第1話

文字数 16,201文字

大きめの雨粒が傘を激しく叩きつける。最近の夏はこういうゲリラ豪雨の様な激しい雨が頻繁に降る様になった。
「やれやれ。これも地球温暖化の影響なのかね」
 呆れた様に、誰かに語りかけるわけでもなく一人呟きながら目の前に迫った目的地に向かって足早に歩を進めた。
 傘を閉じるとそれを傘立てに立て掛け、年季の入っていそうな色褪せた金属で出来たドアノブに手をかけ、ゆっくりとそれを回した。
 カランカラン
 レトロで味わいのあるドアベルが店内に響き渡る。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
 鼻にかかる少し特徴的な声の女性店員に軽く会釈をして、迷う事なく通りに面したガラス張りの席に腰を下ろした。
 私が着席した事を確認すると、先ほどの女性店員が水とメニュー表を丁寧に机に並べた。
「お決まりになりましたらお呼びください」
「あ。すいません。アイスコーヒーと……ホットのカフェオレ。それから……ハムサンドをお願いします」
 机に置かれたメニューに目を通す事なく、私は女性店員に伝えた。
 一瞬の間があった後、女性店員は丁寧に注文を繰り返し「少々お待ちください」そう言って机のメニューを手に取ると、一礼して戻って行った。
 キッチンへと戻っていく店員の背中を見送った後、視線をガラスの外へと向ける。
 分厚く広がるねずみ色の雲は巨大なビルを飲み込み、地面を激しく打ち付ける雨は、灰色に広がる海を作り出していた。
 通りは人通りもまばらで、傘を目深に刺し早足に歩く者、ゆっくりと足元を気にしながら歩く者と様々だ。
 激しく降り続く雨のせいで景色は霞み、目の前に広がる交差点は向かいの信号が赤なのか、青なのか判別するのにも苦労するほどだ。
 このまま雨が降り止む事無く、いずれ全てを水の底に沈めてしまうのではないかと不安を感じずにはいられない程に、今年の雨は連日に渡ってよく降り続く。
「お待たせしました。こちらアイスコーヒーとカフェオレです」
 外を見ながらそんな事を考えていると、注文していたコーヒーが届いた。私の前にアイスコーヒーを置くと、次にカフェオレを置こうとしたので、私の対面に置くように促した。
 店員は不思議そうな顔をした後、カフェオレを私の向かい側に置き、一度キッチンへ戻ると一分と立たずにハムサンドがテーブルの真ん中に運ばれて来た。
 アイスコーヒーを口へ運ぶ。口の中に苦みが広がった後、香ばしさと独特の甘みが追いかけてくる。嫌な苦みが口に残る事もなくさっぱりとした後味が広がった。
「美味しい」
 私は一言ボソリと呟くと対面に置かれ、ゆったりと湯気をあげるカフェオレを見つめた。
 妻はコーヒーが苦手だった。独特の苦味が苦手らしく砂糖やミルクを入れてもなかなか一杯のコーヒーを飲み切る事が出来なかった。だがそれでも彼女は新しく出来た喫茶店や、初めて行く土地の喫茶店を見つけては飛び込んで行った。
 妻と付き合いはじめてしばらくしてから聞いた事があった。
「どうしてコーヒーが苦手なのにコーヒーを飲む為に喫茶店に行くんだ?」
 すると彼女は微笑みを浮かべて
「香りは大好きなのに苦いから飲めないってなんか勿体無いじゃない?ブラックは無理でもいつか私が美味しいって感じられるコーヒーが見つかるかもしれない。そう思いながら色んな喫茶店を巡るのは宝探しをしているみたいで楽しいんだよ」
 そう言ってコーヒーを口に運び、苦いと言って顔をクシャクシャにして笑った。
 私は灰色に広がる曇天に妻の顔を思い浮かべ、もう一口コーヒーを口に運んだ。

妻の名前は「園田香苗」
 高校の同級生だった。小柄で可愛らしく誰にでも笑顔で接する彼女をひと目見た瞬間から、私の心は彼女に奪われていた。しかし女性と話す事が苦手だった私は、彼女に話しかける事が出来ず、ただ遠目から彼女を眺める事しか出来ず、悶々とした思いを募らせながら日々を過ごしていた。
 そんなある日の放課後、教室を出て廊下を進み階段を降り、下駄箱へと向かって歩いていた時だった。ガヤガヤと生徒達の話し声がする中、校舎玄関から高めのハハハっという笑い声に耳を奪われた。
 彼女だ!私の胸は高鳴り、少しでも彼女の姿をこの目に映したいと、自分でも気付かないうちに下駄箱へと早足に駆けていた。下駄箱から自分の靴を取り出しチラリと玄関の方を見返した。
 するとそこには、男子生徒と楽しそうに会話をしながら、仲良さげに二人並んで外へと歩いていく彼女の姿が飛び込んできた。
 彼氏?いや。まだ分からない。ただ仲が良いだけの男子生徒かもしれない……仲が良いにしても二人だけで帰るか?
