弔辞

文字数 3,765文字

 母方の祖母が体調を崩すことが多くなった。
 足が痛いとか血圧が高いとか、そういう不調もあるけれど、便通が悪いなど体の機能の低下が見えてくると、もう何年もないのではないかと考えてしまう。
 それでも、一人暮らしの祖母は何度も持ち直して、台所仕事などしながら暮らしている。
 その度に頭の中の弔辞は破られる。
 近親が亡くなると自然私が弔辞を読むことになっている。長男だというのもあるが、私は子どもの頃からそういう役回りの人間だとも言える。
 やりたくもないのに委員長になったり代表にさせられたりした。役になったからと言って仕事をした覚えはない。なったらなっただけで何もしないが、周りから不平が出ることもなかった。
 弔辞もそれと同じで、叔父が読むべきような場面でも、気づくと何故か私が皆の前に立っているのだった。
 グループの代表などと弔辞が違うのは、どうやら私の弔辞は好評だということだ。
 「凄いわね。あの弔辞はいつ考えたの?」
 などとあからさまに聞かれることもある。
 弔辞について言葉を掛けられることは稀だが、それでも葬式会場の人々の涙や雰囲気で評価がじんわりとわかるのである。
 その時私は妙な気持ちになる。端的に厭な気もする。
 人々は暗黙のうちに、弔辞に感動のようなものを期待する。それが果たされればよい弔辞となる。しかし、感動が果たされたというのは何処でのことなのか。弔問者の胸の内でのことではないか。そのときそこに死者は本当にいるのだろうか。
 弔辞では何を求められているのだろうかと考えずにはいられなくなる。
 弔辞を書く際にいつも迷うのが、これは誰に向けて書くものなのかということだ。
 死者に対してならば墓の前や心の中で祈ればいい。生者に対してならば遺影に向き合って語るのはおかしい気がする。
 心の整理の上手な人は遺影に向かって言い、それから向き直って参列者にお礼でもするのだろうか。如才ないという気がする。
 私は弔辞では本当のことを言いたい。言いたいというより言ってやりたい。そういう意地悪な気持ちが働く。
 本当のあなたの姿はこうでした。そして、この葬式に来ている人たちの中にあたなにこんなことをしてくれた人や、害を及ぼした人がいました。
 それらを死の祭典の場で明らかにしてやりたいという気持ちが湧いてくる。
 死後に自分の人生をもう一度見返してほしい。言葉で表出されたものとして、皆に見せてやりたい。
 どこかに、死にやがってコノヤロー、という気持ちがあるのだろうと思う。

 今もし祖母が死んだら、私はサイダーの話を書くだろう。
 夏休みには母の実家に必ず帰った。すると決まって緑色のサイダーが瓶ケース二箱用意してあった。
 酒屋で何度も使われて痛んだ強化プラスチックの黄色いラックに、色鮮やかな緑のサイダーが入った瓶が小さい凹凸のデザインで整然と並んでいた。
 私と妹は走って行って、飲んでいい? と聞いた。
 祖父母も曾祖母も、いいよ、と笑って答えた。
 サイダーをラックから取り出すとき、ラックの内壁に擦れてなんだかいい音がした。サイダーの口は王冠なので、子どもの柔らかい指に金属が食い込み痛痒かった。
 瓶に顔近づけて見ると、緑の液体の中を小さな気泡が幾つも浮き上がって揺れていた。
 妹は栓をうまく外せなくて祖父に開けてもらったりしていた。
 スイカを齧ってテレビを見た。夜はカレーだった。腹が痛くなるまで食べた。
 これらがいかにも夏という気がして、鮮明に記憶に残っている。
 あの頃はわからなかったが、毎年毎年、緑のサイダーを二ケース用意していた人間が確かにあそこにいたのだと思うと、今はそれだけで胸がいっぱいになる。
 私と妹とを喜ばせようとしていた祖父母と曾祖母の三人がいた。いや、今もいる気がする。
 もしサイダーを弔辞に読めば、祖母だけではなく、あの時のすべてが大切だ。あの時から今までの時間が大切だ。
 そういう本当のことを書きたくなる。
 しかし、それをあの弔辞の場で言うのはなんだかおかしい気もしている。
 例えば、死者には出す金額によって戒名の位が違ってつく。
 それはまるで死者に生者の唾を吐き掛けるかのようだ。その顔を見ながら私は真実を語るのだろうか。
 もし寄進などなら私も気にならない。しかし、戒名に位があって、その位の値段は金額として明瞭だ。これだけ出せば、これだけの地位を与えますと、死者の名誉と家族の見栄とが人質にされている。
 それが葬式で行われる気持ち悪さを前にして、私は一人そのおかしさに立ち向かわなければならないのか。
 皆がグルになって汚泥を塗りたくった死者の顔に、澄まして言葉を吐けるだろうか。別次元での出来事なのだろうか。
 弔辞は私を引き裂いている。
 本当は死が人を引き裂くのではなく、人のやりようが人を引き裂いているだけなのかもしれない。
 亡くなった母方の祖父も曾祖母も死んだとは思われない。
 数年前に神保町を自転車で走っていた時に祖父を見かけた。こちらを見て、そして雑踏へと消えていった。
 それを祖母に話したら、じいさんかもしれないな、と言った。
 本当にいたかどうかはあまり関係がない。いたんだな、と思えることが大切だ。そういう気持ちや考えを抱えていたい。
 そう思わせる人たちがいるということ、そのように生きた人たちがいるということが大切なのだ。
 
