ホットケーキにはメープルシロップ

文字数 9,091文字

 朗らかな日差しが窓から差し込み、ベットの上で気持ちよく寝いている少年の顔を明るく照らした。いつもは太陽の光が少年の部屋に手を差し伸べるには母親の助けを借りる必要があったがこの日の朝だけは特別だった。昨夜、少年がベットに入る前にはもうその準備は万事整っていたことになる。雨戸もカーテンも前もって開けられレッドカーペットが敷かれていた。
 少年はパッと目を覚ましベットの中で体をよじって「んんん!」と声を上げた。そして素早く布団から抜け出ると昨日の夜に準備していた黄色のニットのセーターと裏起毛のジーンズに着替えて階段を転がるようにドタバタと駆け下りてリビングのドアを勢いよく開けた。
「今日はなんの日?!」と少年はリビングに入るなりこの日が待ちきれなかったと言わんばかりに叫んだ。
「こら、ドアをそんなに乱暴に開けないでっていつも言ってるでしょう。それにまずは顔を洗ってきなさい。朝起きたら顔を洗う。話はそれから」とキッチンに立っている母親が言った。しかしその声からは呆れたような、イラついたようなそんな感情は見受けられなかった。むしろ喜んでいるふうだった。母親は少年がいってしまうと口角を三日月のように上げて「まったくもう、忙しないんだから」と呟いた。フライパンの上ではホットケーキがポツポツと表面に穴を開き始めていた。母親はフライ返しを手の中でクルクルと回しながら少年が開けっぱなしにしていったリビングのドアを睨んだ。そして一瞬だけホットケーキに目を落とし頷いてからドアを閉めにいった。
 少年は洗面台の前でピョンピョンとカエルのように飛び跳ねていた。蛇口の取手は赤い印のついた方に捻りあげられている。しかし蛇口からお湯が出るまではまだしばらくかかりそうだ。少年は鏡に写った自分と競い合うように徐々に高くジャンプをした。膝のバネを使い、つま先でしっかりと地面を蹴った。少年の艶やかな髪が鏡の中で八岐大蛇のように暴れていた。蛇口の口から湯気が立ち昇ると少年は「僕の勝ち」と言ってジャンプをやめ素早く袖をまくった。そして熱々のお湯を手で掬って浴びるように顔にかけた。辺りに飛び散ることなんてこれっポチも気にならないようだ。少年は三回それを繰り返し、当たり一帯を台風が過ぎ去った後のように水浸しにしてタオルで顔を拭った。そして急ぐようにリビングに戻った。
「今日はなんの日?!」と少年はもう一度叫んだ。
 母親は少年の髪の毛の先が少し濡れているのを目にとめてからにっこりと微笑んだ。「おはよう、マサキ。今日はずいぶん起きるのが早いのね。いつもはお寝坊さんなのに」
「おはよう、ママ。だって今日は特別な日だもの。それで今日はなんの日か答えてよ」と少年は地団駄を踏むように言ってキッチンに駆け寄った。そしてフライパンの上で綺麗な焼き色がついたホットケーキを見て声を上げた。「ホットケーキだ。僕の大好物。だからこの部屋からは甘い匂いがしたんだね。僕はねママ、昨日の夜寝る前にもし明日の朝ホットケーキが朝ご飯だったらどんなに素敵だろうって思ったんだ。こんなに嬉しいことってないよ」と少年は母親の顔を覗き込んで言った。
「まずはドアを閉めてきて。せっかくの暖かい空気が逃げちゃう」
 少年は返事をするのももどかしく駆けていってドアを閉めた。もちろん少年がドアを閉める前にキッチンから「優しくね」と年長者からのアドバイスが飛んできたわけだが。少年はドアを閉めるなりキッチンに素早く戻り母親の服の裾を引っ張った。
「やめて、伸びちゃうじゃない」と母親は少年の手を優しく振り解いた。
「今日はなんの日?!」と少年はその日三度目の質問を母親にぶつけた。
 母親はため息をついた。それは愛くるしい息子を抱きしめたいのだが目の前のホットケーキがしっかりと焼き上がるまでは目を離せないというニュアンスが含まれていた。それでも母親は少年にホットケーキよりも柔らかい微笑みを投げかけて「マサキの誕生日」と言った。おめでとうという祝福も忘れずに。
 少年は待ち望んでいた答えを聞けた喜びで爆竹のように弾けんばかりだった。花が咲くように少年の顔は笑顔になった。
「そうだよ。今日は僕の誕生日なんだ。一年に一度しかない僕の誕生日。どんなことが起こると思う?」と少年は興奮して早口で言った。
「まあ落ち着いて。とっても素敵な日になることは間違い無いわね」と母親はフライパンのホットケーキを皿に移した。「マサキ、これテーブルまで持っていってくれない?お願い」