 呆然と彼女達の姿を眺めながら、頭の中でひたすら自問自答を繰り返していると、校門を出た辺りでギュッと彼女が男子生徒の腕に抱き付いたのが見えた……見えてしまった。
 どうにかして最悪の事態を回避しようとフル回転していた脳がハッキリと理解してしまった。彼女はあの男と付き合っているんだ。自分でもなぜこんな行動を取ったのか分からないが、気がつくと私は二人の後を追いかけていた。どうしても知りたかった。彼女が好きになった男がどんな人間なのか、どんな顔をしてどんな性格をしているのか、確かめずにはいられなかった。
 彼女達の後ろ姿を見つけた私は、さり気無く通り過ぎると忘れ物をしたフリをして、来た道を戻り彼女と仲良さげに、楽しげに歩く男子生徒の顔を見た。
 彼女の横を歩く男子生徒の顔を見た瞬間、全身に嫌な寒気が走った。(嘘だろ)思わず口から出そうになったその言葉を飲み込んだ。
(冴島……なんでこんな奴と)
 彼女と仲良さげに歩いていたその男子生徒の名は冴島勇太。学校内でも一、二を争うほどの不良だった。とにかく素行が悪く恐喝や暴力、バイクで暴走するなど学校外にもその名は轟いていた。
(なんで彼女は冴島の事を好きになってしまったんだ。彼女にだけは優しいのか?それとも彼女にしか分からない魅力的な部分があったのだろうか?)
 どれだけ考えても二人だけの事。私に理解出来る訳もなかった。
 二人の前に立ち、呆然と立ち尽くしている私を睨みつけると、冴島はズカズカと大股で歩きながら目の前まで迫り憎々しげに口を開いた。
「邪魔だ!ゴミは道路脇にでも転がってろ。」
 そう言って私の肩を突き飛ばした。その衝撃で後方へと尻餅をついてしまった私を見下しながら、本当にゴミでも見るかの様な目で薄ら笑いを浮かべている冴島を、私は心底憎らしく思った。
 突然その憎らしい冴島の顔を真っ黒な何かが覆った。目の前でヒラヒラとスカートが揺れる。私と冴島の間に彼女が割って入って来たのである。
「勇ちゃん!いきなり殴ったりしたらダメでしょ!」
 彼女が叱りつける様に言うと、冴島はヘラヘラと笑いながら
「殴ってねぇよ!目の前に立っていて邪魔だったからどかしただけだろ!」
 彼女の肩越しに顔を出し、相変わらず私を見下しながら反論した。
 彼女は「もう!」と言いながら大きなため息をつくと振り返り、私の手を両手で握り起こしてくれた。
 今まで生きていて触れた事の無い程に柔らかく。暖かくて。そして小さな手だった。
「ごめんね!えーと……瀬田君だよね?同じクラスの」
 私は驚いた。話した事も無い唯のクラスメイトと言うだけの私の名前を覚えているのか。
 私がうん。と頷くと彼女はニッコリと笑って私の体の事を気にかけてくれた。
「怪我してない?大丈夫?……良かった!ちょっと乱暴だけど悪い人じゃないから許してあげてね」
「香苗!そんなダサい奴にいつまで構ってんだよ!早く行くぞ!」
 彼女が言い終わるよりも早く、冴島は彼女の腕を強引に掴み、私を睨み付けながら歩き始めた。去っていく冴島の後ろ姿を憎らしげに眺めていると、彼女が冴島にバレない様に振り返り、ニコッと笑い小さく手を振ってくれた。私にはその光景が悪魔に連れ去られていく天使の様に見えてしまった。
(園田さん。そいつは悪い奴なんだ。君はそんな奴と一緒にいてはダメだ。絶対にあいつに君を奪わせない。)
 今にして思えば自分勝手で、実に気持ちの悪い事を考えていたものだ。でも彼女をあんな男に奪われたくなかったのも事実だ。
 曇天に浮かべた妻の顔が、ガラスに打ち付ける激しい雨で滲んで行く様に感じた。
(もう泣かなくていいんだよ?香苗さん。もうすぐそっちに行くから)
 テーブルの上に置かれたハムサンドを一つ手に取って口に運ぶ。パンにハム、レタス、チーズ、トマトが挟んであるシンプルなハムサンドだが、人気商品らしくこの喫茶店に来る客はみんな注文している。
 妻もよくカフェオレを飲みながら、このハムサンドを美味しそうにニコニコと頬張っていた。
 一つ残ったハムサンドの皿を向かいのカフェオレの隣に並べ、ガラスに反射する自分の顔を眺めた。
 随分と年を重ねたものだ。頭髪には白髪が混じり、顔には深く皺が彫り込まれている。今の私の顔を見て妻は何と言うだろうか?老けてしまった私でも変わらず愛してくれるだろうか?
