文字数 4,850文字

 吾輩は一枚の絵である。何の絵であるかは知らない。
 吾輩は、ここ美術館という場所の小さな画廊の壁にかけられている。白くのっぺりとした、しかし清潔に磨き抜かれた壁だ。吾輩の記憶は、ここに掛けられた時から始まっている。
 吾輩は最初、空白であった。ただ目の前に広がる光景を見て、聞こえる音を拾っているだけの単純な機械。だから、記憶があると云っても、その頃の印象は空々漠々としている。しかしある時、突然吾輩の胸中に沸々と湧き上がるものがあった。言葉である。それがどこからやってきたのかは知らない。吾輩を創った者の想念が奇跡を起こしたのかもしれないし、元来絵とはそういうものなのかもしれない。とにかく、言葉は思考を生み、思考は吾輩という意識を規定した。そうなると、今まで無為に感じていただけに過ぎないこの画廊にも、様々な観察や思索を行うことができるようになった。
 四角形の壁に囲まれた画廊には、学芸員と呼ばれる人間が常駐し、開館すると様々な者たちが絵を鑑賞するためにやってくる。吾輩の他にも十点ほどの絵が存在し、額縁と呼ばれる囲いの中で、静かにその姿を晒している。窓から光が差さなくなりしばらくすると、学芸員は消え、天井に設置された照明が点き、今度は警備員と呼ばれる人間が歩き回るようになる。

 吾輩は変わり映えのしない毎日を過ごすうちに、自分が特別な存在であることが分かってきた。何故なら、他の絵の前では素通りする者も、ほとんど例外なく吾輩の前に来ると立ち止まって、凝っと眺めているからだ。中には涙を流す者もいたし、阿呆のようにその場に立ち尽くし、何時間も動かない者もあった。時折、失礼千万にも、ちらと見ただけで吾輩の前を過ぎていく輩や揶揄的な感想を連れ合いと話していく人間がいるが、そういう哀れな凡夫共には、吾輩の至高の芸術的価値が理解できないのであろう。全く畜生にも劣るその頭蓋には空洞が広がっているのではないか。
 そのうち、そうした連中と、吾輩に感銘を受ける人間の違いが分かるようになってきた。即ち、吾輩を理解できない哀れな畜群は皆誰かと一緒に来ていて、一様に幸せそうな顔をしているのに対し、後者は基本的に独りでやってきて、やつれた顔つきに病んだ眼差しで吾輩を鑑賞していくのだ。やはり、感性という素晴らしい天与の才は人を孤独にし、鋭敏すぎる感覚はその者を病ませるのであろう。吾輩の理解者は、そうした孤高の哲学者でなければならない。
 吾輩が特別な芸術作品であるのは、吾輩の同胞である他の絵を観察しても明らかである。どれも凡庸な才能の作者が描いたのであろう、つまらない風景画に女の顔や花瓶など、なんとも俗物的な題材である。これらの下賤な絵共は吾輩の後塵を拝するべく存在しているようなもので、もし吾輩やこ奴らに口が利けたなら、皆が皆、我の威容にひれ伏し、服従を申し出たことであろう。

