し前に別れた。大人になったら、付き合いで飲みに行ったり、食事もあるじゃん。しかも、もんじゃだし。食事くらいでゴチャゴチャ言ってくる人とは付き合わないよ」
 ちゃんと答えてくれた。それに、元カノといろいろあったんだろうなと、若干面倒くさそうな言い方からも伺える。
「そっか。答えてくれてありがとう。私はフリーだよ」
 思わず、何を口走っているんだと自分にツッコむ。彼もそんなこと言われたって困るだろうし。
「ふうん。麻里さん、彼氏いないんだ。かわいいのに。なら、食事に行くのも問題ないね」
 そう言ってほほ笑みかけられたら、余計に心拍数が上がってしまう。この調子で私は持つのだろうか。動悸の薬がほしい。
 こんなやり取をしているうちに、もんじゃ焼き屋の前まで来てしまった。
「ほら、ここだよ。ここのもんじゃも美味しいんだから」
 そうだ、今回の目的は同じマンションの住人として、挨拶を兼ねた食事だと言い聞かせるように言った。
「ねえ、麻里さん。マンション何号室?俺は402号室」
 唐突に聞かれ、402号室と頭の中で繰り返す。402号室の隣、403号室は空室だ。404号室はなく、403号室の隣は
「405号室」
「えっ。麻里さん、隣の隣だ。403号室は空室だから、ほぼお隣さんじゃん」
「しばらく403号室、空室なっているみたいだけど、勧められなかったの?」
 どぎまぎしながらも、聞いてみた。
「勧められたけど、ちょうど402も空きが出てさ。麻里さん住んでるって分かってたら、403にすればよかったかな」
 本当にもう、何だコイツは。彼が店の引き戸を開けながら、先に入るよう促す。そして、耳元で
「この後、部屋行っていい?」
 と囁かれてしまった。コイツ、たらしだ。そう思いながらも、完全にやられてしまった。
返事ができずに固まっている時点で手遅れだ。チョロイ女と思われたかもしれない。でも、今日は休日出勤して頑張ったしと、意味不明な言い訳を考える。もうここは、満月が導いてくれた出会いに身を任せることにしよう。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み