 少年はうなずいて皿を大事そうに両手でしっかりと持ってテーブルまで運んだ。「今日は忙しい日になるぞ」と呟きながら。
「ねえママ食べていい?」
「まだだめ」
「なんで!あったかいホットケーキが冷めちゃうよ。僕冷めたホットケーキなんて嫌だ。マーガリンだって解けないホットケーキは嫌だよ」と少年は眉を八の字にした。
「今からマサキの分は焼くから大丈夫よ。それにそんなにすぐには冷めないわよ。まったく忙しないんだから。それよりマサキ、パパを起こしてきてくれる?」
「わかった!」と少年は叫ぶなりリビングのドアを勢いよく開けて父親の寝室まで駆けていった。
 父親の部屋は階段を登って薄暗い廊下の突き当たりにある。少年がその部屋を訪れることは年に数回といったところだろう。なぜならその部屋には少年の気を引くものなんて一つも置いていないからだ。バトミントンのラケットもテニスボールも昆虫図鑑もエルマーとりゅうも仮面ライダーの変身ベルトもない。シングルのベットの他には本棚と読書机が置いてあるだけだ。少年の背丈よりも高い本棚には種々雑多な本がティンカーベルの羽だって挟み込めないほど所狭しと並べられている。もう読んでしまった本、これから読まれる本、買ったまま忘れられている本、日焼けし変色してしまった本、何度も手に取られボロボロになってしまった本、本、本。その部屋にあるのは本ばかりだ。少年はドアを静かに開けて父親が寝ているベットに近づいた。部屋の電気をつける必要はなかった。カーテンは閉められているが遮光性はそんなに高く無いらしい。父親は少年が部屋に入ってきたことなど気づかずにイビキをかいて眠っている。少年は父親の顔を覗き込んで「なんでぼくとこんなに似ていないんだろう?」と不思議に思った。
 少年はゆっくりと息を吸い込んでから布団の中で眠っている父親の体を揺すった。
「パパ朝だよ、起きて」と。少年は大きな声は出さなかった。父親の体を揺らすとベットが大きな音で軋んだ。木でできた帆船が大きな風で揺られるときのように。
 少年に揺すられると父親は目を擦りながら大きなあくびをした。少年の目にはラ・フランスのように大きな喉ちんこが飛び込んできた。
「どうしたんだ?」と父親はしゃがれた声で言った。喉が乾燥して上手く声が出せないようだった。
「ホットケーキ」と少年はそれだけ言うと父親を残して部屋を出た。
 少年がリビングに戻るとテーブルの上にはもう一つホットケーキが乗った皿が置かれていた。
「今マサキの分を焼いているからね。パパは起きた?」と母親は訊いた。
「起きたよ」と少年は言って母親の真横に立って焼いている姿を羨望の眼差しで眺めた。
「ひっくり返してみる?」
「うん!」
 母親は少年にフライ返しを渡して少年のために小さな台を持ってきてあげた。少年はその台に乗ってフライパンの上から覗き込んだ。少年の顔よりも大きなホットケーキがグツグツとマグマのように表面にポツポツと穴を開けていた。
「二つ使ったほうがやりやすいかも」と母親は少年にもう一つフライ返しを渡した。
 少年はホットケーキの両側からフライ返しを差し込んだ。少し緊張しているのか手が震えている。それに気づいた母親はそっと少年の手に自分の手を重ねた。
「大丈夫だよ。僕一人でできるから」と少年は振り返ることなく言った。少年の目にはホットケーキしか写っていない。
 母親はにっこりと微笑み手を離した。少年は大きく息を吸い込んでから器用に手首のスナップを効かせてホットケーキを裏返した。パンッと綺麗な音が鳴った。
「ほらね!」と振り返って満足そうに少年は笑った。
 少年が自分でひっくり返したホットケーキをテーブルに運んでいるときにリビングのドアが開いて父親が入ってきた。おはようとサハラ砂漠よりも乾燥しているんじゃないかと思える喉から一つ、それに対して瑞々しいおはようが二つ反応した。
 少年はマーガリンをたっぷりと塗った後に(幸福なことにマーガリンはホットケーキの上でしっかりと溶けた)テーブルの上をざっと見渡した。そこには少年が求めていたものは見つからなかったようだ。
「ママ、メープルシロップは?」
「蜂蜜じゃダメ?」
 少年は勢いよく首を振った。「メープルシロップじゃなきゃダメなんだ。ホットケーキはメープルシロップって決まっているんだ」
「悪いんだけど」と母親は言って蜂蜜を少年に差し出した。「メープルシロップはないの。これで我慢してくれる?」
