●4、アイラブユー

文字数 5,721文字

 そして、その時は訪れた。

 脇座からくるみが現れると、時が止まったかのように会場が静かになる。元から静かではあったのだが、静寂に静寂を塗り重ねたような、鼓動ひとつすら響かない、そんな静けさだった。
 舞台の中心にくるみがやってくる。
 いや、もう彼女はくるみではない。いま、この時、舞台上で歌っている彼女は――歌姫、ルミ。
 ルミはこの劇場の歌姫だ。彼女の歌声は、この街の住人はもちろんのこと、街の外からはるばるルミの歌声を聴きにやってきた人々をも魅了してやまない。
 ノエルは、腰を深く椅子に埋める。

 劇場の座席は、もうとっくに満席だ。たくさんの観客の視線を、ただひとりの少女が真摯に受け止めている。
 彼女の視線が、一瞬ノエルを捉えた。
 特等席――彼女から一番近い席に座っているノエルは、ただ顔を上げる。
 視線はすぐに逸らされてしまった。
 きっと、彼女はノエルがきちんと座席に腰かけているかを確かめるためだけに、ノエルを見たのだろう。すべての視線を独り占めにする歌姫がひとりの観客を特別扱いしてはいけない。
 ノエルは笑みを浮かべた。まるで、これからの歌を心待ちにしていたかのように。
 どうして今日になって、いきなりこんな席で歌を聴かなければいけなくなったのかはわからないが、ノエルはいつも通り心を無にして苦痛に耐えるだけだ。


 マイクスタンドの前に立ち、白い手をマイクに置く。
 そして――ピアノの旋律と共に、ルミは歌いはじめた。

 声が、静かにノエルを傷つける。

 それを知らない彼女は、舞台で愛おしそうな表情で観客を見渡しながら歌っている。
 観客はすっかり陶酔しており、涙を流している者さえいる始末だ。

 ノエルは、耳を塞ぎたい衝動を押さえ、静かにため息をついた。

 そういえば今日はクリスマスだ。
 彼女と出会って十年目のクリスマス。
 彼女のクリスマスソングは、どこか切なさを含んでいる。

「…………?」

 ――なんだか嫌な匂いがした。

 ノエルは背筋を伸ばして、傍から見てあまりわからない程度に前屈みになる。

 曲はちょうど一曲目が終わり、二曲目が始まるところだった。
 今回の舞台はクリスマスだということもあり、ルミは全部で十曲もの曲を披露することになっている。
 並みの歌手なら喉が枯れてしまうかもしれないが、彼女は異能により歌姫の力を得ているため枯れる心配はない。彼女は、その気になれば何百曲でも歌えるだろう。それほど、異能の力は強大だ。

 一曲目の余韻に浸る間もなく開始された、二曲目。
 一人の観客が立ち上がった。
 そしてもう一人。
 陶酔している観客は気づくことなく、彼女の歌声が苦手なノエルだけが気づいた。
 彼女はまだ気づいていない。

 ――ほんとうに、嫌な匂いだ。

 ノエルは、まず状況を判断するべく、さりげなく視線を彷徨わせる。
 立っている人数は、いまは五人。微かに香る火薬の匂いは、まだまだ漂ってくる。五人以外にも、いるのだろう。
 ――ったく、警備員はなにをしているのだろうか。
 大事な舞台だというのに、持ち物検査はもとより身体検査を怠ったというのか。それとも、警備員を買収したのか? いや、元から警備員はこの一味(、、)の仲間なのかもしれない。

 こういってはなんだが、くるみは世界的有名な歌姫ではない。
 この街や、隣街などでは有名かもしれないが、世界的に有名になるのに彼女は実力を持ってはいなかった。【歌姫】の能力だけじゃ、勝ち上がって行ける世の中ではない。
 それでもその歌声の力は本物で、泣いたり叫んだり怒ったりしていた人々を、幸せにすることができる。一種の麻薬のようなものだ。それを求めて、遠くの街から彼女の歌声を聴きに来る人もいるが、まだまだ少ない。

 〝異能者〟は、〝異能者〟を知覚することができる。
 〝異端者〟であるノエルはよく知らないが、どうやらそれは〝使い魔〟によるものらしい。同族は惹かれあうとか、そういうものだろう。

 〝異能者〟は、〝異端者〟の気配を感じ取れない
 それは〝使い魔〟と契約していないからだ。〝異端者〟は、〝異能者〟からすると区別することは可能だが、脅威がないと思われている存在だった。
 なにせ〝異端者〟は能力を持たない、弱い人間なのだ。蔑みの対象で、憐れんで助けてやったりしないといけない対象で――能力を持つ〝異能者〟からすると、能力を持たざるただの人でしかない。

