第1話

文字数 4,464文字

 目覚めるとそこは見慣れない場所だった。上半身を起こし見渡してみると、真っ暗闇でどういう状況なのか掴めない。手探りで地面を這いつくばりながらしばらく彷徨ってみたところ、床は乾いた石畳で、周囲をぐるりと円を描きながら壁で密閉された空間だということがわかった。広さは一般的な個人宅では比較にならないほど大きい。思いついたのは中世の城塞か罪人の懲罰施設だった。

 自分が何故ここにいるのか思い当たることはなかった。まず最初に自分がここ居る前の出来事を些細ななことでもいいから何かないかとしてみたが、その前の一切の記憶のがなく手繰り寄せるべき一片すらないという事実に我ながら驚愕した。自分の名前もわからず、自分が何処の誰なのか自己についての情報も完全に失われていた。

 重度の記憶喪失のようだ。今更ながらその衝撃的な事実に気づいた私はしばらく暗闇の中で呆然としているだけだった。しかしそのうち自然とこの環境に目が慣れてきたようで、次第に取り巻くあたりの様子がおぼろげながら見えてきた。

 床にの石畳は大きな大理石を粗めに磨いて無造作に敷かれたもので、床から天井までは裕に5メートル以上の高さがあり、天辺には宗教的な洗礼堂か霊廟を思わせるような半球状のドーム型をしていた。その中央天辺付近におぼろ月のような淡い光が灯っていて天窓になっているようだ。周りの壁はやはり円周状に並べられた石材が積み上げられている石壁になっていて、それはドームに向かって高さ二メートル半ほど積まれていて、それも様々な大きさの大理石を組み合わさせたものだが、よく加工されていて機密性の高く几帳面に積まれていた。その円の壁のある一箇所だけ扉が設けられてた。

 私はそれを見つけると、焦ったように出れないものかと詰め寄り、思いって扉を取っ手に手を掛けて開けようと試みたが、押して引いてもびくとも動かなかった。顔を近づけて見たものの、扉自体が黒色であったとしても小さな鍵穴など見つけることは出来そうもなく、施錠されているかどうかわからず、当然扉の向こう側を知ることも叶わなかった。

 私は気を取り直してをもう一度見上天井を見上げてみた。

 ドーム状の天窓はどうやらガラス製で、わずかながら外からの光が差し込んできているようだ。外はおそらく夜で、月が出ているのかもしれない。

 再び床を見ると、そこには模様が描かれていることに気づいた。わたしは巨大な魔方陣の中に立っていることに。

 石畳には描かれた魔方陣は幾重にも幾何学的な文様をそうにした円で構成されていて、一番外枠というか外周には見知らぬ文字で整然と呪文と思われるなにかが書き連ねてあったが、私には皆目見当がつかなかった。ただ雰囲気から察する所、象形文字でも楔型文字でもなく、想像するだけで目眩がするほど大昔の古代文字ではないかという印象を持った。これが書かいた意図は分からないが、自然の摂理や因果を変えるための力を得るためのものではないかと直感的に悟った。私はそれを見ながら両腕の皮膚が軽く粟立角を感じた。

「どこなんだ?私はいったいどうしてここに・・・・」

 改めてその疑問を言葉として口から発してみると、混乱する心の中に僅かな安寧を見つけることができた。じたばたしても仕方ないとおもい、しばらく何もせずぼうっとした時間が経過した。


 しかしながらいつまでもそうやって無為な時間を送っても変化は起こりそうもなく、結局私は自分の意識を集中させて本来持っていた記憶、特に意識を失う直前の出来事、もしくは何らかの事件があったのではないかと想像して再構成出来ないかと試してみた。何か取っ掛かりになるような印象や色やキーワードでもなんでもいい。とにかく思い出せることはないかと思ったのだった。

 しかし何度かやってみたものの、どれもうまくいかなかった。こめかみに一筋の汗が伝い落ちただけで、私にあったはずの人生に関する一切の記憶は完全に失われてしまったようだ。

 しかし言葉にならない違和感のような、そのおぼろげな残影のようなものが脳裏に見える。それはもしかすると私が記憶を失う最後に網膜に刻まれたぼやけた光景なのだろうか?

 それは白昼夢のような細切れの絵のような感じだ。もしかするとそれもただの夢だったのかもしれない。そう・・・・そうだ!その夢の中さえもでも自分は床に描かれた魔方陣の中にいたのだ。つまりこれはここで初めて目覚めたわけではないのかもしれない。ならば現実と思っているこの場所、この光景は、もしや夢の中なのか?何度起きても同じ場所で目覚める終わりのない永遠に覚めない真の夜の夢。私は心底恐ろしくなって一人震えるしかなかった。

 いや!違う!!白昼夢だとしては、今ここにいる感覚はあまりにもリアルすぎる。

 「おーい!!誰かいないか!?」

 誰もいないだろうことはわかりつつも、それでも私は腹から引き引き上げたありったけの息を使って大声を発してみた。しかしながら自分の声が石壁に反響するばかりで返事はない。

もしかすると私はこの魔法陣によってここに召喚されたのだろうか?恐ろしい魔界の住人や私を恨んでいた何者かの呪縛によって。そんなゲームや映画のような与太のような話があってたまるか!自分で湧きでた想像をうちけしながらさらに妄想は膨らんでいった。やはり誰かが私を悪意を持ってここへ監禁したのだろうか?