 或る時、見慣れない連中が吾輩の城であるこの画廊にやってきたことがあった。その者たちは、黒い服に身を包んだ男の一団で、彼らが入ってくると、周囲の人間共は怯えたようにこそこそと出ていった。男たちは、というよりも中心にいる体格のいい、派手な金時計を着けた男は、一通り壁にかかった他の絵を観た後、吾輩の前にやってきた。すると例の如く立ち止まり、黙って吾輩を見つめている。よく見るとその肩は震えており、目にはうっすらと涙が浮かんでいるようだ。男は近くに小さく座っていた学芸員を呼び寄せると、低く野太い、野獣のような獰猛さを宿した声で言った。
 「この絵、なんぼや」
 男の言葉に、学芸員は困惑した表情を浮かべて、愛想笑いをしながら返す。
 「申し訳ございません。この絵は当館に帰属するものでして、売り物ではございません」
 すると、男たちの中の、一際小柄な一人が飛び出してきて、学芸員の胸倉を掴んで激しく揺すった。
 「テメエ、親父が欲しい言うとるんじゃろうが! 何とかして都合つけんかい!」
 学芸員は泣きながら「やめてください」と必死に抵抗していたが、先ほど吾輩を舐めまわすように見つめていた、例の首領風の男がそれを引き剥がした。彼は小柄な男を床にねじ伏せて馬乗りになると、その顔面を連続で殴打し始めた。
 「こんボケ、何カタギさんに手ェ出しとるんじゃ! この舌か、この役立たずの小汚い舌をワシが引っこ抜いたらええんかい!」
 そう言うと男は「親父、堪忍してください」と懇願する小男の舌を掴むと、限界まで引き延ばし、拳を思いっきり顎に叩きつけた。小男は声にならない悲鳴をあげ、床でジタバタと悶えていた。
 「申し訳ない。これで許してつかぁさい」
 男は学芸員の胸ポケットに何枚かの紙幣をねじ込むと、子分たちを連れて画廊から出ていった。学芸員は呆然と立ち尽くしていたが、ふと我に帰り、急いでその金を返しに男たちを追いかけていった。少し経つと他の職員たちがぞろぞろとやってきて、床に散らばった小男の薄汚い血をモップでふき取り、入り口の封鎖を解除して、やがて吾輩の城はいつもの風景に戻っていった。
 吾輩はその時、確信した。下司共が醜い争いをしてまで欲しいと切望するのが吾輩という絵であり、その価値は人間共が何よりも後生大事にしている貨幣にも換算できないものなのだ。吾輩の存在は唯一無二であり、宇宙の中心にある美に他ならず、未来永劫人類に受け継がれていくべき遺産なのである、と。

 その日は、平時より大勢の人間共で、吾輩の城はごった返していた。『開館記念日』と銘打ち、美術館を挙げての特別展示を他の画廊で行っているらしく、そこから出てきた者たちが次々に入ってくるのであった。吾輩の前にはやはりほとんどの者が立ち止まり、涙を流す者、角度を変えながらしげしげと眺めてくる者、中には怪訝な一瞥をくれるとさっさと過ぎ去っていく者がいた。やはり誰も吾輩を無視することはできないのだ。賞讃であれ嫌悪であれ、人間共の複雑な感情を励起し、かき乱していく自分という存在が誇らしくて仕方なかった。
 やがて、窓から差し込む光が淡い暖色に染まりだした頃、ある家族連れが吾輩の前にやってきた。父親らしき疲れた顔をした中年の男は「ほう」と言って吾輩の前に立ち止まり、それにつられて他の家族も父親の元に集まった。男以外の家族は、一様に気味の悪いものを見るような目つきで吾輩を観ていた。そして、いつまでも立ち去ろうとしない父親の裾を引っぱりながら子供が言ったことに、吾輩は衝撃を受けた。
 「パパ、もう行こうよ。なんかこの絵、怖いよ」
 父親はそれを聞くと「そうだな」と言い子供の手を引くと、出口に向かって去っていった。
 ――『怖い』? あの子供は今、吾輩を観てそう言ったのか? 万古不易の天衣無縫なる美を湛えるこの我を? 馬鹿な。この吾輩がそのような言葉で表現されるような卑俗で醜悪な作品であるはずがない。だが確かに、あの子供は吾輩を指さしてそう言った。ということは――そこまで考えて、吾輩は戦慄した。

