照らせども乾かぬ圀

文字数 3,993文字

【起】

 七歳にして大人顔負けの文章を作ることができた秀才の駱賓王であったが、出世の糸口を掴むことができたのは三十歳になった頃だった。西暦669年、唐の三代目皇帝高宗の総章二年のことだった。
 同郷の名士の伝手を得て、当時、吏部侍郎という役職にあった裴行倹に会う機会を得た。武人の家に生まれた裴行倹は自身も優れた武将であった。後年、ササン朝ペルシアの王子と共に西域遠征を行っている。
 裴行倹は駱賓王に対し、厳然と言った。
「まずは作品を書いてみろ。話はそれからだ」
 威厳に満ちた裴行倹にそう言われれば、凡人ならば萎縮するところだが、駱賓王は負けていなかった。『帝京篇』という七百字以上に及ぶ長い詩を創りあげ、献上した。

 山河千里国 城闕九重門
 不覩皇居壮 安知天子尊

 詩文を見る目もあった文武両道の裴行倹は、駱賓王の作品の良さを讃えた。
「だが、人物を評価するのは器識が優先で、詩文などの才芸はその後だぞ」
 と言うのも忘れなかった。
 丁度同じ年に、別の地域で名声を挙げている男が居た。それが、後に駱賓王と運命を共にすることとなる李敬業であった。
 暴動が勃発した地域に、鎮圧を命じられて派遣された李敬業は、連れてきた軍隊をその場に残してたった一人で敵の本拠地に乗り込んだ。
 その場所には一人の留守番を除いて誰も居なかった。留守番は鍬を持っている貧乏そうな農民だった。
「他の奴らはどこへ行った?」
「あ、あんたが一人で突っ込んで来るから、皆、驚いて、川を渡って向こう岸へ逃げた」
 李敬業は小舟の漕ぎ手二人だけを連れて、川を渡って賊の隠れ家へ乗り込んだ。
 反乱軍はほとんどが貧乏そうな農民だった。酷吏の苛斂誅求に耐えかねて反乱を起こしたらしい。
「おい、お前、李勣将軍の孫というのは本当か」
「本当だ」
 李勣とは、唐建国の功労者として名高い名将だ。相手が怯んだところへ、李敬業は更に一歩踏み込んだ。
「お前たち、役人の横暴に耐えかねての暴動なのだろう。ならば首謀者を杖打ちに処する以外は無罪放免とする。さっさと田畑に帰れ」
 建国元勲の孫という名に恥じない李敬業の大胆不敵な行動で、暴動事件は解決したという。
 その話を聞いた駱賓王は、李敬業の男気に惚れ込んだ。
「李敬業か。弱きを助け強気を挫く男らしい奴だ。会ってみたいものだ」

【承】

 後年、駱賓王は念願を果たして李敬業と会うことができた。李敬業の弟の李敬猷も含めて三人で、あまり高価ではない酒を囲んだ。
 兄の李敬業は大柄で髭が濃く、弟の李敬猷は長身ではあるが細身で、面長の顔で眼光が鋭かった。
「俺も弟も、あの有名な『帝京篇』の作者と会ってみたかったのだよ」
「なんと、私の詩を知ってくれていたとは。光栄です」
 話を聞いてみると、兄の李敬業は駱賓王より四歳年長で、弟の李敬猷は駱賓王と同い年だった。兄弟と駱賓王は生まれ育った地元も近い地域であることも分かり、益々共感を持てた。
 酒の回った赤ら顔で、李敬業は武勇伝を語った。
「俺は子どもの頃から馬に乗るのも弓矢を引くのも大人以上に得意だった。ある時、祖父の李勣が、変な占いの結果を信じてしまって、俺が家系を滅ぼす悪い相を持っている、と思い込み、俺を殺してしまおうとしたんだ。祖父と一緒に狩りに行った時、俺が獣を追って林に入ると、祖父は風上から火をつけた。逃げ場が無いと悟った俺は、咄嗟に剣で馬の腹を捌き内臓を引き出し、その中に隠れて猛火が過ぎるのを待って難を回避した。火が去った後、全身馬の血塗れでその場に立っている俺を見て、祖父は自分以上の英傑だと感心したのさ」
 あまりにも現実離れした話の内容なので、さすがに駱賓王は俄には信じられなかった。
「今の、さすがに作り話なんですよね?」
 兄本人にではなく、弟の李敬猷に聞いてみた。弟は顔も赤くなっておらず、それほど酔っていない様子だったので、冷静に真実を教えてくれるだろうと思ったのだ。
「僕は、その場に居たわけじゃないですから。今の話を信じる信じないは本人次第だと思います」
 弟の李敬猷も、兄の荒唐無稽な逸話を否定しないのだ。
 駱賓王としては、さすがに頭から信じるということはなかった。だが、李敬業という豪傑ならば、こういう逸話があってもおかしくないかもしれない、とは思った。
 三人で飲んでいる、あまり高価ではない酒が、とても旨く感じた。
 しかし、三人を待ち受ける前途は難しいものだった。
 李敬業が一躍名を為した反乱騒動も、元を質せば酷吏の跳梁跋扈が原因だった。皇帝よりも皇后が権力を強めて行く中で、皇帝が崩御して息子が四代目の皇帝となった。
 だがその後、紆余曲折あって皇帝は廃位され、先代皇帝の皇后が皇帝に即位した。
 後世、武則天と呼ばれる、中国史上初の女帝の誕生であった。光宅元年、西暦684年のことだった。