 そんなことを考えているうちに、ふと自分の意識の中で新らしい何かが芽生えた気がした。気づきに満たないこのうずきは、もしかすると脳神経組織のニューロンが失われた組織の心深部にその手を差し伸ばして再生を試みているのかもしれない。何故かそんな科学的な発想が浮かんできて私はそんな自分の発想に驚いた。なにか科学を志していたのだろうか?薄闇のなかそんな僅かな自分への希望を探しながら、もう一度私は立ち上がり、周囲の壁をもう一度調べてみようと思った。

 円筒状の外壁に手でまさぐりながら一周している内に、突然強烈な頭痛が襲ってきて、私の意識は激しく揺さぶられ視界が暗転しそうになった。

「ぐおぁぁぁぁっ!」

 私は誰も居ない空間にひとり苦痛を表明しながら膝をついた。痛みが私を支配している。意識、いや魂と言うべきものが圧倒的な形容しがたい力によって萎縮してゆくのがわかる。呼吸をするという基本的自律神経の営みすら忘れてしまいそうだ。痛みに耐えるために歯をくいしばりながら、同時に自分という自我はその痛みにしがみつき意識を失うことの防壁にした。記憶を取り戻すまえに自我を失うわけにはいかない。だがしかしダメだった。痛みと目眩が螺旋を描いて、まるで天から舞い降りる魔物のように私という存在に挑戦的かつ懲罰的に絶え間なく波のように襲ってきた。

 意識を失いかけた私は、頭を二三度振って正常な意識を覚醒させなければ!と思い、最後の抵抗をして立ち上がろうとした。膝を付いたまま目を開けると、ひとつの人影が見えた。

「はっ!?」

 私は驚き思わず短く唸った。その姿を見てすぐにそれが通常の自然法則に準じた存在ではないことを察知した。それは全身に深い黒い霧のような暗闇の芯を持ちながらその周りに霊帯を纏っていた。霊帯と言ったものの、そんな言い方が正しいかわかない。しかしながらそう言わざるをえない物理的な存在ではない幽霊が纏う何かがところどころ透けながら周りを覆っているのだ。

「あなたは・・・?」

「私は・・・」それは女性の声だった。その続きは途切れ聞き取れなかった。

「私は自分が誰なのかもわからないのです。まったく思い出せないのです」

 私がそう言うと、女性は興味をもったのか、空気のように宙を漂いながらわたしに近づいて、私の顔を覗き込んだ。私は一瞬ぎょっとしたが、私の方からも半歩近づいて、その全身を纏う黒い霊帯と呼ぶべきヴェールの向こう側の、かすかとしか思えないその中身の素顔を見ようと思った。容貌まではわからなかったが、肉体を描く曲線からして、性別は間違いなく女性だと思った。しかしそれがわかったとして、全身黒い霧ををまとった姿ではどう見ても人間だとは思えない。死者なのかもしれない。いやもしかすると相手から見れば、私も同じように見えるのではないのか?その恐ろしい疑念を私は押し殺しすように思い直して、何か手がかりが貰えないかと考えた。

「私が何故がここにいるのかわかりませんか?」

「あなた自身がこの場所を選んだんでしょ?」

彼女の答えが明瞭に返ってきたことに意表を突かれて、しばし息を飲んだ。

「・・・私が選んだ?それはどういう意味ですか・・・?」


 私が好んでここに居るとでも言いたいのだろうか?黒いベールを纏う女の声は、綺麗な女性の声で、その美しい声は私の奥深くに突き刺さり、新たに強烈な疑惑を作った。

 女の声は美しくも心地よい安らぎにも似た暖かさを私に想起させて、なぜかわからないが、春の若葉を伸ばしたブナの木々が太陽の光を受けて穏やかな木漏れ日を地面に作る緑地を思わせた。その一方で自然法則に反するような、巧妙に計算され加工され何かの意図を持って調整された声のようでもあり、その違和感が私の神経を逆なでするようなに鼓膜に嫌な刺激して届いていて、その相反する感情に板挟みにされて落ち着かない気持ちになった。

 そうしていると今度は彼女が私に質問をしてきた。

「あなたは自分の名前を覚えてる?」

「いやわからない。わからなかったはずだ・・・・。いやでもひとつだけ・・・・そうだ!そうだった! 私の名前は・・・木村忠司だ!!」

 その四文字の名前だけ、何故か唐突に浮かんできた。それが自分の名前だと客観的な証拠は何もない。しかしその氏名が私を意味する確固たる固有の名前なのだと確信出来た。

 木村忠司。

 それは紛れもなく自分の名前であり、人々は私をそう読んでいた。しかしながらそう私を呼んでいたはずの人々、友人や家族や仕事の同僚などを思い出すことは出来そうにない。

 「そうあなたは木村忠司」

 彼女はなぜか私の名を繰り返して言い終わると、緩やかに立ち上がる煙のように地面から離れて宙に浮かび始めた。上空のドーム空間の中央付近で浮遊したまま留まり、その黒い霧のような霊帯を纏うフォルムは次第に黒さを増しかんぜんなる闇へと変貌を遂げていくプロセスを遂げて最後は完全にいなくなった。暗闇に溶けこむように。

「おい!待ってくれ!!ここは一体どこなんだ!?」

返事は無い。

「おい!まってくれ!私を一人にしないでくれ!ここはどこなんだ?頼む!どうか教えてくれーー!!」

 私は彼女を引き留めようともう一度懇願するように叫んでみたが徒労だった。気密度の高い空間に私の声がこだまして消えていった。そのあと私そのあまま見ることも聞くことも出来なくなってしまったのだと思う。闇の霞に消えた彼女の姿を追うように、私の意識は真っ黒な泥にまみれ沼に堕ちてしまったように再び私はその後の記憶を失ってしまうのだった。



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