 だけど、そのただの人が、時に脅威になるということをいったいどれだけの人が知っているのだろうか。

 〝異端者〟のノエルからすると、〝異端者〟の区別どころか、誰が〝異能者〟かなんてわからない。
 火薬の匂いをまとわりつかせている、〝異能者〟を憎み、〝異能者〟の殲滅をもくろんでいるあの組織以外は。
 《現実主義(リアリズム)
 人間本来が持つ力のみで、〝異能者〟を殺そうとしている頭のおかしな集団だ。実際にこれまで数人の〝異能者〟が彼らに殺されているらしい。
 彼らが、なにを基準にして〝異能者〟を殺しているのかはわからないが。
 まさかほとんど歌うこと以外に無害な彼女を、殺そうとするなんて――。

 ノエルは、腰に手を置いた。
 同時に、撃鉄を起こす音がした。
 暫くして――銃声。

 ノエルの二つ隣の席、恐らく〝異端者〟である彼の銃口は一直線にくるみに向いており、銃弾を放った銃口からは、煙が出ていた。
 銃声は一発だけではない。続けて、二、三、四、数えるのも馬鹿らしくなるその音に、ノエルは奥歯を食いしばる。

 ――まだだ。
 衝動だけで動くのは、早い。

 恐らく、彼らは〝異端者〟で、恐らく、《現実主義(リアリズム)の人間だろう。
 異能を持たないものが相手であれば、彼女は死にはしない。

 撃鉄の音で状況を判断したのだろう。
 静かで優しかった歌声は、金切り声の寸前まで響き渡り、超音波のようにあたりの空気を震わせた。
 銃弾は彼女に届くことなく、勢いが殺されて、周りに散らばり、落ちる。

「うっそだろ」

 二つ隣の男が呟く。
 ノエルは、まだ大丈夫だと心を落ち着かせた。

(とりあえず、ひとり殺すか)

 彼女の歌声の変化に、何事かと観客が辺りを見渡した。
 悲鳴が連続で響き渡り、一人、また一人と、出入口に観客が殺到する。

 彼女はまだ歌っている。
 銃口は火花を散らしている。
 銃弾は、届かない。

 ピアノを弾いていた女性が悲鳴を上げで舞台から姿を消しても、彼女はまだ歌っている。
 それが自分にできることなのだと、どこか怒りを露わにした彼女は、異端者(かんきゃく)に、自分の能力を奮う。

 マイクを通した声は、会場全体を震撼させていた。
 まるで、戦況を活性させる麻薬のようだ。
 痛みを伴うそれを聴きながら、歯を食いしばり、ノエルは立ち上がると、二つ隣にいる男に拳銃を向けて、一発。
 耳たぶの間に銃弾(それ)は入り込み、彼は命を絶った。

 観客の少なくなった会場の中、〝異端者〟の視線がノエルに移る。
 それを見逃す彼女ではなかった。
 いったん歌うのを止めたくるみが、舞台から飛び降りてくる。
 可憐な白いマーメイドドレスが台無しだ。埃がついてしまう。

「ノエル」

 くるみがノエルの拳銃を握っていない方の手を握る。
 ふと周囲を見わたすと、グレーに輝く瞳が睨みつけるかのようにノエルに向いていた。
 それを、ノエルは睨み返して、笑ってやる。
 拳銃をつかう〝異端者〟は、お前らだけじゃねーんだよ! と、口に出したいぐらいだ。

 銃口が向くが、もう遅い。
 彼女は走りながらでも歌っている。
 拳銃をしまい、ノエルは彼女をエスコートする騎士のように手を引いて走り出した。
 後ろから銃弾が追いかけてくるが、それに意味はない。
 〝異能者〟は、この会場には沢山いるのだ。もうすでに、勇猛な観客の〝異能者〟が〝異端者〟を相手に戦いを始めていた。


 会場の外に出ると、ノエルたちはたむろしている人混みから離れて、路地裏に入って行く。
 銃弾は追いかけてきていないが念のためだ。
 十五分ほど走り続けて、もうそろそろ息が苦しくなってきたノエルは、くるみの手を離すと地面に大の字に倒れ込んだ。
 歌いながら走っていたはずなのに、意外とスタミナのあるくるみは、マーメイドドレスの裾を汚さないように捲ると、ノエルの顔を覗きこんでくる。

「だいじょうぶ?」
「だぃ……い、じ、じょじょう……ッ、っぶふ」
「全然だいじょうぶそうには見えないわね」

 そんなことないはずだが、うまく喋れない。
 まだあと五分ぐらいなら走れたはずなのだが。
 歌声を自分の力に変えることのできるくるみに比べると、ノエルのスタミナはいくらあっても足りないが。

「癒しの歌、歌ってあげようか?」

 首を振る。
 癒しの歌が、誰にでも癒しになるとは限らない。
 人の感性はそれぞれなのだ。

「そう。でも、私は歌いたい。あなたのためなら、いくらでも」
「……」

 ああ、どうして彼女はそこまで歌声に固執するのか。
 ノエルは反応しなかった。
 苦しくて笑えない、首も振れない、声を出して拒否できない。
 そんなニセモノの歌声なんて聴きたくない。
 そう伝えたら済む話なのに。