「嫌だよ。だって今日は…」と少年が言いかけたところで父親が口を挟んだ。
「我慢しなさい。ないものはないんだから。これから買ってくるわけにもいかんだろう。それに蜂蜜もメープルシロップも変わらんよ」
 少年は諦めて蜂蜜をたっぷりとかけてナイフで綺麗に一口サイズに切ってからフォークで口に運んだ。少年はやっぱりメープルシロップじゃなきゃダメなんだ、蜂蜜じゃダメなんだ、と心の中で呟いたが口に出すのは控えた。
 少年はホットケーキを食べながら目の前に座っている両親の顔を見た。母親はとても綺麗だ。まだ二十代と言っても全然通じるだろう。肌にも張りがあるしシワだってシミだって見当たらない。まるで剥きたての茹で卵のようにツルツルとしている。髪だって星屑が降りかかっているようにキラキラと輝いている。それに対して父親はあまり寝ていないのか目の下にクマができていた。鋭利な刃物で皮膚を切り取ったようなそのクマは父親の前世の業とも言わんばかりだった。顔も洗っていないのか目やにがついている。そのうえ三日間剃っていない髭が陰鬱な影を落とすように顔を黒く染めていた。髪の毛には白いものが混じり渦を巻いている。少年は二人の顔を見比べてこの二人の十年前を想像した。母親の方はうまくいった。でも父親の十年前がうまく想像できなかった。
「僕これから約束があるんだ。だから出かけなくちゃ」と少年はホットケーキを胃の中に全部詰め込むと言った。
「でも今日は買い物に行くって約束でしょう?誕生日プレゼントを買うために」と母親が驚いたように訊いた。
「わかってるよ、わかってる。だからお昼までには帰ってくるよ」と少年は言って素早くお皿を片した。
「わかったわ。気をつけて行ってくるのよ。ちゃんと左右を確認すること。飛び出さないこと。知らない人にはついていかないこと。わかった?」と何万回聞いたかわからない母親の言葉を背に少年はリビングを飛び出した。
 少年は自分の部屋に戻るとマフラーを首に巻いた。真っ白いマフラーだ。それは控えめに言ってプーさんに赤い服が似合うように少年に似合った。そしてポケットの中にあらゆるものを詰め込み(お気に入りのカード、キャラメル、フィリッスガム、酒瓶の蓋、輪ゴム、ペーパークリップ、道端で拾ったコインメダル、ゴキブリのおもちゃ)手袋をつけて真っ赤な靴下を履いた。
 玄関で靴を履いているときに母親がリビングから出てきて少年を後ろから抱きしめた。それはホットケーキを焼いているときに少年を抱きしめられなかったことと、蜂蜜で我慢させてしまったことに対しての悔恨の念と、少年の成長に対しての喜びと少しの寂しさからだった。
「大丈夫だよ、ママ」と少年は言った。「気をつけるから。帰ってきたら買い物に行くんだもん」と少年は言って外に出た。
 歩いている少年の心の中からはもうメープルシロップがなかった悲しみは朝露の如くすっかり消えてしまっていた。それは母親から抱きしめられた嬉しさとこれから会う友人に対しての感情の吐露によるものだった。少年はウキウキした気持ちで急ぎたくなる足を押さえながら歩いた。約束の時間まではまだ余裕があったのだ。少年には飛び込んでくる景色がどれも昨日とはうって変わっているように思えた。まるで今さっきペンキ屋が街にある全てのものをペンキで塗り直したようにどれもこれも輝いて見えた。アスファルトも家も電信柱も木々も飛んでいる鳥も。家の前をホウキで掃いているおじいさんだって。少年は「なんて素敵なんだろう」と呟いた。「それにしても僕は何が欲しかったんだっけ?」
 少年が約束の公園に着いたとき公園の真ん中のスペースでは少年と同年代の子供たちがサッカーボールを蹴って遊んでいた。滑り台の近くでは女の子がコソコソとなにやら話してはキャッキャと笑い合っていた。砂場では少年よりも小さな子たちがささやかな母親からの離脱のもとスコップで穴を掘っていた。その近くのベンチにはその子供たちの母親らしき歳若い人たちが旦那の給料の話とか、どうやったら子供が句読点の置き方とか英単語の発音に興味を持ってくれるかとか、結局若く綺麗でいるためにはなにもしないのが一番なのよというようなことについて話し合っていた。その向かい側のベンチでは一人の青年が足を組んで走り回っている子供達を眺めていた。その目は俺にもそんな時代があったなというような過ぎ去ってしまった過去を懐かしむような目つきではなかった。どちらかというと父親のような、誰かが転んで膝をすりむかないか心配をしているふうだった。少年はその青年を目に止めると笑顔で駆け寄った。
