一反木綿

文字数 1,583文字

 仕事帰りの電車でシートに座ってぼや~っと対面の窓の外を眺めていると、赤らみ始めた西の空をバックに白い帯みたいなものがヒラヒラと飛んでいて、なんだアレ? となる。
 白というか生成りの生地の色っぽいが、夕陽の影響もあるので正確な色味は分からない。空を飛んでいるので距離感も掴みづらいのだが、二~三十メートルあたりを電車の速度に合わせて並走するように飛んでいるように見えるし、だとすればかなり巨大なものだろう。ヒラヒラと風になびく帯があるだけで、それを牽引する、なんらかの推進機関などは見当たらない。帯が自ずから空を飛んでいるらしい。要するに、一反木綿だ。
 え、スゲーと思い、ポケットからスマホを取り出して撮影しようとするが、スマホのカメラを通すと液晶にはなにも表示されないから、ひょっとすると俺の目だけに見えている幻覚かなにかか? とも考える。そうでなければ、なんらかの怪奇現象だ。
 あれ~? 自覚はなかったけど、ひょっとして仕事でストレス溜まってんのかな~? なんてことを思いながら、引き続きぼや~っと一反木綿を眺めていたら、生地になんらかの文字が書かれていることに気付く。ん? 
となって、すこし身体を起こして目を細め、ジッと見てみる。
 ちゃんとピンと横に伸びてくれれば簡単に読めるのだろうが、一反木綿は風を受けてヒラヒラと激しくたなびいているので、たまに個々の文字は見えても、まとまった文字列として読むのが難しい。読めそうで読めない。
 一文字目がカタカナの『ミ』なのはまず間違いないと思うし、中ほどに『ハ』も見える。俺はクロスワードパズルを埋めるようなノリで、頭の中で候補をいくつか挙げてみるが、どうもどれも違う。こうなると妙にモヤモヤしてしまうので、俺は絶対に解読してやろうと、すこし前のめりになり、ギュッと目を凝らす。
「見たらアカンよ」
 そう言って、隣に座っていたおばさんが、俺の手をパチンとはたく。
 びっくりして横を見ると、おばさんは膝のうえに荷物を抱えたまま、俯いて目を閉じている。寝てるみたいなポーズだけど、いま俺の手をはたいたのだから寝ているわけがないし、狸寝入りだろう。
 俺が「おばさんもアレ、見えるの?」と訊くと、おばさんは俯いて目を閉じたまま「なんも見えへんよ」と、返事をする。
「そりゃ、目を閉じてたら見えないでしょ。外のやつ、見えてるの?」
「見えへんし、見ーひんよ。見たらアカンものは見たらアカンし、読んだらアカンものは読んだらアカン。見んかったらどうってことないから」
「なにそれ?」
 結局、おばさんは一度も目を開かないまま狸寝入りを決め込んでいて、アレが見えてるのかも、アレがなんなのかも説明してくれない。
 俺はむかしからそういう、理由も説明せずに「ダメなものはダメ!」と叱ってくる大人が大嫌いだった。俺はいま、ちょっとムカついている。
 俺はムキになって、一反木綿に書かれた文字列を解読しようとする。隣で知らぬ存ぜぬで狸寝入りを決め込んでいるおばさんにも聞こえるように、わざと「ミ……コ……ハ? いや、違うな。ミスコハ……」と、解読できた部分を読みあげていく。三割くらい解読できたあたりで、ヒュッと頭の奥のどっかの回路が開くような感覚があって、残りがスルスルと読めるようになってくる。神経衰弱は後半のほうが伸びるみたいな感じだろう。
「カ」と、最後の一文字を読み終えたところで、どうだ? とばかりに隣のおばさんに目を向けると、そこにおばさんはもういないし、というか電車の中にはもう誰もいないし、一反木綿は変わらず窓の外をヒラヒラと飛んでいて、俺は永久に黄昏の電車の中にひとり取り残されている。
 見えちゃいけないものは見るべきじゃないし、読んじゃいけないものは読むべきではないのだ。人の忠告は聞いたほうがいい。
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