第1話

文字数 1,069文字

 ダメ人間!旧約聖書のヤコブの物語(創世記25章19節〜35章)を読んだ時、思わず叫んでしまった。
 宗教科の免許を取るため母校で教育実習に行った際、ヤコブ物語を担当した。改めてヤコブ物語を読むと、そこには嘘つきでずるくて臆病で図々しい人間がいた。ヤコブは母親の言いなりになって父をだまし兄を出し抜き、その結果叔父ラバンのもとに逃げる。逃亡中のベテルでは、敬虔に祈っているようで、神が守ってくれたならとしっかり取引をもちかけている。だましたヤコブは今度は叔父ラバンにだまされ、故郷に帰ろうとするが兄が怖くて戻れない。ダメすぎる。納得いかないのは祝福を騙し取られたエサウではなく、だまし取ったヤコブとともに神がいることだ。
 読んでいて腹が立って仕方がないにもかかわらず、この物語を40代になった今でも繰り返し読んでいる。それは「ペヌエルでの格闘」があるからだ。ヤコブが戦った相手は諸説ある。しかし腿の関節が外れても、相手が音を上げるまで話さなかったヤコブから、「自分を変えたい!」という必死さが伝わってくる。結果「足を引っ張る」という意味がこめられたヤコブという名から、「神と戦った」ことを表すイスラエルという名となる。今度はだまし取るのではなく、自らの力で獲得したのだ。
 ヤコブを嫌いなのは自分に似ているからだ。主体性が無く、謙虚に見せておきながら図々しく、臆病で、嘘つきで、すぐ逃げ出す。そんな自分を変えたくて、ヤコブのように恥も外聞もかなぐり捨てた時がある。ヤコブは自分の鏡でもあり、ライバルだ。
 晩年のヤコブは、自分とエサウも親の偏愛に翻弄されたにも関わらず、子どもたちの中でヨセフだけを愛し、他の兄弟の憎しみを煽る。「兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフを可愛がるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった」(創世記37章4節)という描写の通り、ヤコブの偏愛は、兄弟たちに決定的な亀裂をもたらす。イスラエルという名前を得ようと必死になったヤコブはそこにはいない。しかし神は最後までヤコブとともにいる。落語家の立川談志は、「落語とは人間の業の肯定である」と述べた(立川談春『赤めだか』)。聖書の神も、ヤコブを始め欠点ばかりの人間を時に怒りながらも決してそばを離れない。聖書には私達と同じ欠点もあり、過ちを犯した人間が登場する。そしてその人間たちが、ヤコブがペヌエルで戦ったように一瞬きらめきを見せる。ダメ人間たちと神が織りなす物語が集まった聖書は、ダメな私もまた神から支えられていることを思い出させてくれる大好きな本である。
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