「おはよう!待たせちゃったかな?」
「おはよう。素敵な日だね。俺もさっき来たところだから全然待ってない。なにも気にすることなんてない」と青年は微笑み少年をベンチに座るように促した。でも少年はベンチに座ろうとはせずに興奮した様子で朝母親に言った言葉をまた繰り返した。
「今日は何の日だと思う?!」
 青年は少し考えるそぶりをするように拳を顎の下につけて唸った。青年が考えるそぶりをするときそれはほとんどの場合見せかけだけのものだった。そして少年にはこのそぶりが見せかけだけのものだとわかっていたし、わかった上で青年のこのそぶりが心底好きだった。少年は目を輝かせて青年がなにか言うのを待った。
「えーと今日はたしか冬眠しているクマさんたちのためにほら穴まで行ってささやかな木の実とお祈りを捧げる日だったっけ?」
「違うよ、全然違うったら!」と少年は青年のユーモラスな提案に心惹かれそうになったがライン寸前のところで堪えて言った。 
 青年はにっこりと微笑み少年の髪をくしゃくしゃと撫でた。「冗談だ。君の誕生日だろう?おめでとう」
 僕はその言葉が欲しかったんだと言わんばかりに少年は喜び飛び跳ねた。
「ささやかだけど君にプレゼントがある」と青年は言ってベンチと自分の腰の間の静謐から緑色のニット帽を取り出し少年に被せた。「やっぱり、よく似合っている。ピーターパンみたいだ」
 少年はその場でくるくると歩き回り、寒さで赤い頬を余計に赤く染め、ニット帽を外したり被ったりを三回ほど繰り返してから「ありがとう!とってもうれしい」と笑った。そしてポケットからフィリックスガムを取り出して青年に渡した。
「これあげる。お礼に」
「懐かしいな、このガム。子供の頃俺もよくこのガムを食べたんだ。十円を握り締めて近くの駄菓子屋に行ってね。駄菓子屋をやっていたのが腰の曲がったおばあちゃんで、当たりが出ても何だか申し訳なくて交換することができなかったっけ」と青年は言った。「食べてもいいかな?」
「もちろん!」
 青年は包装紙を破かないように丁寧に外した。「そうそう、あみだくじがついてるんだ。本当に懐かしいな」と言い銀紙に移った。「今日は君の誕生日だ。これは十中八九当たっているだろうね。もしハズレなんて文字が表れたら神様に中指を立ててやる」と青年は少年に見えないように手で隠した。「どっちだと思う?」
「あたり!」
「コングラッチュレーションズ。君の誕生日にふさわしいね」と青年はあたりの紙を少年に渡した。「買ったところで交換してもらうんだよ」
 少年があたりの紙を受け取ったときにサッカーボールがコロコロと転がってきて少年の足にぶつかって止まった。遠くで未来のリオネイル・メッシがすいませんと手をあげていた。
「ほら、蹴り返してあげなよ」
 少年は首を振った。「ダメなんだ。僕はサッカーが全然できないんだ。僕がボールを蹴るとね、みんな嫌な顔をするんだ。雨降りの日みたいに。それはね僕がボールを蹴るとボールが思った方向とは全然違う場所に飛んでいっちゃうからなんだ。まるでボールに意思が宿っているみたいに。だからお願い。僕の代わりにボールを蹴ってくれない?」
 普段だったら青年は少年にボールを蹴らしただろう。そんなこと気にすることはないんだと言って。初めから何でもできる奴なんていない、だから失敗してもいいんだと説き伏せるように。でも今日は朝食のホットケーキを食べながら少年の言うことは何でも聞いてあげようと決めていた。
「よしきた」
 青年は未来のリオネイル・メッシにいくよと声をかけてから軽く助走をつけてボールを蹴った。しかしボールはリオネイル・メッシがいるところとは全然違う方向に(角度で言うと七十度ほど)飛んでいき、青年は口汚い罵りの言葉を浴びせかけられることになった。でも青年は言い訳をするように首を振って「違うんだ。俺だってまさかあのボールに独立した意思が宿っているなんて思わなかったんだ。知っていたならうまくいっていたのになあ」とガムを口の中で転がしながら言った。隣では少年が今にも転げ回りそうなほどケラケラと笑っていた。
「おじさんって運動音痴だなあ」と少年は意味もなくニット帽の位置を修正しながら言った。
「俺はおじさんじゃない。まだ二十九歳だ」と青年は言って少年のお尻をペシリと叩いた。少年はまたケラケラと笑った。
