孤悲

文字数 7,055文字

 振袖を着た少女が袖を振っている。
 そんな夢を見た。
 桜並木の向こう側、月明かりに照らされる海辺、雪降る線路の上、そして――夕焼けに染まる屋上。
 幾つもの微睡みの果てでも少女は笑みを浮かべて袖を振っていた。
 蓮華柄の振袖を身にまとい、お団子にした髪には僕が前にプレゼントした銀色の簪を挿している。
 口を開くことなく、思いを伝えることもなく、ただ静かに佇んでいる。
 彼女の名前は佐久間美奈と言い、僕の高校時代の先輩だ。
 高潔で静謐、繊細で華奢。
 穢れなど一切なく誰にも侵されることのない純白さを秘めた美奈さんは絵に描いたような少女だった。
 花を愛で、潮風を肌で感じ、雄大な海を見渡し、満天の星を眺めて、彼女は涙を流す。
 花のように笑い、空のように感情豊かな美奈さんをどんな言葉で形容しても陳腐に聞こえるほど佐久間美奈という少女は奥ゆかしい。
 僕はその人形のような少女を見つめる。
 お別れをするように手を振る美奈さんに僕はいつも応えられずにいた。
 何度同じ夢を見ても、手を振り返すのには躊躇いを覚える。だから、僕はいつも代わりにこう答える。
 ――まだ、僕はあなたの死を哀しいと思えないんです。
 声にせず口だけを動かすと視界がホワイトアウトしていき、意識が遠くなっていく。
 眼が覚めると、臙脂色の木目が点在する天井が見えた。見覚えのある、慣れた光景だ。
 窓を見ると美奈さんの心を象徴する純白がしんしんと空から降り積もっていた。
 死んだはずの美奈さんは、時折僕の前に現れる。
 今日のように夢の中に、時に現実のひと時に。
 振袖を着た過去の亡霊。
 佐久間美奈の夢を見始めて、季節はもう二周したのだと実感する。