 あの日を境に冴島から目をつけられてしまった私は、顔を合わせる度に暴力行為を受ける事になった。廊下だろうが教室だろうが私の姿を見かけると、獲物でも見つけた獣の様に気味の悪い笑顔を浮かべながら近づいて来て、強引に私を押し倒し、醜い虫でも見下ろす様に、憎々しげに顔を歪め暴言を吐きながら馬乗りの体制で小突き始め、ひとしきり痛めつけると飽きたように去っていく。
 この日もそうだった。たまたま廊下を歩いていた私の姿を見つけると「おい!ゴミ野郎!」そう叫び、後方から私の体を羽交締めにすると力任せに押し倒した。
 抵抗しては見せるのだが力の差がありすぎて、いつも通り簡単に馬乗りになると憎々しげに私を睨みつけながら、罵声を浴びせ小突いてくる。
 周りに生徒はたくさんいるが誰も助けようとはしない。遠巻きに眺め、この男の標的にならない様に誰も彼も見て見ぬふりを貫いている。誰からも助けてもらえない絶望の中、必死に両手で顔を庇いながら雨の様に降り続く暴力に耐えていた。その時だった。
「勇ちゃん!」
 可愛らしくも力強い声が響く。彼女だ。園田さんの声だ。
そう叫ぶとパタパタと廊下を小走りに駆け、馬乗りになっている冴島の体を私から引き剥がすと冴島の前に立ち塞がった。
「どうしてこんな事するの?瀬田君が勇ちゃんに何かした?どれたけ問題を起こせば気が済むの?次こんな事したら私……勇ちゃんの事許さないから」
 冴島は不貞腐れた顔をして彼女から目を逸らすと、彼女の腕を振り払い怒号をあげた。
「お前には関係ねぇだろ!ただ気に入らない奴を殴ってるだけだ!何が悪い!親でも無いのに偉そうに説教すんなよ!」
 そう彼女を怒鳴りつけると、遠巻きに見ていた生徒達をかき分けズカズカと大股で歩いて行った。
「ごめんね。瀬田君本当にごめんね」
 園田さんはそう言って何度も何度も頭を下げた。
(彼女は悪くない。冴島さえいなければ彼女も私もこんな思いをする事は無かったのに)
 そんな事を思いながらも、私は彼女に気の利いた言葉一つ返す事が出来ず、ひたすら「大丈夫」と繰り返した。
 それから不思議な事にしばらく冴島と遭遇する事なく平和な日々が続いていた。冴島がこの学校から存在を消したのでは無いかと思えるくらい、穏やかで静かな学生生活だった。ただ一つだけ気掛かりなのが、冴島の存在が消えたのと同じくして園田さんも学校に姿を見せなくなってしまったのである。担任は体調不良で休んでいるだけ。という話をしていたが、私は冴島と何かあったのだろうと考えていた。
 冴島から私を助けてくれた次の日から、冴島と共に姿を見せなくなっている。冴島といえど流石に女性に暴力を振るうとは思えないが、相手はあの冴島だ。万が一という事もある。ただそれだけが心配だった。
 私のその不安は見事に的中する事となってしまった。
 二人が学校から姿を消して、二週間が経ったある暑い日の朝、遅刻しかけていた私は大急ぎで教室へ駆け込んだ。席に着き一息付くと、額の汗を拭いながらそれとなく窓際の一番後ろにある園田さんの席に目をやった。空席なのが当たり前になりかけていた彼女の席には、うつ伏せの体勢で机に顔を伏せている彼女の姿が。
 私は驚きと同時に、本当に彼女は体調を崩していただけなのか。と納得せざるおえないほど、普段の元気な彼女からは想像も出来ないくらい気怠げな姿だった。もちろん私だけでは無く友人らも彼女の席の周りに集まり、心配そうな表情で彼女の事を眺めていた。
 それから程なくして担任が教室に入ってきて、いつも通り授業が開始された。授業が始まり机からゆっくりと顔を持ち上げた彼女は、生気のない虚な表情を黒板に向けていた。
(園田さん。本当に病気だったんだな。今にも倒れてしまいそうな顔だ)そう思い彼女から黒板に視線を移そうとした時、彼女の右手に広がる痣に目が止まった。新しいものでは無いだろうが、その痣が殴られた事により出来たものだと言うのは見ただけで分かった。何故なら私も冴島からの暴力を防いだ時に同じ様な痣がよく出来ていたからだ。
(冴島!彼女に暴力を振るったな!)
 体の奥底から怒りが込み上げてくるのが分かった。自分自身暴力を受けていてもこんな感情を抱く事はなかったが、彼女を傷付けられた事によって、純粋なしかし燃え盛る炎の様な怒りを生まれて初めて覚えた。
 教室に午前最後の授業終了のチャイムが鳴り響く。私は持っていたボールペンを握り締めると、乱暴にポケットに押し込み教室を出た。冴島のクラスまでは距離がある。足早に歩きながら冴島をどうやって傷付けるか。その事だけを考えていた。
 目だ。目を狙えばボールペンでも確実に冴島を傷つける事が出来る。不意をつくんだ。準備が出来ていない状態なら冴島でも防ぐ事が出来ないはずだ。しばらく廊下を歩いていると、前方から歩いてくる冴島の姿を発見した。
 私の姿を見つけた冴島は、ジッと私の顔を見据えたままズボンのポケットに両手を突っ込み、大股で歩きながらこちらに向かって来る。鼓動が早くなって行くのが分かる。手が震え額に薄ら汗が滲んでくる。
(冴島は私を押し倒し馬乗りになった後、自分の力を誇示する様に周りを見渡す癖がある。その時を狙うんだ。私から目を離した瞬間に力の限りボールペンを突き立ててやる。目が難しければ首でもいい。こいつが彼女の前から消えるのであれば殺す事さえ厭わない。これ以上彼女を傷付けさせはしない)
 そう強く心で思っていても、実際に冴島を目の前にすると、やはり恐怖という感情に全身が飲み込まれて行く。
 一歩また一歩と冴島との距離が縮まって行く度、呼吸が荒くなり体中に心臓の音が響き渡る。今にも飛びかかって来そうなほど、殺気を込めて私を睨み付けてくる冴島から目を逸らさず、ポケットに忍ばせたボールペンを震える右手で強く握り締めた。
 もうすぐだ。すれ違い様に私の背中を羽交締めにし、倒れ込んだ所を馬乗りになって、汚い言葉を吐きながら小突いてくる。いつも通りならそうだ。いつも通りなら。体中が鉛の様に固まって行く。
 冴島と真横になり……すれ違う。来る!
