第1話

文字数 3,745文字

 それはある晴れた日の午後、木山田係長はいつものように憤っていた.女子社員の工藤が出してきた書類が例によってデタラメで誤字だらけだったからだ。あいつは俺の事をなめている。一度ガツンと言ってやらないといけない。ちょっと顔が小さくてカワイイから何でも大目に見て貰えるとでも思っているんだろう。ちょっと鼻にかかったような甘ったるい声も気になるけど、色も白くて爪とかキラキラしてて、、、いやいや俺は何を言っているんだ。世の中そんな甘いもんじゃ無いんだ。木山田係長は声を裏返しながら叫ぶ。
「工藤くん、いいかな?」
 その声は明らかに怒気を含んでおり、呼ばれた女性事務員はダルそうに木山田係長の席の前に立った。
「なーんスか」
「工藤くん、何回言ったら分かるんだね、提出する書類はキチンと確認してから出してくれって言ってるよね。僕は君の秘書じゃ無いんだから。いちいち誤字や脱字を訂正していたら仕事にならないんだよ。もう新入社員じゃないんだからそれくらいの事はやってもらわないと困るんだけど。」
 工藤は不満そうな顔をしながら「どーも、すみません。」と頭を下げた。
 と、その頭の上に、
(うっぜーな、このズラ野郎)
と描かれた丸い物体がピンっと現れた。まるでマンガの吹き出しのように。オフィスの空気が一瞬凍り付きそれを見た社員は皆あわてて顔を伏せた。木山田係長は目を見開き、口元をワナワナと震わせながら叫んだ。
「こ、こ、これはズラじゃなーい!」
オフィスにいる全員の頭上に「これ?」という吹き出しがピンピンピンっと一斉に飛び出した。

 今日が勝負だ。
 レンの右手は大きな薔薇の花束を握りしめている。随分と時間をかけて彼女にサービスを提供して来た。今日こそはその果実をこの手にする時だ。駅の向こうから階段を降りてくる彼女の姿が見えた。赤いパンプスが雑踏のなかでも目を引く。レンはゴクリと生唾をのみ込んだ。頭の中でジングルと甘いコーラスが響き渡り、薔薇の花束を目にした彼女の顔がパアッと紅くなるのがわかる。「よしっ!」レンが心の中でガッツポーズをしたその時、彼女の足が止まる。紅かった顔が青ざめ後ずさりするように引き返し始めた。「え、なんで?」慌てたレンはもつれる足で彼女の後を追いかけ始めた。彼は自分の頭の上に
(今日こそイッパツヤってやる!)
と書かれた大きな吹き出しが浮かんでいる事にまだ気づいていなかった。

 完璧だ。
 平井サトルは確信していた。今回のプレゼン、コスト、機能どれをとってもライバル各社を圧倒している。あとは心象のみ。最高の笑顔でプレゼン会場に乗り込む。先方の購買担当者の名前は木山田課長。変わった名前だな。小難しそうな顔で待ち受けている。だが我々の提案を見れば判断を誤るわけがない。平井は木山田課長に「本日はよろしくお願いします。」と名刺を差し出す。頷く木山田の後頭部を見た平岡は微妙な違和感を感じる。「ダメだ、ダメだ、ダメだ」自分を抑えようとするが平井サトルの頭上に
(ヅラ?)
の文字が浮かぶ。見上げる木山田課長の瞳に、メラメラと燃えあがる炎を見て、平井サトルの勝利の確信は敗北のそれに変わっていた。

 その現象は日本国内全域に広がっていた。人々が心の中で考えている事が吹き出しとなって現れる。どんなに表面を取り繕っても頭の上には本音が赤裸々に浮かんでいるわけで、それはとんでもない事態だった。誠実さを売りにしていたイケメン男子が目当ての女性をスマートな仕草で誘っていても、頭の上の吹き出しが全てを台無しにしてしまう。ビジネスの交渉においてもポーカーフェースもあったもんじゃ無い。臑に傷持つ取引先からの面談キャンセルが相次いだ。この世に心の底から清廉潔白な人物なんている訳が無いのだから。一体どうしたっていうんだ。何が起こっているんだ。
 人々は文字通り頭を抱えた。