「今日はクリスマスだよね」

 頷く。

「あなたと出逢って、十年め」

 頷く。

「あなたの誕生日」

 間違っていないので頷く。

「私があなたに出逢った日」

 ついでに、ノエルがくるみに出逢った日でもある。頷く。

「そして、もうひとつ」

 他になにがあったのだろうか、そう考えるより言葉を聞いた方が早いと思ったので、ノエルは微動だにしなかった。
 くるみがノエルの掌を、自分の手で包み込む。
 温もりはあたたかく、それは昔と変わらない。

「今日からは、もうひとつ特別な日となるの」

 嫌な予感がした。
 気のせいだ。気にしない。

「私はね」

 勿体ぶるように言葉を止めると、彼女は幸せそうに微笑んだ。

「あなたのことが好き。お付き合いしましょう」


 なんとなく知っていたといえば、それは自惚れになるのだろうか。
 彼女が最近、ノエルの接触を断っていたのも、なんとなく理由は察していた。
 彼女は乙女心を、やっと自覚してきたのだろう。
 長い間、傍にいる青年を意識しはじめたのだろう。
 そして、気づいた。
 ずっと一緒にいた相手に対する、自分の気持ちに。
 ノエルに対する、好きという気持ちが、実はライクではないということに。
 アイラブユーなんだって、ことに。
 なんて、甘ったるい。
 ノエルは、腕で目を覆った。

 そんな声で、愛の告白をされても嬉しくなんてない。
 それは残酷すぎる仕打ちだ。

 それに、最初にお嬢様と呼びなさいと言ったのは彼女だ。
 自分はその手を取り、助けてくれた彼女を護ると心に誓った。
 
 ずっと一緒に暮らしてきた少女――異性に、主従関係以外の好意を抱いたことがない、なんてそんなことあるわけないだろ。たまに考えたことはあった。ていうかしょっちゅう。

 だけど三年前のあの日。
 彼女が自分の声を失い、ニセモノの歌声を手に入れてから、ノエルはくるみのことをただのお嬢様としてこれまで通り接していくことに決めたのだ
 そこに、アイラブユーなんて、微塵も存在していない。

 塞ぐことのできない耳に、吐息がかかる。
 愛の言葉を囁くその言葉は、キュゥとノエルの心を抓んでくる。

「好きだよ、ノエル」
『好きだよ、ノエル』

 幻聴の声が二重に聴こえてきた。
 これは走馬燈だろうか。
 俺は、もしかして彼女の声で殺されるのだろうか――。なるほど、この声は苦手だが、彼女のもともとの声の幻聴に殺されるのは、悪くはない。ノエルは、手をどけた。
 そこには彼女の顔がある。
 幻聴は聴こえない。

「……」
「どうしたの?」

 反応のないノエルを不審に思い、くるみがノエルの額に手を置く。残念だが熱はない。

「好きだよ、ノエル」

 どこか縋りつくようなその声は、やはり違う。
 幻聴は聴こえない。
 失われた声は、もう、戻ってこない。

「好きなんだよ、ノエル」

 僅かに嗚咽の交じったくるみの言葉に、反応のできないノエル。

「ノエルは、私のこと嫌いなの?」

 それは、ない。だろう。
 苦手なのは、その声だけだ。
 愛を囁くその声は、ニセモノだ。
 歌声と同様、もう彼女ではない。
 いくら愛を囁かれようと、泣かれようと、怒られようと、歌われようとも、それに心を動かされることはない。

 まるで無だ。
 いままで意識して保ってきた笑みや彼女を敬う態度は、彼女のアイラブユーにより、仮面を剥がされてしまった。

 もう、このままでいいかもしれない。
 いままでノエルはたくさん傷ついてきた。
 彼女は、いまこのひと時だけ傷つくことになる。
 それで、良いだろう。
 これ以上、脱いだ仮面で顔を覆うのはやめよう。

 彼女の温もりはあたたかくて、彼女の声に寒気がする。

 これ以上、二人とも傷つかないようにするには、この場で別れるのが正解だろう。

 ノエルは体を起こすと、立ち上がった。
 彼女はまるで置物のように、その場にうずくまったまま顔だけを上げる。
 温もりは離れた。

 まだクリスマスは終わらないけれど、いまから彼女の命令に背くことにしよう。

「さて、お嬢様。いままで大変お世話になりました。俺は、今日を持ちまして、あなたのマネージャーを辞めさせていただきます。お嬢様、どうか、お幸せに」

 え、と口が動く。
 ノエルは背を向けた。そのまま歩きだす。
 背後からノエルを呼ぶ声が聞こえてくるが、振り返ることはなかった。
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