第1話

文字数 2,000文字

 彼は煙草に火をつけようとした手をとめて、指先で私の涙にぬれた頬に触れた。
「どうした?」
 私が黙って頭を振ると、彼は私の髪をくしゃりとしてから煙草に火をつけた。
「俺じゃ力になれない?」
 甘い声でそう言って、窓際に行ってしまう。
 窓際でプランターに植えられた観葉植物ともいえないような植物に水をやりながら、
「今日も元気だね。水、うまいか?アサちゃん」
 私にかけるより甘い声でその植物に話しかけた。彼は名前まで付けて、その植物を愛しんで育てているのだ。一瞬凶暴な衝動が沸き起こって“アサちゃん”を引っこ抜いてやろうかと思ったけど、そんなことはもちろんできない。
「ほんとにどうしたの?」
優しい声に心が震えた。



初めて彼に会ったのは、その日の仕事のせいで悪酔いしていた居酒屋のカウンターだった。私は、偶然隣りに座った彼にうざく絡んでいた。本当にあの時は申し訳なかったと今でも思っている。
「私の仕事のおかげで助かってる人、た~~っくさんいると思うんですよぉ。 でも、誰も私に感謝なんてしないんです。私だってそれなりに頑張ってるんですよ? なのに…、頑張っても頑張っても頑張っても、なんか嫌われちゃうんです……!」
 悔しさに涙目で何の関係もない彼に向かって私は訴え続けていた。その日の昼に私に向けられた恨めし気な顔が脳裏にこびりついて離れなかったから。
 私は沢山の人のためになる仕事を選んだはずだった。弱い人達を助けたかった。私は弱い人たちの対岸に立っている強い人間のはずだった。
それが、望んだ仕事に就いて望んだ仕事を任されて、そして仕事に潰されそうになっていた。

「それは、せつないね」

その甘い声に、ドキッとして目を上げた。
酔いながらも無関係な人に絡んでいることは自覚していた。自覚していたから無視されると思っていたし、突き放されて当然だと思っていた。
なのに、目を上げた時に見えたのは、ほんの少し目尻を下げてちょっと口の端を上げて、私を慰めようとしている彼の優しい顔だった。

あの日から何度も私は同じ居酒屋で彼と飲んだ。彼が現れる時間を知ってからは、その時間に行けるように、計算してそこを訪れた。
「のぞみさん、今日、この後、飲みに行きませんか?」
「ごめん、予定あるの」
 職場の人からの誘いは断った。
「俺なんかとばっかり飲んでて大丈夫なの?」
 彼のそんな言葉には微妙に傷ついた。私は彼に夢中で、彼にも私に夢中でいて欲しかった。
「だいじょぶに決まってるでしょ。ほかに飲む人もいないし」
「そうか」
 そう言って口の端をあげた彼に、彼も私といることを喜んでいるのだと勝手に決めて心を踊らせた。
 彼は、その居酒屋に沢山来ている疲れたサラリーマンたちとは何かが違った。同じくらいの歳の似たような格好の人は沢山いたけど、彼ほど煙草に火をつける姿が様になる人も、どうしようもなく心を惹きつけられる優しい笑顔を持っている人もいなかった。

だから、ひと月前、私はついに彼の家に行ってみたいと言ってしまったのだ。
きっと、結婚はしていない、と勝手に思っていた。彼女がいるかはわからない、とも思っていた。それもこれも、私が彼の家に行きたいと言えばわかることだ。
彼は、驚いたような顔をして、ちょっと困ったように頬をぽりと掻いた。
「別に……、いいけど、何にもないつまらない部屋だよ?」
その、少しとまどったような顔を穴をあくほど見つめながら、この人は家に大切な女性を隠しているわけではなさそうだと考えていた私は、なんて馬鹿だったんだろう。

訪ねてみれば、彼の部屋はすっきりとしたよく片付いた部屋だった。
「すごく綺麗にしてるじゃない」
「物がないだけだよ」
彼が言う通り、そこには最低限の生活用品と窓際に置かれたいくつかのプランターしかなかった。そこで彼はそのプランターに植えた植物を大切に育ていたのだった。



「アサちゃん、可愛いよ」
 彼が幸せそうにその窓際の植物に話しかける。
胸の奥がズキッと痛んだ。
「ね、どうしてその草そんなに大事に育ててるの?」
 私は震えそうになる声を抑えて彼に問うた。
「え?」
 咥え煙草のまま、彼はぼんやり私の方に振り向く。
「私の仕事、何だか知ってる?」
 私はじっと彼の瞳の中を見つめる。ああ、もっと早く彼のことを見抜くことができていたら。
「知らないよ」
 彼が答えた。
「話したこと、ないものね。人に言えない仕事だから」
 家のすぐ外でガタッと音がした。
彼の目の焦点がようやく私に合った。
 あなたは、あの居酒屋にいる誰とも違った。それはあなただけが嘘をまとっていたから。
「私の仕事は、」
 身分証を出す。
 彼はハッとして、私を見た。
「麻薬取締官なの」
 
 ”アサちゃん”は非合法の大麻。押し入れの中には何キロもの白い粉。

あなたの家に行くことも居酒屋で一緒に飲むことももうない。
でも、今も私は心の隙間に入り込んだあなたを追い出すことができない。
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