夏の日差しを後ろに置いて

文字数 3,514文字

 その日は、とても暑い日だった。

 まだ初夏に差し掛かったばかりだというのに、流れる汗が止まらない。
 クーラーの効いた涼しい電車から降りたばかりだからか、より一層暑さがキツく感じた。
 駅を出ると、その暑さはさらに増してくらりとする。

 タクシー使えばいいのかもね。

 駅前に止まっていたタクシーを通り過ぎる。
 タクシーの中で運転手が涼しげに新聞を読んでいるのが見えた。
 家までは徒歩で二十分程度。
 十分歩いて帰れる距離だ。タクシーなんて贅沢。

 少しだけ涼しげなタクシーに未練を残しつつ、わたしは家に向かってコンクリートの道を歩き出す。
 ただでさえ止まらなかった汗は、歩くとより一層滝のように流れて不快感を際立たせた。

 暑すぎるよね。

 見上げなくてもわかるほど、太陽が照りつけていることがわかる。
 田舎なせいか、周囲の建物がみんな低くて、日当たりがよすぎるのもいけない。
 コンクリートの道上にゆらりと陽炎が見えるレベル。
 肌がじりじりと焼かれて、いっそ痛いぐらいだ。

 もう少し手加減してくれてもいいんですよ、太陽さんっ……。

 情け容赦ない日差しに苛立ちを隠せないまま、わたしは路地裏に入る。

 普段は絶対に入らない路地裏だった。
 薄暗くて陰気で、なんとなく嫌な雰囲気なのだ。
 けれど焼き殺されそうなこの日差しを避けれる場所は、もう路地裏しかなかった。

 路地裏に一歩足を踏み入れた瞬間、ふっと周囲が暗くなる。
 独特の臭いに思わず顔を顰めた。
 鉄錆とカビの臭いだろうか。
 既に使われていないのが一目でわかる壁沿いのパイプには、真っ赤な赤錆がびっしりとこびり付き、元は白かったであろう壁は黄ばみ、灰色のカビが模様のようにまだらに広がっている。

 あちらこちらに黒く滲んだ染みのある汚らしい道は、あまり長居したくは無い場所だ。
 でも日差しを避けれた分、周囲はひんやりと涼しい。

 日に焼かれるよりは、マシかな。

 止まらなかった汗も止まっていた。
 だんだんと臭いも慣れてくると、余裕も出てくる。

 空、綺麗だなぁ。

 さっきまで見上げもしなかった空を見上げ、そんなことを思う。

 路地裏で高い(・・ )ビルとビルの隙間から見上げると、四角く窓のように切り取られた空が落とし穴の底のように遠く小さく、吸い込まれそうになる。

 落ちそうだよね。

 くすっと笑って、わたしは涼しさに気分をよくしながら路地裏を右に曲がる。
 転がっている空き缶を避け、建物の二階の裏口に続く古びた鉄の階段を通り過ぎる。

 今も使っている人はいるのかな。
 足をかけたらそのまま階段が崩れそう。

 古びて暗い雰囲気も見慣れればどうということもない。
 いっそ味があるというものだ。

 涼しさにスキップしそうな足取りで、わたしは路地裏をさらに右に進んだ。
 赤く錆付いたパイプを横目に、壁のカビから目を逸らして黒い染みのついた道を歩く。
 転がる空き缶を通り過ぎ、腐食の進んだ鉄の階段も通り過ぎた。

 お母さんにメールでも送っておこうかな。
 そろそろ家に着くから、クーラー入れておいてくれたら嬉しいし。

 お母さんのいる居間はクーラーが効いていると思うけれど、わたしの部屋は二階。
 家を出るとき消してきたから、いま部屋に入るときっとむわっと熱い空気が溢れるだろう。

 メールを打ちながら、わたしは路地裏を進む。

 壁沿いの赤茶けたパイプを通り過ぎ、壁のカビから目を逸らすと、黒い染みのついた道が目に映る。
 カビの臭いと鉄サビの臭いに苦笑しながら、わたしは空き缶を避けて鉄の階段を通り過ぎた。

 なんだろう?

 ふと、なにかが引っかかった。
 けれど何かはわからないまま、わたしは先に進む。

 普段滅多に通らない道だからかな。
 なんだが随分歩いている気がする。

 駅前からすぐに路地裏に入ったけれど、抜けるのにこんなに時間がかかるものだった?