 冴島が軽く私の右腕を掴む。ドクンと激しく心臓が跳ね上がり、足の指先から髪の毛の先まで一気に寒気が走った。
 冴島はゆっくりと私の耳元に顔を近付けると、獣の唸り声の様な低い声で
「おい。一丁前に睨み返してんじゃねーよ。俺がいない間に強くなったつもりか?お前さえいなければ……お前なんかに関わらなければ」
 そう言いながら私の腕を力の限り締め上げて行く。ミシミシと骨が軋む音が聞こえ痛みに顔が歪む。私は無理矢理冴島の手を振り解いた。
 冴島は笑みとも憎しみとも取れる不気味な表情を浮かべたまま、私を一瞥すると大股に廊下を歩いて行った。
 一気に緊張感から解放された私はへなへなと廊下の壁にもたれ掛かり、冴島に掴まれ真っ赤に染まった右腕を眺めた。
(腕を掴まれた時点で私はボールペンから手を離していた。私が何かしようとしている事に気付かれたのだろうか?それにいつもならこれ見よがしに暴力を振るっていたのに威嚇する時も声を顰め周りを随分と気にしている様子だった)
 あの日、冴島に目を付けられてからこんな事は初めてだった。「許さない」彼女の放った言葉は想像以上に冴島の心に響いていたのだろうか?相変わらず睨み付けては来るもののその日を境に冴島が私に暴力を振るう事は一切無かった。
 私や園田さん。冴島。三人にとって決別、そして運命を決めたと言ってもいいあの日を迎えるまでは。
 私の額の左側には大きな傷がある。右手で前髪をかき上げガラスに反射した傷跡を触った。
 年月は私の顔に深く皺を彫り込んでいったが、逆に傷跡は薄くしていった。だがどれだけの年月を重ねても完全に消える事はない。私は体に。香苗さんは心に。決して癒える事の無い傷を冴島は残して行った。
 高校一年も終わりに近付いていた二月。朝からパラパラと弱い雨が降り続いていて、いつにも増して冷え込みの強い日だった。
 昼を過ぎる頃には雨は雪に変わり、更に冷え込みが強まった放課後。私は帰宅しようと教室を出て廊下を進み、階段に足をかけた時、階下から園田さんが上がって来ているのが見えた。彼女も私に気付いたらしく、あっ。と小さく声をあげると、私は彼女と目を合わせる事なく軽く会釈をして階段を降りて行った。
「瀬田君」彼女の呼びかけに足を止め振り返った。
「その……勇ちゃんにまた何か嫌な事されたりしてない?」
 その問いかけに「大丈夫。何もされてないよ」そう返すと少し安心した様に顔を綻ばせた。
「よかった。なかなか治らないんだよね。すぐにイライラして手が出ちゃう性格。悪い人じゃないんだけどね。多分……やっぱり悪い人……なのかな?」
 微笑みを浮かべながらも深い悲しみに満ちた目で私を見ながら彼女は言った。
「園田さん。夏頃にしばらく学校休んでた時期あったよね?冴島に……冴島君に暴力振るわれたんじゃないの?」
 彼女は床に目を落としたまま何も言わなかったが私は続けた。
「見えちゃったんだよ。腕に痣が出来ていたのを。その痣を付けた相手が冴島君だとしたら……愛する人を……自分の彼女を自分の手で傷付けた彼はとんでもなく悪い人間だよ」
 私はハッキリと言い切った。今は何故か大人しくしているが冴島は間違いなく悪だ。その事に気付いて欲しかった。
 彼女は大きな目に涙を溜めたまま声を震わせて
「そっか。そうだよね。頭のどこかでは分かってたはずなのにな……それでもうまくやっていけていたはずなのに。どうしてこうなっちゃったんだろう」
 今にも崩れ落ちてしまいそうな彼女に何か声をかけたかったが、彼女を助けられる様な言葉を私は持ち合わせていなかった。放課後の喧騒の中、二人の空間だけ切り取られてどこか別の世界に飛ばされた様に静まり返っていた。突然その空間を叩き割る様な怒号が響き渡った。
「おい!人の女に話しかけてんじゃねーよ!ゴミ野郎!」
 いつの間にか階段の最上段に立っていた冴島が、それはもう憎々しげに私を見下ろしていた。園田さんは私に向かって階段を降りてくる冴島の腕を掴み、必死になだめようとしている。だが冴島はそんな涙で濡れた彼女の顔を見る事もなく私に向かって一直線に向かってくる。
「お前だけは絶対に許さねぇ!めちゃくちゃにしやがって!」
「勇ちゃん!ダメ!もう暴力は振るわないって約束したでしょ!手出したら今度こそ退学になっちゃうんだよ!勇ちゃん!私達のこれからの事を考えてよ!」
「うるせぇ!もうどうだっていい!どうでもいいんだよ!お前の事も!いつもいつも邪魔ばっかりしやがって!」
 冴島は必死に抑えつけようとする彼女の肩を両手で掴み、力を込めて突き飛ばした。
 彼女の小さな体がバランスを崩し、まるでスローモーションの様に階段から足が離れて行くのが見えた。頭で考えるより早く体が反応していた。私は彼女の体を掴むとそのまま階段から転がり落ちた。
 背中や頭に鈍い痛みが走っている。激しい耳鳴りで自分の呼吸音だけが体中に響き渡っている。頬に当たる床が氷の様に冷たくやけに心地よく感じる。