「今日は何がしたい?」
 少年は拳を顎の下につけて青年のように考えるふりをして「うーむ」と唸った。でも自分のそんな仕草がおかしく思えたのかまたケラケラと吹き出した。
「何がそんなにおかしんだ?まさかここに来る途中で笑いが止まらなくなるキノコを齧ったりしてないよね?」
「そんなもの食べてないよ」
「ならいいんだ。あれを食べると三日三晩笑い続けた末に笑顔のまま死んでしまうって話を聞いたことがあるから心配になったんだ」
「本当にそんなキノコがあるの?僕そんな話聞いたことがないけど」
「あるさ。だから無闇に道端とか山の中にあるものを口に入れてはいけないよ」
 少年はうなずいた。そして思い出したように青年に問いかけた。
「ホットケーキに蜂蜜ってかける?」
「かけない。ホットケーキにはメープルシロップって決まっているんだ。これはエジプトがファラオの時代だった頃から決まっていることなんだ」
「そうだよね!やっぱりホットケーキにはメープルシロップでなくっちゃ」
「そうだ。ホットケーキとメープルシロップの組み合わせって最高だよ。それは切っても切り離せないものなんだ。ジョンレノンとオノヨーコみたいに」
 少年はわからないという感じで首を傾げた。
「ぐりとぐらみたいなものだよ」と青年は言い直した。
 少年はそれには納得のいく回答だったようで大きくうなずいた。
「それで今日は何がしたい?何だって付き合ってあげるよ。危ないこと以外だったらね」
「つちのこを見つけたいんだ」と少年は真剣な顔をして言った。
「つちのこ?つちのこってあのつちのこ?」青年は驚いて聞き返した。
「そーだよ。あのつちのこ」
「なんでつちのこを見つけたいんだ?」
「見つけると願いが叶うらしいんだよ。僕の学校で今噂になってるんだ」
「誰か見つけた人がいるのか?」
「うん。上級生が見つけたらしいんだよ。ほら、市民プールの近くに大きな森があるでしょ?そこで七色に光るつちのこを見つけたんだって」
「七色だって?それに今のつちのこは光るのか。それは驚きだね」
「前は七色でも光ることもなかったの?」
「そうだな。七色でも光ることもなかったな」と青年は呟いた。「それでその上級生はどんな願いが叶ったんだ?」
「ずっと欲しかったゲーム機が手に入ったらしいよ。つちのこを見つけた次の日に」
「ほう。それはすごいね。なんだかサンタクロースみたいだ。いい子にしてれば欲しいものをくれる。それで君はどんなことを叶えたいんだ?」
「それは内緒だよ。言っちゃったら叶わないかもしれないじゃないか」
「それは一理あるかもな」と青年はうなずいた。「それで願いを叶える儀式はそれだけ?七色に光るつちのこを見つけるだけでいいの?捕まえる必要もなし?つちのこがいなくなる前に願い事を三回唱えるとか、息を止めるとか、逆立ちをしなくちゃいけないとかそんなこともなし?」
「うん。ただ見つけるだけでいいんだと思うけど…」
「ずいぶん簡単そうだな。見つけるだけでいいなんて。それに七色に光ってるなら遠くからでもすぐにわかりそうだ」
「でもね、その上級生以外まだ誰も見つけられてないみたいなんだ。みんなその森に行って探しているみたいなんだけど」と少年は言ってまた意味もなくニット帽の位置を修正した。
 青年は考えるように拳を顎の下につけて三十秒ばかり黙った。
「もしかしたら、もうその森にはいないのかもしれないな。あまりにも森が騒がしくなったんでみんなが寝ている間にどこか違う場所に移動したのかもしれない。つちのこは静かな場所を好む性質があるから」
「じゃあどこにいると思う?」
「難しい質問だ」と青年が言ったところにまたボールが転がってきた。次は少年がボールを蹴り返した。ボールは少年が思う方向に綺麗に飛んだ。「ピース」と少年は言った。
「神社に行ってみようか?あそこは静かだしつちのこが隠れられそうなところがたくさんあるから」
「わかった!」と少年は言って走り出した。
「おい、待てよ」と青年は言って少年の後を追うように駆け出した。「道路に飛び出しちゃダメだぜ。ちゃんと左右を見なきゃ」
「わかってるよ!」と少年は言って公園を出るとしっかりと止まって左右を確認して道路を渡った。「それにしても、僕は何が欲しかったんだっけ?」と少年はふと思った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み