第1話

文字数 1,989文字

 区役所からの帰り道、未だ昼間の熱を帯びた公園内の遊歩道を、私達は無言で歩いた。歩道の草木を踏みしめる音だけが響いたが、それさえも蝉の大合唱に掻き消されてしまった。
「……本当にこれで良かったの?」
永い沈黙を破って、不意に彼が口を開いた。
「……うん。もう……決めたから……。」
私は彼の方には視線を向けず、淡々とそう答えた。

 彼との出会いは、十年前に遡る。大学のサークルの一学年先輩だった彼は、いつも会話の中心に居て、誰からも好かれる人気者だった。そんな彼は、私には眩し過ぎて距離を置いていたけれど、彼の方から私に近付いて来た。出会って半年後、彼の方から交際を申し込んで来たのだ。私が何度断っても、一切折れもせずめげもせず、何度も挑んで来る姿に自ずと心が動いた。
 彼との交際は大学卒業後も続き、互いに社会人として多忙な日々を送っていた。それから数年、仕事にも慣れ始めた頃に、彼の地方への転勤が決まった。彼の転勤後は遠距離恋愛となり、月に一度程のペースで、新幹線に乗って互いの中間地点で会う日々が続いた。
 そんな時、彼が再び都内に戻る事が決まり、それを機に結婚という話になった。互いに適齢期であり、親族達の多大なる後押しも在って、結婚はトントン拍子に進んで行った。女性としての幸せを手に入れる事が出来ると、私は疑いも無く信じていた。
 結婚から一ヶ月程の後、彼との新居に突然の来訪者が在った。彼の婚約者だと言い張る女で、彼の子供を妊娠しているという事だった。後に、妊娠は彼を取り戻す為の虚言であった事が発覚したが、その他にも彼には複数の女性との関係が在った様だ。それ等は全て、地方への転勤中の事だった。私は何故、月に一度程の私との逢瀬で、彼の浮気を疑いもしなかったのだろうか。

 それからは修羅場だった。彼と顔を合わせれば、激しい口論が絶えず、次第に家の中も荒れて行った。料理をする気にもなれず、一切食事を取らない日も在った。未だ、私達の間に子供が無かった事が、せめてもの救いだったと思う。最後に生理が来てから、彼との肉体関係は無い。やるなら今しかないと、私は衰弱した己を鼓舞させた。
 「別れて欲しい。」
私は彼に離婚を突き付けた。
「ま、待ってよ。僕が悪かった。でも、全て過去の事だろう?」
「その『過去の女』が、妊娠を盾に自宅まで来たのよ!今後も、彼女一人で終わりだと断言出来る?」
私の肩に手を添えようとする彼の手を、私は容赦無く払い除けた。
「私ね、子供が欲しいのよ。でも、病気持ちの可能性が有る男の子供は嫌なの。」
「な……僕は病気なんて……!」
一瞬の彼の逡巡、それが全てを物語っていた。やはり、彼は愛するに値しない人物なのか……。
「断言出来る?何人もの女と寝ておいて、絶対に病気が無いと言い切れる?」
彼が言葉を繋ぐ前に、私は更に畳み掛けた。
「……貴方は良いわ。己の欲望の所為で病気に罹るのなら。でも、それは子供に遺伝する可能性も有るの。何の罪も無い子供に、生まれながらに枷を負わせる気なの?」
「……。」
これには、流石に彼も反論は出来なかったらしく、すんなりと離婚届に記入をしてくれた。勿論、これ等の言動は全て、私の本心から出たものでは無い。何が正しいのか判断出来なくなった私に、友人が授けてくれた指針に従っただけだ。この期に及んでも、私は彼と離れたいとは微塵も思っていなかった。未だ彼を信じたいと、そう出来る可能性を見出したいと必死になっていたのだ。

 そうして本日、遂に離婚届を区役所に提出して来た。婚姻届を二人で連れ立って提出する事は在れども、離婚届を二人で提出する事は略々無いのではないかと思う。こんな時まで彼と離れたくないのかと、その執着心は我ながら憐れで滑稽だと思った。
 彼は突然に足を止めると、遠慮がちに私の腕を掴んだ。
「……最後に一つだけ、お願いが有るんだ。君に……最後の口付けをしたい。」
その瞬間、公園内を一陣の風が吹き抜けた。それは、私の心の中にも嵐を巻き起こし、忘れ去ろうとした彼への未練を呼び覚ました。この口付けで、彼は私を翻意させたいのだろうか。気怠そうに彼を見返しながら、私は仕方が無い素振りで返事をした。未だ惹き止めようとしてくれる事に、心の奥底では歓喜しながら……。
「最後ね。良いよ。」
 彼の唇が私の唇を塞ぎ、私の脳天は彼という脳内麻薬に支配された。彼と離れる事など出来はしないと、心の底から感じていたその時だった。
「……気持ち悪い。」
先程まで、彼が口にしていた塩キャラメルの味が口腔内に広がり、私は思わず顔を背けてしまった。私はどうも、塩キャラメルの甘じょっぱい味が苦手なのだ。
「ご……ごめん……!」
それだけ言い残すと、彼は泣き出しそうな顔でその場から走り去って行った。
 こうして私の未練は、塩キャラメルという救世主に依って、鮮やかに断ち切られる事となった。
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