 その時以来、吾輩は自分に何が描かれているのか、自分とはどういう絵なのか知りたいという強迫観念に憑りつかれるようになった。考えてみれば、真に美しいものを人間が観たとして、その価値を理解できなくとも、顔をしかめたり悪意を抱いたりするはずはない。ということは、吾輩はやはり、あの子供が言ったように『怖い』絵であるのか。そのような簡単な形容詞で括られてしまう、他の絵と大差のない凡作であるのか。だが確かに吾輩を前にして感動する人間も少数だがいるのだ。それを鑑みるに、吾輩はそこらにあるような海千山千の駄作でないことは間違いない。
 しかし、どれだけ考えてみたところで、吾輩は自分の姿を見ることができない。他の絵共には吾輩が見えているはずだが、奴らは唖者であるが故に、その姿を伝えてはくれない。吾輩は自分が何者であるのか、知る術は無いのだ。
 そうして、苦悩と呻吟にまみれた日々を幾夜も過ごした或る日。閉館時間になって人間共が画廊から出払うと、2人の職員が吾輩に近づいてきた。彼らはその手を吾輩の両端に添えると、「よいしょ」という掛け声と共に、容赦なく壁から引き離した。
「お疲れ様でした」
職員の一人が吾輩を見ながらそう言い、2人して吾輩を抱えると、どんどんと出口に向かって進んでいった。吾輩はその時、自分がかかっていた壁を見ることができた。そこには小さな白いタイルが張られており、『故上島竜司作 「あがき」』と記されていた。――そうか、吾輩を創造したのはこの上島という男で、題名は「あがき」というのか。奇妙な題名ではないか、これではまるで――吾輩が考えている間にも職員たちは歩みを止めず、遂に薄暗い廊下にある小さな扉の前にやってきた。

吾輩はそのまま運ばれ、棚のようなところに置かれた。周りを見渡すと、他にも様々な絵が安置されており、芸術の墓場とも言うべき一種異様な雰囲気が満ち満ちていた。徐々に暗がりに慣れ、前方を見ると、そこにも一枚の絵が置いてある。それを目にした時、吾輩の明晰なる思考は完全に停止した。その絵には付箋が貼ってあり、そこには『故上島竜司作 「あがき』』という信じられない文字が記されていたのである。
これは、吾輩だ。作者も題名も同じ絵画など、あり得るわけがない。ということは、この絵は吾輩の模造品か。もしくは、吾輩がこの絵の模造品であるのか。吾輩はついに、自分の姿を見ることができるのだ。もう一つの自分という存在に恐怖を覚えながらも、吾輩は必死にその内容を見ようとした。しかし、この場所は薄暗く、ぼんやりとしか捉えることができない。
と、その時突然、天井の照明が点いた。館内が夜間体制に入ったのだ。そして吾輩は、眼前の絵画をはっきりと見ることができた。それを観ると吾輩は、無い目で瞠目した。
赤黒く執拗に塗りつぶされた背景に、地面にひれ伏して頭を抱え、何かに必死に耐えている男の姿。男の背中からは昆虫の触覚のような、肢のようなものが生え、必死に中空を掴もうともがいているかに見える。空と思しき画面の上部には、無数の黒い鳥が、男をあざ笑うかの如く飛び交い、互いを食い合っているようだ。大地にはその鳥の死骸が無数に折り重なり、一面を漆黒に染め上げている。男の周囲には枝も葉もない、奇妙な黄土色の木々が林立し、幹は捻じれ、その部分からは形容し難い、毒々しい色の血を垂れ流している。そして、絵全体に広がり、男に向かって照射されている波形の線。一つ一つが複雑に絡まり合い、男の頭部に向かって収束していく。その絵は、醜悪で悍ましく、全身でこの世に対する呪いを吐き出しているかのような、とても正視に耐えないものであった。
――これが、これが吾輩の正体なのか。美の化身であり、芸術の到達点と思っていた我が身は、こんな瀆神的なおぞましい排泄物であったのか。こんな姿を、吾輩は、人間共や他の下賤だと感じていた絵たちに、誇らしげに見せつけていたというのか。思えば、吾輩を観て感動に打ち震えていた者たちは、あの凶暴な男を含めて、皆人生の敗残者のような風体をしていた。奴らが共感していたのは、この絵の、人間という存在そのものに対する憎悪であり、自己の生への諦観であったのだ。だから幸福な者たちは吾輩を観て、嫌悪の情を露わにしていたのだ。それも仕方ない、こんな、この世ならざる絵など、存在してはいけない。吾輩は――

翌日、朝になって出勤した美術館の職員たちが倉庫に入ってきた。今年度の展示物を取り出そうと忙しく働く彼らの一人が、「あれ?」という素っ頓狂な声をあげた。周りの職員が近づいてくると、彼は言った。
「確かに、昨日ここに置いたはずなんだ」
彼が指さした先には、爪を立てて掻きむしったような線が広がる、真っ白なキャンパスがあった。




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