第1話

文字数 1,198文字

「人生はエチュードだ!」は、私のモットー。
 人生も、いったん幕が上がると、いやおうなしに、そこに立たされ、語り続けなればならない。
 それに幕が降りるまで、自分勝手に舞台を降りたり、中断することは許されない。
 しかしエチュード(即興劇)にはシナリオが無いように、人生においてもシナリオは存在しない。
 語るべき言葉を、その場、その瞬間に、ふさわしく語らなければならない。
 ただどのように語り、ふるまえば良いのか?
 民族や地域社会において言い伝えられてきたこと、親から子へと伝えられて来た模範があったのだろう。
 だが現代社会において、どれだけこれらの遺産が残り、受け継がれているのだろうか。
 聖書は、イスラエルの民族を中心とした歴史の中で、どのように人が生きてきたのかを記す記録だ。
 ただ単なる記録でないのは、人が道を踏み外すとき、ふさわしい道を指し示す存在者を認めて来たところにある。
 私たちも、聖書に記された、かつて導かれてきた人々の生き様を通して、人生のエチュードに生かせるのではないかと思うのである。

 まず舞台の開幕を考えてみると、何もないところから、役者が言葉を発することによって始まる。
 そしてストーリーが展開し、観客によってそれは作品として認識され、記憶に留められていく。
 創世記の冒頭に「初めに神は天と地を創造された」とある。
 今に生きる人生も、まだ始まらない無の状態から生まれ、永遠の存在として記憶される過去につながる中間を占めていて、ここでどのようにふさわしい決断をし続けるか、このことにこそあると思う。
 役者のセリフは、自分の語るべき言葉を言い放てばよいわけではない。むしろ相手の語ることをよく聞くことによって、次に語るべき言葉を紡ぎだすのである。

 また舞台の技法の一つ「暗転」を考えてみると、これは幕を下ろさずに、場面を転換させるものである。
 人生にも暗いときがある。何も見えないようなときがある。
 だけどそれは次の場面への備えの時かもしれない。
 しかもたとえ病気や障がいがあったとしても、それぞれに与えられている役割の大切さは少しも異ならない。
 むしろ与えられた役割を精一杯果たすことが大切だ。

 ところで、もし人生がエチュードのようなものであるなら、観客は一体誰なのだろうか。
 私は思う。
 先ず自分の周囲の人たちだ。
 わたしたちは意識しようがしまいが、周囲の人々に日々影響を与えている。
 それに神様だ。
 神様が人々に与えた命をどのように生かしているのか、ということを御覧になっているのではないかと思うのである。
 舞台では、役者は演技というパフォーマンスを人々に与えている。
 人生においても、誰かからプレゼントを受け取ることより、与えることの方が幸いだ。
「また、主イエスご自身が『受けるよりは与えるほうが幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、…」(使徒言行録20:35)
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