 僕が人の死に哀しみを抱かないと自覚したのは七つの頃だった。
 祖母が肺がんで亡くなった。
 病気が発覚した時にはもう手遅れであり、最期の二か月は病室で過ごしたようだ。
 その時の僕はまだ物心つく前であり、覚えていることは少ない。しかし、唯一覚えているのは、今までの人生に悔いはないと祖母に自慢されたことと徐々に弱っていく祖母の手の温度がひんやりと冷たいことくらいだった。
 そして、祖母は静寂に包まれる満月の夜にひっそりと息を引き取った。
 僕が病室に着いた時に見た祖母は変わらず眠ったような顔をしていた。いつものように手を握っても相変わらずひんやりとしていて、別に生きていても不思議ではないとなんとなく思ったことを覚えている。
 葬儀の時も棺を囲み、祖母への別れに悲しんでいた親族たち。その集団に入り込むことが気まずくて、涙を流すことなくただただ茫然と眺めていた。誰も咎めることはしなかった。まだ死という遠くにあるようで身近なものに慣れていないのだろう、と大人は思ったに違いない。今に思えば、一番に人の死を自覚していたのは僕なのかもしれない。
 人の死に哀しみを抱かないという人間としての致命的な欠陥に気が付いたのだから。
 生憎といえば語弊があるかもしれない。しかし、僕の両親はそのことには勘づくことは一切なく、とても誠実に良い息子として育ってくれたと今では思っているのだろう。だがそれは全くの間違いである。
 ただ、路傍の花の枯れる様を見るように、僕は人の死に対する哀しみをそれを同列だと思っている。
 僕はそれに絶望した。
 その致命的な欠陥は、人としての最低限の資格を剥奪する類のものであったからだ。
 まともとは言えない僕の感性を、僕が誰よりも否定したいものであった。
 それを自覚してしまった瞬間、自分という生き物に嫌気が差して仕方なかった。
 だが、どれだけ絶望したとしても涙だけは流れなかった。
 それは佐久間美奈の時も同じだった。
 風が冷たい屋上で、西の海には世界の終焉を思わせる朱色の夕陽が姿をくらませようとしていた。
 紺碧色のマフラーをなびかせて、淡く光るローファーで軽快な足音を立てながら、美奈さんは屋上の端をゆっくりと歩く。
 それは縁石の上を歩く子供の遊びと同じように、ローファーでリズムを奏でて猫のように器用に歩いていく。
 一歩踏み外せば無事では済まない。
「美奈さん、その先は痛いですよ」
 その先にあるものをはっきりと分かっていながら、僕はその光景を傍観していた。
「君は、自殺はダメだなんて言わないんだね」
 こんな時も朗らかにえくぼを浮かべてそう言った。
 どこまでも笑う彼女は羨ましいと同時に痛々しく思えてしまう。
 清潔な場所でしか生きていけない魚のように、美奈さんはこんな穢れた場所で生きることはできない。
 僕と美奈さんは、彼女の弟を通して出会った。
 美奈さんはいつも屋上にいる。海を眺めていたり、本を読んでいたり、たまに無防備に寝ていた時もあった。
 僕は気が向いたら放課後、屋上に足を運ばせて益体のない会話をするのが好きだった。
 世界一やさしい言葉は何かと話し合ったり、どうして空は青いのかを論じたり、なるべくどうでもいい話をして過ごした。
 お互いに生きづらいと思っていた空間の唯一の居場所を踏み込んだ話をして壊したくなかったのかもしれない。
 初めて会った時から美奈さんが死を欲しているのはなんとなく理解できていた。
 特段、それに馬が合ったわけではない。むしろ、とても憐れな存在だと思っていた。
 だが、人の死を哀しいと思わないからこそ、彼女の存在に好感を持てたのだろう。常識から逸脱する怖さはよく知っている。近くにあるはずなのに、手を伸ばしても延々と届かない感覚は置いて行かれるようでとても怖い。
「ブランケットがあります。使ってください」
 僕は足元に落ちていた美奈さんのブランケットを手に取って、彼女へと渡した。
 せめて彼女が落ちても痛くないように、彼女が落ちても死なないように。
 さすがにそれで助かるとは本気で思っていないものの、できるならその行為を選ばないでほしいが、それは無理だろう。
 風が強く吹き荒れる。
 夕陽を背負うように重なる美奈さんはブランケットをローブのように被って風に負けないように叫んだ。
「君は死が神秘的なものだと思っている!」
 なびくブランケットが美奈さんの手から離れて宙に舞う。
「私、君に会えて嬉しかった」
 夕陽を背にしているせいで、その表情は見えない。
「ありがとう! 私を否定しないでくれて!」
 そうして、抱擁を待ちわびるように両手を広げて佐久間美奈は飛び降りた。
 それから先のことはあまり覚えていない。
 美奈さんが飛び降りた直後、屋上から恐る恐る見下ろすとおかしな角度に曲がった足と頭から広がる血が地面を濡らしていく光景が小さく見えただけ。
 両手を広げて宙に身を投げ出した姿がフラッシュバックして、その不気味さに吐き気が込み上げてきて、手で口元を覆った。
 そして、風が吹き荒れて、彼女が被っていたブランケットが僕の目の前を通り過ぎて、宙へと舞っていく。
 美奈さんが遺した最後のモノが遠く、僕の知らない場所へと運ばれていく。
 それを茫然と見送って、人が来るまで動けなかった。
 その後、僕は警察署と学校を行ったり来たりする日を繰り返して、気がつくと火葬場で喪服に包まれた人たちが火葬炉に入っていく美奈さんに涙する光景を遠くから見つめていた。
 ――まただ。また僕は人の輪に入れずにいる。
 こんな時でも美奈さんの死を哀しんでやることができない。
「哀しいですよね」
 少し後ろでその光景を眺めていた葬儀屋の女性になんとなく話しかけた。それは仕方ないという言葉一つで済ませることができる自分に嫌気が刺したからなのかもしれない。
 黒いスーツを着た女性は静かにこちらを向いて、無感情の瞳で受け応える。
「そうですね。私は仏さまの詳しい経緯は存じ上げておらないのですが、あの若さでお亡くなりになった姿は、さすがに心にきますね」
 無情とも思わせる冷徹な瞳はどこか哀しげに思える。
 いくつもの死を目の当たりにする仕事をこなす以上、情を寄せることには疎いのかもしれない。そもそも情を寄せたところでそこに救いはない。
「人は死んだらどこへ行くんでしょう?」
「さて、どこに行くのでしょうね。キリスト教、ユダヤ教、仏教など数ある宗教でその解釈は無数にあります。彼女は仏教徒でしたか?」
 彼女とは、美奈さんのことなのだろう。
 初対面の人が死者である美奈さんのことを未だに人扱いすることがどこかおかしかった。
 それに先刻のえらく畏まった敬語より幾分か砕けた喋り方が心地よく好感が持てた。
「いえ、そんなことはないと思います。神様を信じることができれば、まだ美奈さんには救いがあったのかもしれませんが」
「日本人の多くは無宗教に属していると言いますが、そもそも火葬とは仏教徒のやり方です。詳しく知りもしない宗教の葬儀を行われるなど、自分の身であったならとても怖い」
 少しだけ口角をあげて葬儀屋の女性は微笑んだ。それは冗談のつもりなのだろうかは分からない。
「宗教とはいかに死を回避するかを説く概念だと思っています。仏教では輪廻転生という生と死の繰り返しから脱するのが究極的な目的です。キリスト教においても神を信じていれば救われるという考え方は死が恐ろしいもの、哀しいものだという前提で成り立っているのです」
 そして、最後まで静かに葬儀屋の女性は火葬炉に目をやりながら告げた。
「ですが、私は死が哀しいことだとは思いません。彼女は満足してこの世を去ったのでしょう」
 良し悪しを語る前に、それを否定するということは彼女を否定するということに他なりません、と彼女は言った。
 その不思議と色気の感じない艶やかな唇からぽっと放たれた言葉に僕は一瞬心を奪われた。
 人の死を哀しいものだと思わないことが人としての決定的な欠陥だと思っていた。
 過去、祖母の死を通してそれを知り、この美奈さんの葬儀でそれを再認識したつもりだった。
 それでも、その言葉にどこか救われた気がした。
 子供の頃からずっと欲しかった、そんな言葉をこんな場所で聞くことになるとは思わなかった。

