わからない
文字数 2,410文字
食べ物の味がわからない。昔からだ。みんなが食事の時に笑いながら「美味しい」と言う意味が、私にはわからなかった。確実にわかるのは、かたい・やわらかい・からいの3つ。炭酸飲料の口に入れた瞬間の不思議な感じも嫌いではない。子どもの頃はパチパチと口の中ではじける綿菓子をよく食べていた。味の感想を聞かれてもニコニコしながら「シュワシュワする」と言っておけば誤魔化せた。子どもなりによく考えたと思う。
「次のエッセイテーマ、『食』にしたいんですよね」
眠そうにしながら100円のコーヒーを飲む彼は、手帳を見ながらペンで頭をかいている。考え事をする時はいつもペンを強く頭に当てていて、きっと学生時代からの癖なんだと思う。
「それは……食べ物ってことですか?」
「食べ物に限りません。日食や月食の話題、食物連鎖の話、考え方は貴女に任せます」
草食系男子と言われたら頷く見た目で、眼鏡のレンズは厚く少し汚れている。よく見るとワイシャツとジャケットの間に着ているカーディガンも毛玉が多い。そして、絶対以前会った時より痩せている。
「とりあえず、来月末までにお願いします。字数とか細かい話はメールしますんで。それから、先週頂いた原稿の話なんですけど……」
私の担当は有名大学を出ている同じ歳の男性である。生活が不規則で、浮き沈みも激しそうで、とにかく大変そうだなぁと思う。好きなこと出来てるから辛くない、と以前飲み会では笑って話していたけれど、私なら耐えられる気がしない。
「あの、いつも思うんですけど打ち合わせ本当にここでいいんですか? お金支給されるんで別に気にしなくてもいいんですよ? 自分はよく分からないですけど、コーヒーチェーン店って言うんですか?」
私がいつも指定していたのは自宅から徒歩数分の地下鉄駅直結のフードコートである。夕方のフードコートは学校帰りの高校生たちで溢れていて、音楽を聴きながら勉強している子も多い。他人の視線とか、怖くないのかな?
「えっと、良いんです! 私ああいう所仕事出来るぞって人ばっかりで落ち着かなくて。あと、ああいう所高いじゃないですか!? 私食べ物にお金かけたいと思わなくて!!」
「そ、そうですか……。じゃあ、今度また会わなきゃいけない時はここで」
「はい。ありがとうございました!」
無事に終わった。早く帰ろう。久々の人混みで、少し疲れてしまった。やっぱり私は集団で生きるのに向いていない。晩御飯はコンビニで買ってしまおうか。いや、さっさと寝るなら食べなくてもいいな。ぼんやり考えながら、地下街をフラフラと歩き始める。
「あの!」
腕をいきなり掴まれて慌てて振り返ると、ゴミを捨ててから走って追いついてきたらしい彼だった。息が上がっていて、肩が規則的に上下している。顔も少し赤く、脂肪の塊である私の腕を掴んでいる手も熱い。
「貴女の文章が好きで、もっといろんな人に読んで欲しくて……貴方が有名になれるように、全力でサポートします。だから、もっと頼ってください」
彼の目はさっきまでの眠気をまとっていた目とは違い、とても真剣だった。
「引き止めてすいませんでした。お疲れ様です」
彼はそう言って何もなかったかのように踵を返す。地下鉄に乗って会社へと戻るようだ。仕事、本当に好きなんだな。そう思えるのが、とても羨ましい。
食べ物の味がわからない、なんて今まで誰にも言えなかった。
給食もよく残していて担任に怒られていた。生産者の苦労とか命を頂いているとか、耳にタコができるくらい聞いた。ただただ咀嚼を繰り返して飲み込む行為を何も楽しみがないのに繰り返さないといけない苦痛。こんなもの、どう説明していいのかわからなかった。
以前、沢山食べたら味がわかるようになるかと思ったけど、そんなことなくただただ太って終わった。歳をとると痩せにくくなると言ってたし、運動はするべきかもしれない。食べ物の話なんて私には書けないから、食後の運動とかそういう流れにしてほとんど運動の話にしてしまおう。それなら、締切までに間に合う。どうにかなる。彼も頑張っている、私も出来る限りのことはしよう。
「突然お呼び立てしてしまってすいません」
通院の為に街へ出ていたら「ちょっと逢えますか」という短いメールが来た。いつも病院の後はすぐに帰るので、街に残っているのはなんとなく慣れない。あと、フードコートではないお店に居ることも。何を頼めば良いかわからず、とりあえずアイスコーヒーにした。
後から来た彼はいつもより声が沈んでいた。そして、顔も青い。
「原稿読みました」
静かな店内にはパソコンを持ち込んで仕事をしている人が多く、キーボードを打つ音が鳴り止まない。駄目だ、ここ、落ち着かない。早く帰りたい。
「来週までに全部書き直して貰えますか?」
「はい」
初めての全文書き直し。聞いてはいたが本当にあるのか。だが、なんとなく呼び出された時点で想定はしていた。手の震えが止まらない。スカートをギュッと掴む。
「単刀直入に言って、いつもの貴女の魅力が1ミリもありません。テーマが嫌だったなら言って欲しかったです」
提出前に何度読み直してもしっくりこなかった。この違和感は正しかったようだ。呼吸が浅くなる、苦しい。でも、いつも通り振る舞わなくては。
「い、いえ! 『食』って幅広くて、考えてたらドツボにハマっちゃって、本当にダメですね!」
「笑って誤魔化さないでください!」