 腕時計を見てみると、電車を降りてからほとんど時間が経っていなかった。
 どうやら、あまりにも暑過ぎたから時間感覚がおかしくなっているらしい。

 苦笑しながら、わたしは転がっている空き缶を横目に古びた階段を通り過ぎる。
 錆付いたパイプの横を通り過ぎ、カビの生えた壁を見つめながらわたしは黒く染みの滲んだ道を心なしか足早に踏みしめ、路地裏を進む。



 何度目だろう。
 わたしは、転がる空き缶を前に立ち止まった。
 路地裏なんだから、空き缶の一つや二つ、落ちていて当たり前だ。
 でも、さっきから、同じものにしか見えないのだ。
 メーカも一緒。
 種類も一緒。
 汚れ具合も凹み具合も同じような。

 そんなことあるわけないんだけどね。

 同じ空き缶がずっとあるはずがないのだ。
 同じ場所で無い限り。

 ずっと歩き続けて元の場所に何度も戻ることもありえない。
 方向感覚には自信があるのだ。
 ほぼ使わない路地裏とはいえ、自分の家の方角ぐらい完璧だ。

 わたしは軽く頭を降って、疲れてきた足を前に動かす。
 古びた階段に、わたしはバッグから取り出したリップで『→』と書いた。
 これで馬鹿げた妄想ともお別れできるはず。
 同じ場所を延々繰り返し歩いているはずがない。

 今にもポロリと折れそうな錆びたパイプを通り過ぎ、カビの生えた壁を溜息と共に無視し、黒い染みの広がる道をわたしは苛立ちを込めて踏み進む。

 早足なのに、体温がどんどん下がっていくかのよう。
 手足がひんやりとしてくる。
 背中には冷たい汗が伝った。

 転がる空き缶に奥歯を噛み締め、わたしは、古びた階段に恐る恐る近づいた。
 呼吸がおかしいのが自分でもわかる。
 耳元で息をしているみたいだ。


 古びた階段には、わたしが書いた矢印がくっきりと描かれていた。


 どうなってるのよ!!

 叫びそうになりながらわたしは走った。
 ただただひたすらに走った。

 赤錆びまみれのパイプと壁のカビを睨みつけ、黒い染みを踏みにじり、転がる缶を蹴り飛ばして、古びた階段から目をそらして、黒く滲んだ道を駆け抜けて壁のカビを無視して蹴飛ばした缶が転がっているのを踏みしめて古びた階段を走り抜けて赤錆びのついたパイプを殴りつけてカビだらけの壁を無視して踏まれた空き缶を飛び越えて古びた階段を蹴って。

 なんなのよ。
 ねえ。
 なんなのよ!

 わたしは、荒い息を吐いて立ち止まり、空を見上げた。
 どこまでも遠く澄んだ青空はビルとビルの隙間から見上げると落とし穴の底のようにぽっかりと口を開けていて、ぞくりと背筋が泡立った。

 なんで、あんなに遠いの……?

 壁もそう。
 この辺にこんなに高いビルないじゃない。
 田舎なんだもの。
 高いビルがなかったから、日陰がなくて、仕方なく路地裏に入ったんじゃない。
 なのになんでよ。
 なんであるのよ。

 腕時計を見れば、時間は全然進んでいない。

 そんなわけない。
 これだけ息が上がるほど走り続けて、時間が進んでいないはずが無い。

 あぁ、そうだ。
 道を間違えているんだわ。
 前に進んでいるつもりで、同じところをぐるぐる回ってることなんて、たまにはあることじゃない。
 普段使っていない道なんだもの。
 
 そんなはずないと思いながらも、わたしは、無理やりそう結論付ける。

 そう、迷ってしまったなら、元の位置まで引き返せばいいのだ。
 ありえないビルに見えても、疲れて空が遠く感じているだけ。
 冷静に考えて、駅側に戻ればいいことじゃない。
 ねぇ?
 わたしは、少し落ち着きを取り戻しながら、振り返り――今度こそ、絶叫した。
 
 わたしの前には、朽ちかけの真っ赤な赤錆がびっしりとこびり付いているパイプと、元は白かったであろう壁は黄ばみ、灰色のカビの生えた壁と、あちらこちらに黒く滲んだ染みのある汚らしい道が広がっていた。
 

――ねぇ、知ってる?
――なに?
――ここの路地裏、都市伝説があるのよ。
――聞いたことないけど。
――ここの路地裏ってね、暑い夏の日に入ると出られなくなるんだって。
――なにそれ。こんな場所で迷うの? それになんで路地裏だってわかったの?
――家族にメール入れたらしいよ。路地裏から出られない、って。
――結局、日が落ちれば出れるらしいけどね。
――ふうん。



――……今日って、凄く、暑いよね……。


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