第2話
文字数 2,304文字
美咲のことが意識のどこかに引っかかったまま顔を洗う。昨夜は彼女が引き起こした不倫騒動のことを思い出し、何度か寝返りを打つことになった。
彼女は妻子持ちの上司と関係を持っていた。程度の差こそあれ、社内のほとんどの者が気づいていたことだった。
結局、男の妻が証拠を握って社長に知らせ、どういうやり取りがあったのかは知らないが、男は退職した。おれが会社を辞める二ヵ月ほど前の話だ。
あの頃、ランチタイムの定食屋や夜の居酒屋で、おれはよく美咲の話し相手になった。相手の男について彼女が何かを話すわけでもないし、おれが何かを訊くわけでもない。カマをかけるようなこともしなかった。あの男の代わりといったところだろうと思いながら他愛のない会話につき合った。ただ、美咲はなかなかの美人だった。ともすればおかしな方に傾いてしまいそうになるつき合いを、おれはおれなりの慎重さでやり過ごしていたと思う。
正直なところ、もう職場の人間関係には深入りしたくなかった。すでにその頃にはおれはおれで仕事にも職場にもうんざりしていたのだ。
不倫に気づいていた連中の中には、おれに彼女の様子を探らせようとしたり、説得させようとする者もいた。そういう話も適当に受け流した。口を挟みたいなら自分でやればいい。そうでなくても消耗していたから、そんな空気に苛立ちを覚えた。
いま思えば、滑稽な時期だった。あの会社の誰も彼もが美咲ひとりに振り回されていたように感じられる。
――ほんと、くだらね。
歯ブラシを動かしながら、もごもごとつぶやく。
だから、おれが退職したのは、美咲が直接の原因ではない。だが、それを後押しする出来事のひとつではあった。そして、彼女の件が少しとはいえ、自分の転職に引っかかりを持っていることが我ながら気に入らない。
作業着に着替えて玄関を出た。まだ昼間のような力強さはないが、よく晴れた空が広がっている。
朝は平等だ――好天の朝、時々そう思うことがある。
夜にはいろいろな過ごし方があるが、そこには何かいつも格差のようなものがつきまとっているように感じる。自分には手に入れられない時間、自分には手が届かない体験。きっとおれはひがんでいるのだ。
けれど、朝の気持ちよさには、そんなことはほとんど関係がない。
玄関の鍵を閉め、外階段を降りる。エレベーターはない。
今日も夕方六時頃には帰宅しているだろう。きっと大汗をかいてくたくただろうが、精神的に追い込まれるようなことはないルーティンワークだ。
憂鬱ではない朝――それだけで今のおれは安堵できる。
土曜日は隔週で出勤する。
会社のトラックが運んでいるのは医療用酸素のボンベだった。できるだけ供給を途切れさせないためだろう。休日でも連絡が入れば出勤しなくてはならない待機要員も決められている。おれはまだそのシフトには入っていない。
週末に働くのは嫌いではなかった。趣味と呼べるほどのものもないし、会わなければならない相手もいない。ショッピングモールの近所など、平日なら渋滞しないような道路が混むのにはいらいらさせられるが、土曜日は配送件数も少なめだった。
早朝の駐車場は、ほとんどのスペースがまだ埋まっている。あのメタリックブルーのクーペもいつもの位置にあった。
いつもと違うのは、運転席にあの女がいたことだ。
カツン、カツンと断続的にボンネットのあたりから音がする。
セルが回っていない。
おれは運転席の女に窓を開けるように合図した。パワーウィンドウは下がらず、女はドアを開け、シートに腰かけたままで言った。
「バッテリーが上がっちゃったみたいで」
「ロードサービスとかは?」
「持ち主がいなくて保険の書類とかよくわかんないんです」
女は表情を曇らせた。
「ケーブルあるから、ちょっと待ってて」
自分の車まで行き、エンジンをかけた。通勤用に買った中古のコンパクトカーだ。他人に言うのも恥ずかしいような値段で、年式は女のクーペに負けないぐらい古い。
自分のポンコツをクーペの前に移動すると、それぞれのボンネットを開いてブースターケーブルをつないだ。
「いけると思うよ」女にエンジンをかけるように促した。
クーペは何かが回転し擦れるような乾いた音を立てる。
図太い排気音が、朝の澄んだ空気の中に吐き出された。
ありがとうございます――声は聞こえないが、彼女の口元でそう言っているのがわかる。ウィンドウが静かに開いた。
「降りなくていいですよ。そのまま少しエンジン回してて」
おれはそう指示するとブースターケーブルを外して、自分の車の荷室にそのまま放り込んだ。そして、両方の車のボンネットを閉じた。
言われた通りに運転席で行儀よく両手をハンドルに置いている女に、窓の外から声をかける。
「そこにコンビニがある交差点あるでしょ?」
「はい」
「こっちからだとその交差点左折して一キロぐらい行くとスタンドがあって、二十四時間だから。このままエンジン切らないで行くといいよ」
「はい。あの――」
「じゃ悪いけど、おれ行きますね」
おれは先を急いで自分の車に乗り込んだ。今ならまだいつもよりも少し遅れる程度で遅刻にはならない。
彼女がクーペの運転席でハンドルに手をかけたまま頭を下げる。
何かを言おうとする彼女を遮るようになってしまったことに少しやましいような気持ちを感じたが、軽く片手をあげて彼女に答えると急いで駐車場を出た。
ハンドルを握りながら思う。
もしかすると近くで見たら遠目とはずいぶん印象が違うのではないか。以前からそう考えていた。