   ***

 佐久間美奈は死ぬ直前、一緒に来ないかとも言った。
 一緒に死のうと手を差し伸べてきた。
 僕は死に哀しさを感じないあまり、死を神秘的なものだと思い込んでいるが、死にたがりなわけではなかった。そこだけは僕と美奈さんの違いであったのだ。
 神秘的と思えば、何もかも救われると信じていた。それが僕の処世術だった。
「べつに、姉貴は死ぬ理由なんてなかったんだよ」
 葬式を終えた帰り道、美奈さんの弟の芹は軽い調子でそう言った。彼とは中学からの仲で、彼を通して美奈さんと知り合ったという経緯にある。
 天真爛漫を絵に描いたような少年である芹だが、さすがに今日は神妙な顔で大人しくしていた。それでも口を開けば、どこか軽率さを感じさせる。それはきっと、彼とも付き合いが長いからだろう。
「たとえば、今日は曇りだったから死のうとか前髪を切るのに失敗したから死のうとか、そんなどうでもいいことを理由に死んだのかなと思うわけだよ」
 縁石の上を丸太渡りのように危なっかしげに渡りながら、彼は静かな口調で続ける。
「何かがあったから死んだわけじゃなくて、死ぬ建前ができたから死んだだろうな。だから、お前は気にしなくていいんだよ。むしろ、最期に姉貴の傍にいてくれてありがとうな」
 芹と美奈さんは義理の姉弟であり、美奈さんが十歳の頃に母親が再婚して芹と義父と住み始めたと言っていた。
「君は哀しくないのか?」
 芹は一瞥をこちらに寄こした。
「哀しみなんて一晩で薄れる。葬儀つーのは別れの後の儀式なんだ。オレは姉貴が死んだ時にもう別れは済ませた」
 葬儀は事後処理である、と彼は吐き捨てる。
 それは本心か、哀しみを隠すための擬態か。
 それが彼の本心なのかは長い付き合いの僕でも分からなかった。
「そういやオレの親、離婚するってさ」
 またも、芹は何ともないような口調で言った。
 僕は芹のほうを見なかった。どうとも取れない声音は少しだけ怖かったからだ。
「……美奈さんが原因?」
 愚問を口にしてしまったが、芹は笑った。
「もともと険悪な感じだったんだよ。遅かれ早かれ、こうなることは知っていた。ただ、姉貴がそれを速めただけだ」
 さらに芹はこの地を離れる、と続けた。どうしても父親が地方の実家に戻ると言い出したらしい。
 美奈さんが亡くなって、一番きつい状況に置かれているのは、おそらく芹であろう。
「お前は生きろよ」
 真剣な眼差しが注がれる。
 そのいつにも増して、神妙な表情が見ていて辛かった。
「姉貴の分まで、なんて言うつもりはないが、せめて必死に生きて死に際に楽しかったと言うくらい生きてくれ」
 そして、芹を別れた後、海沿いの道路を歩いていた僕は砂浜の波打ち際で手を振る美奈さんを見た。
 絶海が朱色に染まる夕刻のひと時。
 美奈さんは手を振りながら静かに淡々と泣いていた。