 生者のうちに見えていたものが、死んだのちに見なくてもよくなるという意味でも、弔辞で語られる言葉は私たちを引き裂いている。
 例えば今、私が父について弔辞を書けば、罵詈雑言の嵐となる。
 朝起きた瞬間から居間に寝そべり、テレビを見るかスマホの動画を弄っている。
 運動もせず、何か学んだりすることもない。体も頭も一気に老化してすぐに動けなくなるだろうと踏んでいる。
 また、自分で宣言をしたことを必ず破るのも一々面倒だ。
 病院の検査の日がわかると、その一週間前から禁酒を始めようとする。カレンダーに大きく書き込むのでわかる。それが気づくと数日間の書き込みは塗りつぶされて、三日前からの禁酒に変わる。そして最後には前日からの禁酒と記される。結局は前日も酒を飲んでいる。
 カレンダーだけではなく、酒に酔って面と向かって宣言をすることも多い。特に母が犠牲者だ。
 一々にやる宣言をしておいて、そのすべてを破るのだから、宣言されている方がストレスになる。
 検査の数日前から禁酒をするというのがそもそもいかにも馬鹿なのだが、それに付き合わされて、またそれが破られるのを毎回見せられるこちらはもっと馬鹿らしいのだ。
 すべてがこのような人で、弔辞を想像すると、私はとんでもないことまで書いてしまうような気がしている。
 しかし、本当に父が死んだことを想像すると、弔辞の内容は変わってくる。
 父とは春先には山菜採りに、秋には舞茸採りに山へ入る。
 春先の山菜はそう体力もいらないが、舞茸となると疲労度も危険度も跳ね上がる。
 山に入ってから舞茸があるところまで行くのにも二時間近くかかるので、父はそれだけでへばっている。へばっていても騙し騙しについてくる。
 舞茸は必ずあるわけではないのがかえって趣となる。見つけた時の喜びが違う。
 崖のような斜面を登り、滑る岩を乗り越えて、山に散在する巨木の根元を次々に覗いていく。
 私は一度行くと百本も見ているかもしれない。父は多くても二十本弱だろう。百本見ても四五本当たればいいほうで、当たっても舞茸が上手く育っていないこともある。
 それだからこそ、大当たりには価値がある。
 私は舞茸を見つけると父を呼ぶ。
 「おーい! ジー!」
 ジーというのは二人の隠語で、ゲットのGだ。
 父ははあはあ息を切らして声のする方へやって来る。
 「ほらこれだよ。この下にも五株あって、上にも二株あるよ!」
 「うわぁ、これだば大漁だ。うお、こごにもあるねが!」
 父の喜ぶ顔が秋の山の清々しい空気の中に零れる。父は汗がこめかみを伝って、水浴びでもしたかのようだ。ヘルメットも斜めにずれておかしい。
 皺が深くなったなぁ、と私は何度も思う。
 あと何回来られるのだろうと考えたりする。
 父が私を呼ぶことも稀にある。自分で見つけた舞茸で人を呼ぶ声は嬉しそうだ。
 その時ふと思う。
 私は父に付き合って、父の喜ぶ顔が見たくて山に入っている。
 しかし、父はその反対に、私の喜ぶ顔を見ようとしているのだろうか。
 真実はわからない。尋ねもしない。
 父を呼ぶ声も、父が呼ぶ声も、今も山に残っている。
 父が亡くなったとしても、私は山にその声を聞くだろう。
 今からそんなことを考えているから、寝そべって動画ばかり見ている父が憎くなるのかもしれない。
 やはり弔辞は私を引き裂いている。
 
 私が人を見て、その人の弔辞に思いを馳せてしまうのは、何かの病かもしれない。
 相手の死と究極に向き合って、相手を憎んだり許したりしている。
 死なないで欲しい。
 本当はただそれだけだ。
 弔辞は私を引き裂くのだから、もう読みたくない。
 それでも私はまた読むのだろう。読まされるのだろう。
 あのおかしなところで、おかしな気分で、おかしなことを言う。
 私は弔辞もなく静かに消えたい。
 誰も弔辞を読まないでくれ。
 そんなことを考えた。
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