そう言った彼の顔は何故か泣きそうな顔だった。
わからない。このアイスコーヒーの味が。今の彼の感情が。
わからない。頭が良くて天職に就いた彼に、社会からドロップアウトした私の気持ちなんか。……いや、わかってほしくないのかもしれない。
「次のエッセイテーマ、『食』にしたいんですよね」
眠そうにしながら100円のコーヒーを飲む彼は、手帳を見ながらペンで頭をかいている。考え事をする時はいつもペンを強く頭に当てていて、きっと学生時代からの癖なんだと思う。
「それは……食べ物ってことですか?」
「食べ物に限りません。日食や月食の話題、食物連鎖の話、考え方は貴女に任せます」
草食系男子と言われたら頷く見た目で、眼鏡のレンズは厚く少し汚れている。よく見るとワイシャツとジャケットの間に着ているカーディガンも毛玉が多い。そして、絶対以前会った時より痩せている。
「とりあえず、来月末までにお願いします。字数とか細かい話はメールしますんで。それから、先週頂いた原稿の話なんですけど……」
私の担当は有名大学を出ている同じ歳の男性である。生活が不規則で、浮き沈みも激しそうで、とにかく大変そうだなぁと思う。好きなこと出来てるから辛くない、と以前飲み会では笑って話していたけれど、私なら耐えられる気がしない。
「あの、いつも思うんですけど打ち合わせ本当にここでいいんですか? お金支給されるんで別に気にしなくてもいいんですよ? 自分はよく分からないですけど、コーヒーチェーン店って言うんですか?」
私がいつも指定していたのは自宅から徒歩数分の地下鉄駅直結のフードコートである。夕方のフードコートは学校帰りの高校生たちで溢れていて、音楽を聴きながら勉強している子も多い。他人の視線とか、怖くないのかな?
「えっと、良いんです! 私ああいう所仕事出来るぞって人ばっかりで落ち着かなくて。あと、ああいう所高いじゃないですか!? 私食べ物にお金かけたいと思わなくて!!」
「そ、そうですか……。じゃあ、今度また会わなきゃいけない時はここで」
「はい。ありがとうございました!」
無事に終わった。早く帰ろう。久々の人混みで、少し疲れてしまった。やっぱり私は集団で生きるのに向いていない。晩御飯はコンビニで買ってしまおうか。いや、さっさと寝るなら食べなくてもいいな。ぼんやり考えながら、地下街をフラフラと歩き始める。
「あの!」
腕をいきなり掴まれて慌てて振り返ると、ゴミを捨ててから走って追いついてきたらしい彼だった。息が上がっていて、肩が規則的に上下している。顔も少し赤く、脂肪の塊である私の腕を掴んでいる手も熱い。
「貴女の文章が好きで、もっといろんな人に読んで欲しくて……貴方が有名になれるように、全力でサポートします。だから、もっと頼ってください」
彼の目はさっきまでの眠気をまとっていた目とは違い、とても真剣だった。
「引き止めてすいませんでした。お疲れ様です」
彼はそう言って何もなかったかのように踵を返す。地下鉄に乗って会社へと戻るようだ。仕事、本当に好きなんだな。そう思えるのが、とても羨ましい。
食べ物の味がわからない、なんて今まで誰にも言えなかった。
給食もよく残していて担任に怒られていた。生産者の苦労とか命を頂いているとか、耳にタコができるくらい聞いた。ただただ咀嚼を繰り返して飲み込む行為を何も楽しみがないのに繰り返さないといけない苦痛。こんなもの、どう説明していいのかわからなかった。
以前、沢山食べたら味がわかるようになるかと思ったけど、そんなことなくただただ太って終わった。歳をとると痩せにくくなると言ってたし、運動はするべきかもしれない。食べ物の話なんて私には書けないから、食後の運動とかそういう流れにしてほとんど運動の話にしてしまおう。それなら、締切までに間に合う。どうにかなる。彼も頑張っている、私も出来る限りのことはしよう。
「突然お呼び立てしてしまってすいません」
通院の為に街へ出ていたら「ちょっと逢えますか」という短いメールが来た。いつも病院の後はすぐに帰るので、街に残っているのはなんとなく慣れない。あと、フードコートではないお店に居ることも。何を頼めば良いかわからず、とりあえずアイスコーヒーにした。
後から来た彼はいつもより声が沈んでいた。そして、顔も青い。
「原稿読みました」
静かな店内にはパソコンを持ち込んで仕事をしている人が多く、キーボードを打つ音が鳴り止まない。駄目だ、ここ、落ち着かない。早く帰りたい。
「来週までに全部書き直して貰えますか?」
「はい」
初めての全文書き直し。聞いてはいたが本当にあるのか。だが、なんとなく呼び出された時点で想定はしていた。手の震えが止まらない。スカートをギュッと掴む。
「単刀直入に言って、いつもの貴女の魅力が1ミリもありません。テーマが嫌だったなら言って欲しかったです」
提出前に何度読み直してもしっくりこなかった。この違和感は正しかったようだ。呼吸が浅くなる、苦しい。でも、いつも通り振る舞わなくては。
「い、いえ! 『食』って幅広くて、考えてたらドツボにハマっちゃって、本当にダメですね!」
「笑って誤魔化さないでください!」
そう言った彼の顔は何故か泣きそうな顔だった。
わからない。このアイスコーヒーの味が。今の彼の感情が。
わからない。頭が良くて天職に就いた彼に、社会からドロップアウトした私の気持ちなんか。……いや、わかってほしくないのかもしれない。