   ***

 病気で入院している母のお見舞いを終えて、僕は備え付けの喫煙室でタバコを吸っていた。
 母の病気はよく分からない。容態と雰囲気から大事ではないのだろうが、万が一の結果だろうとも僕は哀しまないのだろう。
 まだ今朝の見た夢の残骸が袖を引っ張っている。何度も見る夢ではあるが、慣れることはない。
「久しぶりですね」
 少しだけ感情が入った、聞き覚えのある声に振りかえる。そこにはスーツ姿の女性がタバコを片手に立っていた。笑みを浮かべる顔は目尻に皺が寄り、えくぼができていて好感が持てるがどこか作り物じみているようで不思議な感覚に陥る。
 僕は、彼女が葬儀屋の女性だと分かってお辞儀をした。
 彼女はいつも作ったような表情をしている。無表情さえも仮面をつけているように徹底的に素顔を隠しているようだ。
「どこか悪いの?」
「いえ、身内のお見舞いです」
 そう、と彼女は興味なさそうに返す。
 葬儀屋の女性は綿梨というらしい。
 仕事のために病院に足を運んでいるとのことで、仕事柄のせいで邪険にされるのだとタバコを吸いながら愚痴をこぼされた。
「まあ、なくても支障はでない仕事だからね。人の不幸で飯を食べるって感じだし」
 綿梨とは美奈さんのお墓参りの時に偶然会ったことがあった。それが一周忌の時だから、もう一年になる。
「寒いね」
「そうですね」
 外は一面銀世界でしんしんと雪が降り積もっていた。静寂を絵に描いたような幽玄な光景に心が滅入る。幻想的な景色は美奈さんを連想させるからかもしれない。美奈さんと美しいものはよく似合う。
「……綿梨さんは、幽霊を信じますか」
「いたら面白いと常日頃から思っているよ」
 けど、と一拍置いて続ける。
「葬儀屋の立場から言わせてもらうと、葬儀まで施してやったのに化けて出てこられるのはいささか複雑な気分になるね」
 いつかと同じように微かに口角をあげて笑う。それはジョークのつもりなのだろう。
「前に人は死んだらどこに行くのか、という話をしたね」
 綿梨はふっと煙を吐いて、灰のこぼれるタバコを灰皿に押しつける。
「魂魄という言葉がある。魂と精神。魂は天へと、精神は地へと還る。君が言う幽霊はどっちだと思う?」
 どちらだろうと思案する。
 自然と脳裏に浮かぶのは、やはり美奈さんだった。
 振袖を着た過去の亡霊。
 あれは美奈さんが持つ純潔な精神より死を欲する残酷な魂のように思える。
「魂でしょうか」
 なんともないように返した言葉を受け、綿梨は満足げに、今度こそ自然な笑みを浮かべてこちらを向いた。
「じゃあ、君の前に現れる幽霊もきっと魂なのね」
 初めて本物の感情のこもった表情を向けられた気がした。
 たまに彼女は根拠もない言葉を口走る。
 年端かない少女のように笑う姿はどこか美奈さんに似ている気がした。
「あなたも笑うんですね」
「失礼ね」
 間抜けた言葉に、綿梨はまた笑った。
 彼女にも生きづらい世界があるのだろうか。僕や美奈さんが屋上で無聊な時間を過ごしたように、彼女にとっても感情を偽ることが処世術だったのかもしれない。
 タバコを吸い終えた綿梨は仕事があると言って喫煙室を出ていく。
 彼女が去った喫煙室は静かだった。
 亡霊となった美奈さんは、死を欲しない美しい魂を持っているのだろうか。
 持っていたらいいな、と心の底から思う。
 天へと還ることの叶わない魂に死を欲する残酷さは不要だ。
 僕はタバコを灰皿に押しつけて火を消す。
 ふと視線を上げると、窓の外――雪が降り積もる銀世界に一人、振袖の少女がこちらを見つめていた。
 蓮華柄の振袖を身にまとい、何を伝えるわけでもなく静かに笑って袖を振っている。
 振袖とは未婚の女性の正装だと聞く。
 そして、袖を振る仕草は恋しい人への好意を示す行為と言う。
 そもそも人との別れ際に手を振る動作は、別れを惜しむという意味で袖を振るという仕草からきたものだ。
 だが、袖を振るという行為は親愛の意味を表すと同時に魂を招き寄せるためという呪術的行為でもある。
 愛する者と自分の魂を一体化させてお互いを想い合う。
 そのために、愛する者を手に入れるために袖を振る。
 それは一見微笑ましいのだろう。
 しかし、それが死者による袖振りであったのならどうなのだろう。
 確かに、僕は佐久間美奈に恋をしていたのかもしれない。
 そう思うと、目の前に現れる過去の亡霊に少しだけ哀しくなった。
 バイバイ、と心の中で呟いて銀世界に佇む振袖の少女へと静かに手を振った。

―了―
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