第1話

文字数 1,498文字

 「お母さんの体調はどうですか?」
なぜ診察に来ている私でなく、母のことを心配するのだろうと思った産婦人科の診察室。咄嗟に考え合点がいく。母はおばあちゃんで、私が母か…。
 一年生が二年生に、平社員から主任に、といった進級や昇進は、日付と共に切替わるもので、事前に覚悟もしているが、出産前だった当時、まだ産んでもいないのだから、「お母さん」と自覚していない。こちらにとっては唐突な呼びかけだ。立っている位置が急にスライドして、違う場所に立っていたというか、ちょっと大げさにいえば、人生の新しいステージに立つ瞬間に立ち会ったと感じる初めての経験だった。
 私を母にしたその娘が、この春一人暮らしを始めた。引越荷物は慌ただしく一緒に片づけ、生活がひと巡りした頃を見計らって再度娘のところへ向かうことにした。これまで家事は一切してこなかったので、野菜の選び方や保存法、店の見極め方や価格の妥当性など、これまで判断を下す必要がなかった部分に、多かれ少なかれ戸惑っているだろう。夫はすぐに慣れるというものの、母としては娘が困らないように、つまらないことでも教えてあげたいと思う。
 娘の家に行くにあたって宅急便の準備をする。在宅テレワークを終える六時過ぎに家に到着し、それから日課の散歩に一緒に出掛けるためには、前日に荷物の受け取りを済ませておきたい。受取指定を到着日にすると、在宅とはいえ日中は仕事で対応できないし、終業後の時間を指定すれば荷物待ちで外出できないかもしれない。そうすると、一日中家にこもりっきりとなってしまうから、受取はやはり前日の六時以降だ。
 送るのは、滞在中の着替えと化粧品、引越の際に入れそびれた荷物。それ以外に入れるものを考える。まだ引っ越して一か月だから、こちらの味を懐かしむわけではない。りんごとオレンジ、キウイを2つずつ、最近私がはまっているライスペーパーに、いろんなお菓子を少しずつ袋に詰めたおやつ袋。生理用品やラップなど、どこでも手に入るものだけど必需のものや、一人だと量が多すぎるものなど。空きスペースがないよう箱に目いっぱいつめこんで荷物を送る。
 娘の家に到着すると、予定通り到着前日に荷物は受け取られていて、私の着替えと化粧品だけが箱に残されていた。
 その時、はっと気が付いた。新しいステージがあの時のように準備され、同じステージに立っていた私と娘はそれぞれ場を移したのだと。娘が私の前を進み、その様子が自然と目に入って手助けができた春までの暮らし。今は目を向けなければお互いの様子が分からないし、娘はもう一人で充分歩くことができるのだ。
 改めて考えると、人は普段の生活の中で、いくつものステージを持ち、これに対応する役割を自然と使い分けている。取り巻く人々や自分自身の成長や暮らしの変化によって、そのステージは増えたり減ったりするのだろう。その動きに気づけたのは、面白い体験だったかもしれない。
 実は娘は一卵性双生児で、もう一人は自宅で一緒に暮らし、今まで通りの向き合い方をしている。大学卒業まで娘たちには同時に同じことをしていたのに、それぞれに接し方を変えているのは少し妙な気分でもある。
 つい先日のこと、離れて暮らす娘の手元に届けなければならない書類ができ、そのついでに二回目の宅急便を送ることにした。再び、中に入れるものを考える。用意できるものは全部してやりたい。が、せっかく独り立ちしたのだから、それでは駄目だ。どこまで準備すればよいのか、どの程度離れればよいのか、匙加減がまだよくわからない。
 独立した子と親の立つステージ。ここでの私はまだ新人で要領を得ない。
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