夏の採点

文字数 1,946文字

夏休みに入ってすぐ、うちの湯沸かし器が壊れた。部品が手に入らないので修理にひと月かかると言われたママは、ならばいっそ風呂場や洗面所をリフォームすると言いだし、あっという間に全ての手配を済ました。

外資系企業でそれなりの地位にいるママは、リフォーム期間に合わせてアメリカ東海岸への出張を自ら組んだ。一方、中3で夏期講習のある私は、ママの交際相手の家に預けられることになった。その交際相手とは一度だけ会っていた。名前は大翔(ひろと)さんという。ママより6歳若いらしいのでパパより10歳くらい若い。手足と身長がスラリと長く、動作がなめらかでストレスとは無縁な雰囲気を持っている。緊張して挙動不審になっていた私に対し、二重(ふたえ)まぶたの目尻に(しわ)を寄せ、笑顔を向けてくれた。このときから私はイタズラ心で、大翔さんのことを心の中では彼と呼んでいた。

***

居候が始まる日、緩めのワンピースを着てノロノロと支度をしていると、案の定ママから嫌味を言われた。
「なんか野暮ったくない?」ママはだらしないことが許せない(たち)だ。私は夏になると太る。わかっていてもつい食べ過ぎてしまう。動きも緩慢になる。そんな私に対するママの採点は厳しい。ママ曰く、体型には生活がでるらしい。

移動中も無駄にしないママは、タクシーの中でスマートフォンをイジりながら言った。
「工事屋さんから何か訊かれたら大翔に言って」
「そこはパパでよくない?」
「そうもいかないでしょ」
パパは既に再婚して新しい家庭を持っている。とはいえ相談することで、以前は一緒に暮らしていたパパの思い出を残したい。けれどママの気持ちは逆なのかもしれない。
「ま、そこは任せるわ」ママはどうでもよさそうに言うと、彼の住むマンションの前で私だけをタクシーから降ろし、そのまま空港へ向かった。放り出された私から汗が吹き出た。

***

在宅で建築デザインの仕事をしている彼は、朝に晩に手作り料理でもてなしてくれた。料理はどれも美味しくてボリュームがあった。食卓に乗った細長い彼の前腕を気づかれないように見ながら、出された料理を毎回残さず食べた。食後に出される甘いお菓子も私の別腹にスルリと入っていく。コーヒーを飲みながら彼が「高校はどんなところに行きたいの?」と言った。
「『プールがないところ』って言ったらママに(あき)れられました」彼は声を出して笑ってくれた。そしてすぐに言った。
「お母さん、厳しいもんね」彼の笑顔と私の間に、ママの背中が見えた気がした。

***

夏期講習が終わってからも、リフォームが終わるまで居候はつづいた。ある日、模試に向けて勉強していると、彼から遊園地に誘われた。初めて乗った路線の終点で降り、改札を抜けると目の前に遊園地の入口はあった。園内は樹木が多く、思ったより暑さを感じなかった。
「この夏でここは閉園しちゃうんだよ」彼は十代の頃に何度もここを訪れたと言った。彼のはなしを聞きながら歩く私を、木陰(こかげ)と日射しが交互に()でた。

ジェットコースターで絶叫し、メリーゴーランドにのんびりと揺られた。私たちは子どもたちにも負けない勢いでアトラクションを回った。園内を回りながら、私はあるアトラクションに目をつけていた。夕日が雲を染めはじめた頃、二人乗りの宇宙船が宙に舞い上がっていくそのアトラクションに彼を誘った。私が前の席に座り、すぐ後ろに彼が座る。宇宙船は支柱を中心に回りながら上昇していく。遊園地の外まで広く見渡せる高さまで上がると、景色から速度がなくなった。彼が何かを言っているけれど風に流されてよく聞こえない。
「あのビルはね……」建築家の彼が、自身の手掛けたビルの説明をしているようだった。耳を彼の方に向けようと横を向いたら、髪が彼の顔に触れた。彼は説明をつづけている。座席の脇にある手すりを握った手が動くこともない。彼はこの場所に、思い出を懐かしむために来たのであって、思い出をつくるために来たのではない。二人を乗せた宇宙船は地上に向かって下がりはじめた。雲の色は(あわ)い赤からくっきりと濃い赤になっていた。

***

模試が終わった。結果はさんざんだった。工事屋さんからの連絡はないまま予定通りリフォームも終わった。帰宅して洗面所にいくと、すっかりママ好みの装いになっていた。パパの思い出は、またひとつなくなった。何かをなくさないと新しい思い出は足せないのだろうか。自分の部屋でひと息つくと涙が溢れてきた。

ママは帰ってくるとすぐにリフォームの仕上がりをチェックしはじめた。きっとこの後、この期間に起きた出来事を矢継ぎ早に訊ねてくるだろう。私の夏に、ママは絶対しょっぱい点数をつける。でも私はこの夏に思い切り甘い点数をつけて、スルリと別腹に放り込もうと、(せわ)しなく動き回るママの背中を見ながら思った。
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