 彼女は無事だろうか?視界が真っ赤に滲んでいてよく分からない。遠ざかって行く耳鳴りと同時に、生徒達の悲鳴や怒号が飛び交っているのが聞こえて来た。
 その声に一瞬意識が戻り、少し頭を持ち上げ彼女の姿を探した。額から血が溢れ頬を伝って行くのが分かった。床は私の血で真っ赤に染まり、その中に投げ出され横たわる彼女の姿を見つけた。彼女から出血はしていないだろうか?無事でいてくれ。
 階段では二人の教師に捕まれながらも、私を見下ろし悲しみと怒りの入り混じった様な表情で私を睨みつける冴島の姿が見えた。
「死ね。死ね。死ね」声こそ聞こえないけれど、確かに冴島の口からはそう言い放たれていた。呪いの言葉を吐きながらもその瞳は少し濡れている様にも見えた。
 徐々に遠ざかって行く意識の中、必死に彼女へと手を伸ばした。ぼんやりとした視界の中、血の底に沈んで行く様に彼女は私の前から姿を消して行った。
 次に私が意識を取り戻したのは、病院のベッドの上だった。あの事件から一週間近く意識が戻らなかったらしい。全身が激しく痛み、とても起き上がれる状態では無かった。
「恭介?よかった!目が覚めた?」
 ベッドの横には母親の姿があった。私はゆっくりと頷くと母は安心した様に私の手を握り締めた。まともに会話出来るようになるまではそれからまた数日かかった。その間、母が色々と話してくれた。頭を強く打ち意識を失っていた事。腕の骨にヒビが入り、右足を骨折している事。額を十針縫う怪我をしていた事。一緒に階段から落下した女の子は軽傷で、数日検査入院をしただけで退院した事。
 自分の体の事よりも何より、彼女の事が気掛かりだったので退院しているという知らせは素直に嬉しかった。
 私は足の骨の治りが遅く、想像以上に入院生活が長引いてしまった。結局退院して再び復学出来たのは四月、高校二年に進学する時期になってしまった。約四ヶ月間の入院生活の間、もちろん冴島が顔を見せる事は無かったが、園田さんも見舞いに来てくれる事はなかった。期待してなかったと言えば嘘になる。彼女も色々と忙しかったのだろうが、一度くらいは顔を見たかったというのが正直な感想だ。
 復学してからしばらくは、学校一の不良から突き落とされた女子生徒を助けたヒーローの様な扱いを受けた。人生で持て囃された事など無かったので、どんな顔をしていいのか分からず恥ずかしいやら、むず痒いやらで私は人目を避けて行動する様になっていたが、人々の興味と言うものは日々移り変わって行く。一人また一人と私に声をかける者は減っていき、徐々にヒーローから事件前の目立たない普通の生徒へと戻って行った。
 噂で聞いた程度だが、冴島はあの事件をきっかけに学校を退学となり、そこから狂った様に暴力事件や暴走事件を起こし少年院に入ったと聞いた。園田さんとも縁を切ったらしい。この噂を聞いた時には思わずガッツポーズをしてしまったくらい嬉しかった。
 だが肝心の園田さんとは、それからは特別会話を交わす事は無かった。
 元々仲が良かった訳でも無いのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、事件をきっかけに仲良くなれるかもしれないと言う淡い期待を抱いていた自分が恥ずかしかった。
 そんな事より何より気になったのは、どこで見かけても彼女はどこか虚な表情をしていて、前の様な笑顔溢れる彼女の姿はどこにも無かった事だ。
 確かに冴島は私や園田さんの目の前から消えたかもしれないが、同時に彼女から笑顔も奪って行ってしまった。
 冴島を憎み、彼女から離れてほしい、学校から居なくなって欲しいと心から願っていたが、もしかして私が悪かったのだろうか?彼女からしたら、大事な彼氏と揉めている厄介な男程度にしか思われていなかったのかもしれない。私が変に冴島とぶつかってしまったから、二人の関係を壊してしまったのかもしれない。
「私達のこれからの事を考えて」
 園田さんは確かに冴島にそう告げていた。私はこの先有り得たかもしれない二人の幸せを奪ってしまったのだろうか。
 幸せの価値観は人それぞれ違う。彼女にとって冴島との日々は何物にも変え難い幸せな毎日だったのだろう。それがあの涙の理由だったのかもしれない。
 そう考えると私は園田さんと関わるべきでは無い、ただ彼女の幸せだけを願って日々を過ごしていこうと心に決めた。
 それから先の学校生活は非常に淡白な物である。淡々と授業を受け、誰とも深く関わる事なく毎日を終える。それをひたすら繰り返す日々だった。
 光陰矢のごとし、淡々とした日々はあっという間に過ぎ去って行き卒業式の日を迎えた。長い長い校長の話の間、私はこの高校で何が一番楽しかったのだろうと考えていた。
 私の高校生活で最も幸せで、頭の中を埋め尽くしているのは、やはり彼女。園田さんの笑顔だった。ほんの数回だが話せた事。目を合わせ会話出来た事が最も楽しかった高校時代の思い出だった。