しかし、彼女は、やはりどうしてもあの改造車とは結びつかなかった。
彼女は妻子持ちの上司と関係を持っていた。程度の差こそあれ、社内のほとんどの者が気づいていたことだった。
結局、男の妻が証拠を握って社長に知らせ、どういうやり取りがあったのかは知らないが、男は退職した。おれが会社を辞める二ヵ月ほど前の話だ。
あの頃、ランチタイムの定食屋や夜の居酒屋で、おれはよく美咲の話し相手になった。相手の男について彼女が何かを話すわけでもないし、おれが何かを訊くわけでもない。カマをかけるようなこともしなかった。あの男の代わりといったところだろうと思いながら他愛のない会話につき合った。ただ、美咲はなかなかの美人だった。ともすればおかしな方に傾いてしまいそうになるつき合いを、おれはおれなりの慎重さでやり過ごしていたと思う。
正直なところ、もう職場の人間関係には深入りしたくなかった。すでにその頃にはおれはおれで仕事にも職場にもうんざりしていたのだ。
不倫に気づいていた連中の中には、おれに彼女の様子を探らせようとしたり、説得させようとする者もいた。そういう話も適当に受け流した。口を挟みたいなら自分でやればいい。そうでなくても消耗していたから、そんな空気に苛立ちを覚えた。
いま思えば、滑稽な時期だった。あの会社の誰も彼もが美咲ひとりに振り回されていたように感じられる。
――ほんと、くだらね。
歯ブラシを動かしながら、もごもごとつぶやく。
だから、おれが退職したのは、美咲が直接の原因ではない。だが、それを後押しする出来事のひとつではあった。そして、彼女の件が少しとはいえ、自分の転職に引っかかりを持っていることが我ながら気に入らない。
作業着に着替えて玄関を出た。まだ昼間のような力強さはないが、よく晴れた空が広がっている。
朝は平等だ――好天の朝、時々そう思うことがある。
夜にはいろいろな過ごし方があるが、そこには何かいつも格差のようなものがつきまとっているように感じる。自分には手に入れられない時間、自分には手が届かない体験。きっとおれはひがんでいるのだ。
けれど、朝の気持ちよさには、そんなことはほとんど関係がない。
玄関の鍵を閉め、外階段を降りる。エレベーターはない。
今日も夕方六時頃には帰宅しているだろう。きっと大汗をかいてくたくただろうが、精神的に追い込まれるようなことはないルーティンワークだ。
憂鬱ではない朝――それだけで今のおれは安堵できる。
土曜日は隔週で出勤する。
会社のトラックが運んでいるのは医療用酸素のボンベだった。できるだけ供給を途切れさせないためだろう。休日でも連絡が入れば出勤しなくてはならない待機要員も決められている。おれはまだそのシフトには入っていない。
週末に働くのは嫌いではなかった。趣味と呼べるほどのものもないし、会わなければならない相手もいない。ショッピングモールの近所など、平日なら渋滞しないような道路が混むのにはいらいらさせられるが、土曜日は配送件数も少なめだった。
早朝の駐車場は、ほとんどのスペースがまだ埋まっている。あのメタリックブルーのクーペもいつもの位置にあった。
いつもと違うのは、運転席にあの女がいたことだ。
カツン、カツンと断続的にボンネットのあたりから音がする。
セルが回っていない。
おれは運転席の女に窓を開けるように合図した。パワーウィンドウは下がらず、女はドアを開け、シートに腰かけたままで言った。
「バッテリーが上がっちゃったみたいで」
「ロードサービスとかは?」
「持ち主がいなくて保険の書類とかよくわかんないんです」
女は表情を曇らせた。
「ケーブルあるから、ちょっと待ってて」
自分の車まで行き、エンジンをかけた。通勤用に買った中古のコンパクトカーだ。他人に言うのも恥ずかしいような値段で、年式は女のクーペに負けないぐらい古い。
自分のポンコツをクーペの前に移動すると、それぞれのボンネットを開いてブースターケーブルをつないだ。
「いけると思うよ」女にエンジンをかけるように促した。
クーペは何かが回転し擦れるような乾いた音を立てる。
図太い排気音が、朝の澄んだ空気の中に吐き出された。
ありがとうございます――声は聞こえないが、彼女の口元でそう言っているのがわかる。ウィンドウが静かに開いた。
「降りなくていいですよ。そのまま少しエンジン回してて」
おれはそう指示するとブースターケーブルを外して、自分の車の荷室にそのまま放り込んだ。そして、両方の車のボンネットを閉じた。
言われた通りに運転席で行儀よく両手をハンドルに置いている女に、窓の外から声をかける。
「そこにコンビニがある交差点あるでしょ?」
「はい」
「こっちからだとその交差点左折して一キロぐらい行くとスタンドがあって、二十四時間だから。このままエンジン切らないで行くといいよ」
「はい。あの――」
「じゃ悪いけど、おれ行きますね」
おれは先を急いで自分の車に乗り込んだ。今ならまだいつもよりも少し遅れる程度で遅刻にはならない。
彼女がクーペの運転席でハンドルに手をかけたまま頭を下げる。
何かを言おうとする彼女を遮るようになってしまったことに少しやましいような気持ちを感じたが、軽く片手をあげて彼女に答えると急いで駐車場を出た。
ハンドルを握りながら思う。
もしかすると近くで見たら遠目とはずいぶん印象が違うのではないか。以前からそう考えていた。
しかし、彼女は、やはりどうしてもあの改造車とは結びつかなかった。