第1話

文字数 1,999文字

 昭和4年6月1日、朝から小雨が降る中、白浜の田辺湾にある神島の沖に停泊中の戦艦長門の船室で、学者による青年への講義は始まった。
 同席した野口は、学者が青年に対して無礼な態度や言質を行わないか、緊張しながら学者を見つめていた。その学者は、非常に変わった奇人であるという噂があったからだ。

 学者はここ紀伊の国で生まれた。子供の頃から驚異的な記憶力を持ち、周りから神童と言われ、友人たちからは「てんぎゃん(天狗)」というおかしなあだ名で呼ばれた。10代後半に東京で学生生活を送った後に、一人で海外に渡り、後にイギリスの大英博物館で研究を続けて数多くの論文をネイチャー誌などの科学雑誌に発表した。帰国後は故郷に戻り、神島で自分の好きな研究を続けている。特に菌類の研究では数多くの発見を行なっていた。ただ、物凄い癇癪持ちで気難しく、人間嫌いだという話もあった。

 その在野の学者に、野口が仕える青年が会いたいと言い出したのだ。青年は幼少期から自然科学の学問に深い興味を持っていた。
 様々な折衝と手続きを経て、青年と学者は会うこととなり、この日を迎えることになったのだった。

 この日、戦艦長門の甲板で、野口の前に現れた学者は、髭を生やし、眼光鋭く、精悍な顔つきをした男だった。身なりはフロックコートを着た立派な紳士であり、野口に対しても、礼儀正しく、態度も慇懃で丁寧だった。フロックコートはイギリスにいた頃から大事にしているものをこの日の為に着てきたということであった。
 どんな奇人がやってくるのかと身構えていた野口はその紳士ぶりに拍子抜けしつつも、まずは安心した。学者は手に大きな風呂敷包みを提げており、野口が中身を尋ねると、本日の講義で使用する資料であって献上品であるということだった。

 さて、学者は講義を始めると、持参した風呂敷包みを開けた。
 野口は目を疑った。そこから出てきたものは大きなボール紙製の森永ミルクキャラメルの大箱であった。
 これを献上しようというのか、やはり奇人だったかと思い、慌てて野口が席を立ち、学者に声をかけようとした時、学者はそのキャラメルの大箱の蓋をさっと開けた。青年は興味深そうに箱の中を覗き込んだ。
 そこには学者が集めた粘菌の標本が100種以上並べられていた。青年が嬉しそうに感嘆の声を上げたので、野口は声をかけるのを止め、腰を下ろした。青年が不快に思うどころか嬉しそうにしているので、野口はほっと安堵のため息をついた。

 粘菌の標本を丁寧に説明する学者とそれを真剣に頷きながら聞いている青年を見ながら、野口は不思議な事だと思った。粘菌という目に見えない不思議なものが、本来であれば決して出会うはずのないこの二人を結びつけたのだ。学問というものが、今日、この場での学者と青年の不思議な関係を作り出したのだと思った。

 学者による講義は、青年の希望により、予定を少し超えて30分ほど行われた。森永ミルクキャラメルの大箱に入れられた粘菌の標本はそのまま献上品として受理された。
 普通は献上品というと桐の箱などに入れられてくるものだが、森永ミルクキャラメルの大箱に入れられた献上品ということが、青年にとっては非常に可笑しく楽しかったようで、野口は、その後、青年から幾度かこの思い出話を聞いた。青年はいつもクスクスと笑いながら、嬉しそうにこの話をした。

 学者にとっても、その日は特別な一日であったということを、野口は後日知った。学者はよほど嬉しく感激したようで、帰宅後、フロックコート姿で妻と写真館に行き、講義のお礼として頂戴した菓子を妻に持たせて、2人で記念写真を撮ったという。
 野口はその話を聞いて、あの精悍な顔をした髭の大柄な男が、随分と可愛らしいことだと微笑ましく思った。

 昭和37年、青年は白浜を再訪した。学者と会った日から既に30年以上の月日が流れていた。その間に大きな戦争が起こり、日本も世界も大きく変貌した。学者は既に亡くなり、かつての青年も60歳を過ぎ、あの時会った学者と同じ年齢を迎えようとしていた。
 ちょうどその日は、学者と会った日と同じく朝から小雨が降っていた。かつての青年は船上で田辺湾に浮かぶ神島を見て思いを馳せ、学者のことを懐かしみ、こんな短歌を詠んだ。

「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」

 昭和天皇の詠んだ短歌は800以上公表されているが、一般人の名前を入れて詠んだ歌はこの一首のみである。それはただ一度、一日だけ会った在野の学者、南方熊楠に対しての懐かしい思いに対して詠まれた歌だった。
 型破りだった学者に対して、定型を崩した歌を詠んだのは、昭和天皇のさりげないユーモアだったように思う。
 もしかしたら、南方熊楠が献上した、あの森永ミルクキャラメルの大箱をことを思い出し、クスクスと笑いながら、嬉しそうにこの歌を詠んだのかもしれない。
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