【転】

 武則天は、諌言をするような面倒臭い官吏は次々に左遷した。李敬業も左遷の憂き目に遭い、武政権に不満を抱きながら揚州で雌伏していた。弟は免官された。
「善政ならば、己の冷遇は我慢しよう。だけど現実はどうだ。佞臣ばかりが蔓延って、農民のような弱者が苦しむばかりではないか。武太后を打倒し、取り巻きの佞臣共も一掃し、廃位された皇帝陛下に復位していただかなければならぬ。そう思わぬか」
「兄貴、じゃあ、どうしますか」
「反乱を起こす」
 かつて反乱の鎮圧で名声を高めた男が、今度は自ら反乱を起こすと宣言した。
「兄貴、僕たちは祖父以来の朝廷の恩義に報いるべく、今こそ忠義を示す時です。でも軽挙はいけません。反乱を起こすならば、確実に勝つことと、無辜の者たちを不要に傷つけることは避けるべきです。でなければ大義を叫ぶことはできません」
「それは理解できるが、どうすればいいだろう」
「それなら私に考えがあります」
 李兄弟が話し合っている場に加わったのは、同様に左遷された駱賓王と、三人の共通の友人である唐之奇だった。
「我々は義を唱えてはいますが、あくまでも少数です。それに対し相手は皇帝を僭称する太后。権力を握っているので大勢の手兵を持っています。まともに戦っては勝てませんし、双方が衝突することで傷つくのは前線の一兵卒たちです。勿論最後は決戦として戦闘も不可欠でしょうが、その前の準備段階が必要だと思います」
 駱賓王の言葉に対し、李兄弟と唐之奇が揃って次の言葉を促した。
「仲間を増やすのです。我々が一万の軍を用意したとしても、向こうが十万の軍で迎え撃てば、我々が負けます。だけど敵の十万の内、七万をこちら側に寝返らせることができれば、我々八万に対して敵が三万。これなら勝てます。理想を言えば、敵の十万の兵を全員こちらの仲間にできれば、皇帝を僭称している太后を裸にできます」
 聞いて関心したのは李敬業、渋い表情になったのは李敬猷、質問を発したのが唐之奇だった。
「それで具体策として、どうやって敵をこちらに寝返らせるというのでしょうか?」
「こういう時こそ詩文の力です。私が、武太后を打倒し不軌を正し、皇帝陛下に復位していただくため、檄文を書きましょう」
「詩人として名高いあなたが檄文を書いてくれたら心強い」
 李敬業が、素面ながらも興奮で顔を赤らめた。
 駱賓王はすぐに筆を執り、流れるように文章を書いた。

 偽臨朝武氏者 性非和順 地實寒微

 書きあがった六百字ほどの文章を読み、李敬業も李敬猷も、そして唐之奇も感動で涙を流した。

【結】

 駱賓王の書いた檄文を書き写し人々の間に広め、仲間を増やすことはそれなりに成功した。地方官の軍を策略で奪って、十万の軍勢を集めることができた。だが、洛陽の都の武太后は怖れなかった。
「李敬業は李勣将軍の孫で、個人としての武勇ならば祖父以上のようじゃ。じゃが将軍として大軍を率いることに関しては経験不足で祖父には全く及ばぬ。恐れる必要は無いぞよ。それと、出回っている檄文とやらも見せてみよ」
 結果として、反乱は失敗した。かつての占いが的中した。
 武則天は三十万の討伐軍を出した。駱賓王の名文も、彼我の差を逆転する程までには、人々に行き渡って読まれることは無く、また読まれたとしても優勢な側を裏切ってまで義に殉じようとする域まで読者の心を掴むことができなかった。
 李敬業に率いられた反乱軍は奮闘したものの、一カ月程で敗勢が確定した。反乱軍を破った将軍のうちの一人は、裴行倹によって引き立てられた百済の将軍黒歯常之であった。李敬業、李敬猷、唐之奇、駱賓王といった主要な反乱軍の仲間たちは、部下の裏切りに遭い船上で殺されたとされる。
 だが実は、秘かに逃げ延びた駱賓王は、その後「楼には観る滄海の日 門には聴く浙江の潮」の句で知られる杭州の名刹霊隠寺に僧侶として隠れ住んで天寿を全うした。という伝説もあり、その最期については明白ではない。
 それでも、残した『易水送別』『温城に宿して軍営を望む』等数々の詩や文章は駱賓王の名を後世に伝えることとなった。
 李敬業の乱が起こったばかりの頃、武則天も檄文を入手していて、読んでいた。

 蛾眉不肯讓人 掩袖工讒 狐媚偏能惑主

「なんじゃこの陳腐な文章は。朕が人を惑わしているか。誰でも考え付く表現ではないか。笑わせてくれる」
 更に読み進み、終盤に出てきた一節に、女帝は目を留めた。

 一抔之土未乾 六尺之孤何託

 気を取り直して、最後まで読んだ。

 請看今日之域中 竟是誰家之天下

「なんとこれは、千古の名文ではないか。書いたのは駱賓王だとかいったな。そのような人物を不遇のまま野に放置しておいたのは我が朝廷の大いなる損失じゃ」
 その後、武則天は、散佚していた駱賓王の詩や文章などを蒐集して纏めさせた。
 皮肉なことに、駱賓王にとっては仲間ではなく不倶戴天の敵であった武則天こそが、駱賓王の文章の素晴らしさを最も理解する読者であった。
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