 他の人からしたら、なんだその寂しい思い出は。とバカにされるかもしれないが私には十分だった。それだけで幸せだった。
 式も終わり、教室で泣き、笑い、語り合いながら抱き合っている同級生達にどこか居心地の悪さを感じた私は、足早に教室を後にした。
(園田さんはもう帰ったのだろうか)
 彼女は県外の大学への進学が決まっているらしい。私は地元の大学へ進む事が決まっていたので、もう会う事もないだろう。今日で学校に来るのも最後だ。どうしても最後に一目、遠くからでも構わないから彼女の姿を目に焼き付けておきたかった。
 教室にもいない。廊下にも。校庭にも体育館にも。ある程度卒業生達が屯している場所を訪れてはみたものの、彼女の姿を見つける事は出来なかった。
(もう帰ってしまったのだろうか)
 これだけ探してもいないという事は帰ったのだろうと諦め、下駄箱で上履きを脱ぎ、靴に履き替えようとしていた時だった。
「瀬田君」
 長らく聞いていなかったが、柔らかく穏やかで懐かしい声。
私は振り返り、その声のした方向へ視線を移した。
 小柄で可愛らしく、大きな目が特徴的な女性。園田さんだ。
もう彼女と関わる事はやめようと心では誓っていても、こうして彼女の姿を目の当たりにすると、自分の決意というものがどれだけちっぽけで儚げな決意だったのだろうかと情けなくなってしまう。
 浮き立つ心を必死に押さえ込み「どうしたの?」と尋ねると、彼女は次に放つ言葉を少し考えた様子を見せた後
「ちょっとだけ話しない?」
 そう言い学校の屋上へと私を案内すると、手摺の前に設置されてあったベンチに二人で腰掛けた。この学校に屋上がある事は知っていたが、三年間の学校生活で一度も屋上へ来た事の無かった私は、目の前に広がる景色に少しだけ感動したのを覚えている。
 ずっと片思いしていた人の隣に座っているというシチュエーションにドキドキと鼓動は早くなり緊張感が増して行く。そんな私とは対照的に、園田さんは何かに思いを馳せている様に、ジッと目の前に広がる景色を眺めたまま声を発さず黙っている。
 しばらくの沈黙の後、園田さんは静かに口を開いた。
「ここから見える景色好きなんだ」
 そう言いながらどこか悲しげな表情で、街を見渡す彼女の横顔を見つめたまま私は小さく相槌を打った。
「ごめんね?」
 彼女の突然の謝罪に驚き「何の事?」と聞き返すと、彼女はゆっくりと立ち上がり手摺に手をかけ話し始めた。
「私なんかと関わったばかりに勇ちゃんに目をつけられて、何回も殴られて。私を庇ったせいで大怪我までさせちゃった」
「そんな事……気にしてないよ!園田さんの方がずっと苦しんで過ごしてきたんだから。その痛みに比べたらどうって事ない!」
 ベンチから立ち上がり彼女の後ろ姿を見つめたままそう伝えると、彼女は振り返り少し微笑んだ。
「瀬田君は本当に優しい人だね……勇ちゃんとはね。幼馴染だったんだけど昔は優しい人だったんだよ。病気がちで小さかった私をいつも守ってくれていた……でも彼のお母さん。私達が中学生になったくらいの頃に亡くなっちゃってそれから勇ちゃんは変わったの。元々短気ではあったんだけど更に暴力的な面が強くなっていつも喧嘩ばかりしてた。何回も先生に呼び出されてその度お父さんに殴られて。でもそんな勇ちゃんも私といる時は絶対暴力を振るわなかった。どんなに相手が挑発してきても馬鹿にする様な事を言ってきても」
 目を細め懐かしそうに微笑みながら話を続けていたが、徐々に表情が曇って行くのが分かった。
「でも勇ちゃんは私の目の届かない所で常に誰かと喧嘩してた。まるで何かに取り憑かれた様に。それは高校になってからも変わらなかった。このままじゃ勇ちゃんは退学になる。そんなのお父さんだって悲しむし亡くなったお母さんも悲しむ。勇ちゃんはね?ただ寂しいだけなんだよ。一人になるのが怖いんだよ。だから私は勇ちゃんの為にもこれからずっとそばにいて勇ちゃんを支えようって。暴力的な一面を抑えようって思ったの。でも……私といる時は絶対に暴力を振るわなかった勇ちゃんが瀬田君にだけは私がいてもしつこく絡んでた。それからは私が常にそばにいてストレスが溜まっていたのか分からないけど遂に大きな問題を起こしたの。他校の生徒と喧嘩して怪我をさせた。一年の頃。私と勇ちゃんがニ週間くらい学校に来なかった時期があったでしょう?勇ちゃん停学になってたの。停学中にまた喧嘩しない様に私も一緒に休んでた。停学中に問題なんて起こしたら間違いなく退学になってしまうから。だから約束してもらった。次暴力を振るったら別れるって」
 彼女は目を伏せ今にも泣き出しそうな表情をしたまま話を続けた。
