第4話「棒人間」

文字数 2,303文字

 黄ばんだ扇風機が、Nの部屋の倦怠をかき混ぜた。彼はもう何時間もこの光景を見ている。彼は会社員だった。やるべきことも、退屈への嗅覚も、もう既に失っていた。

 やがて、小さなプロペラは次第にその回転を緩め、最後には静寂を残して止まった。予約が切れたのだろうが、Nはそれを見つめるだけで、再び点けようとはしなかった。茹だる暑さが小さな社宅の一室を満たし、彼は何かを考える力すら失っていた。彼は、記録的猛暑の白昼に、融けていった。

 液体となって、堕ちた世界では、色が死んでいた。見渡す限り、モノクロが見知らぬ中世風の街を覆いつくしていたのだ。それは、肺も灼くようなこの世界の炎天と相まって、彼の精神をじりじりと侵食した。

 停止していたNの思考を動かしたのは、驚きだった。彼が自分の腕を眺めると、それは一本の漆黒の線であった。彼は、棒人間になっていた。精密な黒い線で構成されている、街灯や家々とひどく不釣り合いに見えた。周りを見ると、自分と同じような棒人間がいた。顔の部分の白が少し茶色くなっていた。彼は、同じく簡素なデザインの馬に乗って、馬車を牽こうとしていた。まだ出発前らしい。椅子に乗っているのは、棒人間ではなく、白黒の恰幅の良い男だった。

 Nは、その太った男の手に何かが握られているのを見つけた。なぜだか、興味が湧いて、馬車に近づいて見ることにした。

「むっ、なんだ? 棒人間が俺様を見ているんじゃない」

恰幅の良い男は、Nに向かってそう言った。彼の声は、見た目と同じく豚に似ていて、傲慢な響きをしていた。手に持っていた物を置いてから、腹の贅肉を邪魔そうに彼は少し屈んで、目の前にいる馬車の運転手の棒人間から鞭を奪うと、Nを叩いた。

 咄嗟の暴力に、思わず反応が遅れたNは無抵抗に鞭に打たれ、白と黒の混在した地面へ転がった。灼熱の陽光が暖めた地面は、彼の全身を火傷させるほど熱を持っており、Nは久し振りの痛みに無い顔を歪ませた。Nが立ち上がると同時に、男が言った。

「そういえば、お前汚れていないな。よし、丁度『商会』に行くところだったし、お前を売ってやろう」

男は、横に置いた物を再び掌中に戻した。それは、ペンとインクの瓶だった。瓶にペンを浸して、何かを宙に描き始めた。一本の縄だった。彼は、それを運転手に渡すと、その棒人間はNのもとへやって来て、彼を拘束した。細い胴を縛るのはあまりにも簡単だった。

 何もかもが分からないまま、Nは縄を握る男を隣に、馬車へ乗った。不快な揺れが彼の胃袋を時々浮かしては彼の不安を煽り、目が痛くなるような単調な色の景色が彼を益々混乱させた。

 やがて、大きな洋館に辿り着いた。商人風の、下卑た笑みを浮かべた人物が男を迎え入れる。Nは別の部屋へ通されて、尋問された。今までどう生きてきたのか、なぜ汚れていないのか。彼は素直に全て吐き出したが、信じられることは無かった。気の狂った者だと思われて、田舎で奴隷となることが決まった。この世界では、棒人間の地位は甚だしく低い様であった。

 同じく洋館にいた、痩せっぽちの意地悪い顔をした人物が彼のことをまた縄で縛った。彼の主人だという。再び馬車に揺られて、気色の悪いモノクロを意味もなく眺める。どす黒い林を過ぎ、禍々しい森を過ぎた所に農場はあった。真っ白な空とは対照的に、黒々とした地面の上には、鍬を持った棒人間が何人か働いていた。

 Nも主人に鍬を渡されて、畑を耕し始めた。突き刺すような日光が痛いが、元より腕は真っ黒なのだから、日焼けで赤くなっているかなんて確認のしようが無かった。

 どれ位経っただろうか、農場の前にある大きな建物の鐘が鳴った。今日の仕事は終わったようだ。Nは明日からも耕し続けることを考えて絶望していた。

 その時、別の棒人間がNに話しかけて来た。

「新入りか?」

「はい」

「そのうち慣れるよ。氷水に指を浸してるうちに感覚が消えるだろ?」

彼は、乾いた笑いを漏らすと、白を見上げて独りごちた。

「あと三年で、解放だ」

解放という単語の意味が気になったが、Nは彼のどこか老獪な表情に何も言うことが出来なかった。

 夕飯は出されなかった。棒人間が何を食べたところで、腹は無いからだ。それでも空腹感のようなものは存在していて、寝ている間も彼の心に、へばり付く様な不快を与えた。次の日も、また次の日も彼は畑を耕しては寝る日々を送った。

 半月ほど経った頃、漸く彼は「解放」の意味を知ることとなる。きっかけは、月に一度あるという給料日だった。奴隷だったが、棒人間たちは雀の涙程の給料を貰っていた。主人がその内の一人について、解放することを発表して、奴隷たちは騒めいた。彼が蓄積した賃金がペンを購入する費用に達したのだ。彼は、主人から一本のペンとインクを受け取ると、自分の身体に線を描いて、人間になった。これから、以前の洋館へ行って、証人になる手続きをするのだという。他の奴隷達が、羨望を含んだ恨めしそうな目で彼を見つめた。元棒人間は、以前の仲間に対して既に蔑みの目を向けていた。

 その日の夜、計算してみたら、Nがペンを受け取るまでには、十年以上の月日を要した。僅かな希望は、絶望に囲まれてオセロのように絶望へと反転してしまった。彼は再び考えるのをやめた。

 毎日毎日、無心に鍬を振り続けた。自分と鍬の違いが分からなくなった頃、彼はまた融けた。と言っても、今回は別世界に移動したわけではない。インクとして、地面に落ちただけだった。間も無く主人が拾うと、自分の瓶に入れた。刹那、

「何だ、元の世界と同じじゃないか」

という彼の呟きが、インクの黒に吸い込まれて行った。
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