 二日酔いの頭をさすりながら、中嶋アキトはのろのろと寝室のある2階から1階へ階段を降りる。洗面所で髭を剃っていると15歳になる娘のハナコが隣りで髪の寝癖を直し始める。
「おはよう。」
「よー。」
 ハナコは挨拶は返すものの無表情のまま髪のセットに集中している。その頭の上に吹き出しは無い。どうやら未成年には吹き出しは出ないようだ。理由はまだわからない。それはそれでわかりにくい話だ。アキトは自分の頭の上に出た
(やれやれ。)
という吹き出しを鏡ごしに見ながら洗面所を後にする。いつからだろう、娘と昔のように話をしなくなったのは。「年頃なんだからしょうがないわよ。」妻はそう言うけれど、同僚の中には今でも子どもと仲良くしている奴だっている。その淋しい気持ちはどうにも整理がつかない。いつものように無言で朝ごはんを食べ、いつものように会社に出かけた。アキトの頭の上には
(…。)
と印されたバルーンが浮かんでいた。
 その日の夕方から降り始めた雨は次第にその勢いを増し、アキトの住む地域の辺りは瞬く間に水浸しになっていた。
「ハナコを迎えに行ってやって。」
 妻の電話を受け、アキトは通勤用の軽自動車でハナコが通う学習塾に向かっていた。塾に着くとハナコはもう駐輪場の片隅で待っていた。出来るだけ近くに車を寄せるとハナコは転がるように乗り込んでくる。
「もーサイテー!びしょ濡れじゃん。」
 濡れた肩をハンカチで拭いながらハナコはどさっと重そうなリュックを座席に下ろす。
「じゃあ、帰るよ。忘れものはない?」
 娘からの返事はないがアキトはそのまま軽自動車を駐車場から道路に出す。雨の勢いは増すばかりで、ワイパーをフルパワーで動かしても十分前が見えない有様だ。県道はひどい渋滞だったので土手沿いの脇道に行くことにした。雨で視界の悪い中、狭い道を行く事に一瞬ためらいもあったが、今は少しでも早く家に帰り着きたかった。
「ピロリロリン、ピロリロリーン!」「ピロリロリン、ピロリロリーン!」
 突然、アキトとハナコの携帯が同時に鳴る。
「なに!」
「避難準備だって」
 最近のゲリラ豪雨では頻繁に緊急速報が鳴るもんだからあまり危機感は感じない。それよりもこの狭い視野で堤防を走ることに集中しなくては。自宅に向かう坂道に近づいたその時、軽自動車は急に右側に傾き始めた。
 「なんだ?堤防が崩れ始めてる?」
 何が何だかわからないまま車は土手を滑り落ち、河側のコンクリートに引っかかって止まった。その反動で後部のスライドドアが開きハナコが車から投げ出されそうになる。アキトはシートを倒してハナコの身体を掴んだ。
 「大丈夫か、ハナコ!」
 ハナコはこわばったまま言葉が出ない。アキトは後部座席に移動してハナコの体を車の中に引き寄せる。やれやれと一息つこうとした時、また地面が滑り出し、ハナコは河に転落しそうになる。アキトは必死にハナコの腕を掴み車のピラーに足を踏ん張った。雨で濡れ滑りそうになるハナコの手を握りしめながら心の中で叫ぶ。
(神様、俺はどうなってもいい。この子だけは助けてくれ!)

 中嶋ハナコはいつものように朝のヘアメイクに余念がない。ハナコは洗面所の鏡を見ながら思いにはせる。世間を騒がせたバルーンはあのゲリラ豪雨の次の日からパタっと止まった。聞こえて来たのは大手IT企業Go社が開発したソフトウェアGoセンスのバグ騒動だという噂。Goセンスはユーザーの視神経をハッキングする。見たもの聞いたものから最適な情報を視界の片隅に表示する、それが本来の機能だ。Go社の変わり者がそこにある機能を追加した。ネットワークを通じて人間の感情を視覚化する機能。まだベータ版だったそのソフトウェアが暴走したのが今回の騒動の原因だとか。GoセンスはICチップをこめかみに埋め込むため18歳未満は利用できない。だから私たちティーンエイジャーにはあのバルーンが見えたり浮かんだりしなかったのだと。でもそれに異論を唱える人もいる。ネットワークを通じて人間の心が読めるわけがない。あれは人類が古来から持つ力が解放された瞬間なのだ。もっと現実的な意見もある。Goセンスは心を読んでいたわけではない。ユーザーの過去の行動履歴と現在の状況を総合的に判断して、その人物が発しそうなセンテンスをAIが予測して表示していたのだ。
 なるほど、それが一番説得力のある見解かもしれない。だが、ハナコは思う。あの時、私は確か見た、あの転げ落ちそうになる車の中でお父さんの頭上に浮かぶ吹き出しを。
(神様、俺はどうなってもいい。この子だけは助けてくれ!)
 それはパニックになっていた私の妄想だろうか。だとしたらそれは私の願望か。本当のことは分からない。でもそれはもうどうでもいい。私の中で何かが変わったんだと思う。今まで何をこだわっていたんだか。
 いつものように二日酔いのお父さんが欠伸をしながら洗面所に姿をあらわす。
「おはよう。」
「おはようー。」
 私はお父さんの顔を見ながら言う、
「ね、お父さん。今から一緒にパンケーキ食べに行こう!」
「え?」
「ね、いいでしょ。今日は休みなんだから。」
「ああ、いいけど。」
 満面の笑みを浮かべるハナコの顔を不思議そうにながめるお父さんの頭の上には
(?)マークのバルーンが浮かんでいた

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登場人物紹介

アキト ハナコの父親

ハナコ

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