「ずっと喧嘩してた。停学中毎日毎日言い合いをしてた。そして停学が明ける二日前、我慢の限界に達したのか勇ちゃんは私に殴りかかってきたの。本当に怖かった。殺されるんじゃないかって思って必死になって家に逃げた。もう勇ちゃんの事は支えられない。この人のそばにいたら私が暴力を振るわれるって思って次の日。電話で別れを切り出したの。最初はカッとなってつい。とか言っていたけど話していく内に怒りだして……あんなに好きだった勇ちゃんの声が恐怖でしかなくなって耐えられなかった。もう完全に終わったと思ってた。でもどうしてこんなに悲しいんだろう?胸にポッカリ穴が空いたまま塞がらないんだよ」
 決壊したダムの様にボロボロと大粒の涙を流し始めた彼女の姿に耐えられなくなった私は
「もういい、話さなくても大丈夫だよ。もう冴島はいないんだ。園田さんは自由に生きていいんだよ?」
 そう言って必死に涙を止めようとしている彼女の肩に手を当てた。
園田さんは両手で顔を塞ぎながら私の胸にもたれかかってきた。
「自由に生きていいのかな?私だけ幸せに生きてもいいのかな?勇ちゃんはそれを許してくれるのかな」
 本当の自分の気持ちを伝える事は出来ず、私はその言葉に頷き、涙で震える声で泣く園田さんを両手で優しく包み込む事しか出来なかった。
 私は県内に残り、園田さんは県外に。冴島は学校を退学して度重なる暴力事件を起こし少年院に入った。私達は今後決して交わる事なくそれぞれの人生を歩んで行く。そう思っていた。
 妻との思い出に浸りながらコーヒーに手を伸ばす。カランカランとドアベルが軽快な音を立て、若い男女が仲睦まじい様子で喫茶店に入ってきた。
 なんだか懐かしい気持ちになる二人だ。なぜかその二人に若かりし頃の私と妻の姿を重ね、ふと笑みを溢してしまった。
 あの事件が無ければ私達も今頃、この二人の様に仲睦まじく喫茶店通いを続けられていただろうか?キラキラとした瞳でメニューを眺め、笑い合う二人の姿を見て妻との思い出を思い返していた。
 大学を無事卒業した私は、規模こそ小さいが地元の出版社に就職した。慣れない仕事に悪戦苦闘しながら、三年間文字通り仕事の虫になって必死に働いた。経験を積み編集部へと移った私は喫茶店特集の仕事を任された。
 よく耳にする様な有名な喫茶店に行ったり、喫茶店好きな同僚に聞いた店にも足を運んでみたが、特に魅力を感じるポイントなども無く店探しは難航していた。
 今日もまた私はコーヒーを飲んでいた。某有名店を模した様な店の内装、コーヒーも市販のアイスコーヒーを飲んでいる様な薄味で、香りも広がらない。若者に人気というから足を伸ばしてみたがダメだ。これでは記事に出来ない。
 味気ないコーヒーを口に運びながら頭を悩ませていると、隣の座席に座っていた女性二人組の話が耳に入ってきた。
 大通りから少し入った所に、くたびれた外観の隠れ家の様にひっそりと営業している喫茶店がある。と二人組の女性が話していた。
 私は残りのコーヒーを飲み干し、いそいそと店を出てその噂の喫茶店へ向かった。
 大通りの喧騒からはかけ離れた、どこか寂れた雰囲気を醸し出す商店街の隅に、その喫茶店はひっそりと佇んでいた。
 経年劣化で変色したドアに使い込まれた看板。通りからでも店内を見回せる大きなガラス窓は、綺麗に清掃されていて指紋ひとつ付いていない。
 意を決してドアノブを捻ると、カランカランと懐かしいドアベルの音が出迎え、ニコニコと愛想のいい女性店員が出迎えてくれた。どこか昭和を彷彿とさせる外観と内装、そして愛想のいい店員が気に入り、この店の事を記事にしようと連日足を運んだ。
 その日もいつもの様にカウンター席に座り、コーヒーを飲みながらパソコンを睨みながら記事をまとめていると、隣に誰か座った気配がした。特別気にする事なく作業を続けていると隣からボソリと声が聞こえた。
「うぅ。やっぱり苦い……」
 その声を耳にした瞬間ドキッと胸が高鳴った。聞き覚えのある声に隣を見てみると、そこには一人の女性がコーヒーカップ片手に顔を歪ませ肩を震わせていた。
 間違いない!髪型が変わり化粧をして大人っぽい雰囲気になっていたが、その女性が園田さんだという事はすぐに分かった。
「……園田さん?」
 その問いかけに、苦みに顔を歪ませていた女性は少し間を置いた後、思い出した様に大きな目をキラキラと輝かせ「瀬田君?」と私の事を思い出してくれた様だった。
 私達は高校を卒業してからの数年間を報告しあった。彼女は大学を卒業した後、こちらに戻って来て美容師として働いているらしい。苦いのが苦手だけどコーヒーの香りが好きだから喫茶店通いをしているという話もしてくれた。
 連絡先を交換した私達は、時間を見つけては彼女の飲めるコーヒーを探しに、あちこちの喫茶店を巡っていた。
「苦い」と言いながら顔をくしゃくしゃにして笑う彼女に、一度は封印した彼女への思いが日々強まっていくのを感じていた。
 そんなある日、私達が出会った喫茶店が移転したという情報を耳にして、一度足を運んでみようという話になった私達はその喫茶店へと向かった。大きな交差点の道路沿いに移転した喫茶店は、見た目こそピカピカの新しい看板や外装になっていたが、色褪せたドアや内装の家具は前の店舗から持ってきたのか、前の店舗の雰囲気をそのまま引き継いでいた。
 大きなガラス窓の席に二人腰掛けると、私はいつもの様にブラックコーヒーを園田さんはカフェオレを頼んだ。いつもなら苦い。と顔を歪ませるのだが彼女は「あれ?前飲んだ時は苦かったのに飲める!おいしい!」と目をいっぱいに開き興奮した様子で言ってきた。
 確かにブラックコーヒーも、前に飲んだ時より苦味があっさりとしていて後味爽やかになっていた。味の改良を行っていたのだろうか、遂に彼女の飲めるコーヒーが見つかった。私の顔を見ながら嬉しそうにコーヒーを飲む彼女の姿を見た私は、気持ちが抑えきれなくなりその場で告白をした。
、彼女は驚いた顔をしてしばらく考えた後、ニコッと笑って「よろしくお願いします」と言ってくれた。
 それから結婚という決断に至るまで時間はかからなかった。毎日がひたすら幸せだった。家に帰れば彼女がいる、それだけで全てが満たされていた。ずっと片思いをしていた女性を一度は諦め、二度と会う事もないだろうと思っていたのに、偶然再開し恋人となり、更に結婚出来るなんてあまりにも出来過ぎた話だ。まるで夢を見ている様な毎日。これからもずっとこの幸せな毎日が続くと思っていた。
 だがその幸せな毎日は一人の男によって奪われた。
 その日は近年稀に見る大雨の日で、いつもの喫茶店でコーヒーを飲み終えた私達は、傘を目深に刺し交差点で信号が青に変わるのを待っていた。
 信号が青に変わったのを確認した私は、妻の背中に手を当て横断歩道を渡ろうと歩き出した。その瞬間、凄まじい衝突音と激しい衝撃が全身を駆け回ったと感じた直後、気が付いたら道路に横たわっていた。赤信号に気付くのが遅れたトラックに撥ねられてしまった様だ。
(香苗さんは無事だろうか?)
 全身が激しく痛み立ち上がることが出来ない。目線だけをトラックの運転席へ向けると、激しく回るワイパーの先で運転手は、道路に倒れる私をまるで雨に濡れたゴミでも見る様な目で見下し、気怠げにどこかへ電話をかけていた。あの目……年齢は重ねているが間違いない。冴島だ。パクパクと動く口から「死ね。死ね。死ね」と発せられている様に感じ、全身の血の気が引いていくのが分かった。
 痛む体を無理やり動かし、妻の姿を探した。私よりも更に奥の方に倒れる人影が見えた。小柄で細身だった事もあり私よりも飛ばされてしまったのだろうか。
(嫌だ。もう失いたくない。せっかく幸せを見つけられたのにまたこの男に壊されてしまうのか)
 激しく降る雨の中、妻の体がゆっくりと水の底に沈んでいく感覚に陥っていた。
(香苗さんダメだ!私はどうなってもいい。だから神様。香苗さんの事だけは助けてください)
 狭まっていく視界の中、必死に妻に向かって手を伸ばす。妻も私の手を取ろうと手を伸ばす。
 違う。妻は私の事など見ていない。妻は血に塗れた顔で一点だけを見つめている。その先には冴島の運転するトラック。必死にトラックの運転手に向かって手を伸ばしていた。私は絶望の中、力尽きた様に伸ばした手を地面に下ろすと、妻も冷たい水の中へと吸い込まれて行った。
 後から分かった事だが、私達を撥ねたトラックは運送会社の物で、冴島は毎日あの喫茶店に荷物を運んでいたらしい。冴島が私達の事を認識していたかどうかは分からないが、いつも大きなガラス窓の席に座っていたのだから、私達の事は見ていただろう。
 本当は分かっていた。高校時代も、付き合っていた時も、結婚して二人の生活が始まった後も。
 香苗さんは私の事など見ていない。彼女の時間はあの時から止まったままだったのだ。冴島と別れたあの時から一秒も動いていなかった。だからこそ!何とかして時間を動かしたかった。止まってしまった彼女の時間を私の時間と共に進めていきたかった。
 だがもう終わった。彼女の時は永遠に止まってしまった。私が彼女の為に出来る選択肢は一つしか残されていない。
 向かいに置かれたカフェオレは完全に冷めきったようだ。私は最後の一口を飲み干すと立ち上がり店を出た。
 あの日も今日の様な大雨だった。私は傘を広げる事なく握ったまま、灰色に広がる空を見上げた。細かな雨粒が顔に当たって流れ落ちて行く。
「今日の雨はやけに目に染みるな。空が酷く滲んで見える。錆びた雨でも降ってきている様だ」
 冷たい雨に混じって生暖かい物が顔の輪郭を撫でる様に流れていく。
「香苗さん。もうすぐだよ。あなたが最も愛した男がそっちに行くから。今度こそ本当に幸せになってね」
 今日は冴島が出所してくる日だ。
 私はポケットに忍ばせたナイフを強く握り締めると、雨に打たれながら目的地へと歩いて行った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み