運命の恋人

文字数 31,174文字

運命の恋人


良くも悪くも運命というものは自分が創るものだと思います。
 〜オノ・ヨーコ


 ⌘ 1

 慣れない日本酒なんか呑むからいけないのよ、と言われてももう後の祭りだよ有希子さん。あなたと行ったその日二軒目の店、銀座のおでん屋で味の染みた大根に辛子をちょいと付けて頬張り熱燗をくいっと呑んでは、煙草をぷかぷか吸ってたらもうほろ酔いどころじゃなかった。あゝ雰囲気に酔っちゃったのかなァ、って真顔で言ったらあなたは冷めた眼で睨み、サブいこと言ってんじゃないよ、と肩を思いっきりどつく。結構痛かった。あなたも随分と酔っていたと思うな。
 あゝ元々酒が弱いんだな、おれは。呑むとすぐに顔に出ちゃうのよ。そりゃあなたの前だからさ、全然酔ってないよと言っちまうさ。年末だしね。明日で今年も終わると思うと気分が上がったんだよ。明日も休みで二日まで休み。連休の初日だからより気持ちが高揚したんだろうな。のっけから飲む量を飛ばしすぎた。でも楽しまないと損だと言うあなたの言葉にまんまと乗せられてしまったよ、といったらあなたに申し訳ないからそれは言わない。前にあなたと年末に一緒に過ごしたのはいつのことだったか。会話しながらも頭ん中はフル回転で記憶をほじくり返していたけど、無理だった。酔ってて思考回路働かず、チーンと終了。こういうときは考えるだけ無駄だと、よぉおし呑むぞと意気込む。
 おでん屋の後でもう一軒行こうと誘ったら、じゃあ顔出したいお店があるからそこに行こうよとあなたは席を立った。もうこの日ははなから夜通し呑むつもりでいたから、モチのロンであなたについていく。
 それにしても年末の通りは人でごった返していた。みんな赤ら顔して、酔っていて、笑顔んなって千鳥足。楽しいのかバカなのか叫んでいる輩もいる。それも一人二人どころの騒ぎじゃない。酔っぱらいたちはどこにでもいて、視界に映るそのほとんど者がそのように見えるから不思議だ。おーい、早く来てよと少し先に歩いているあなたは手招きして大声でおれを呼んでいる。駅の方へ歩いていると思いきや、通りかかったタクシーを呼び止めているとは。小走りで駆け寄る。運動不足がたたり、足が絡まりコケそうになるおれを、少し先にいるあなたは笑って見ている。酔っ払い早くしなさい! と大声を出すから周りの人たちの視線が気になって仕方がない。なるべく顔を上げないようにしてあなたに追いついたときは息切れがしていた。少しは運動しなさいよと肩をどつかれ、それがまた痛い。電車は面倒だからこれで行こうとあなたはタクシーに乗り込んだ。
 車中あなたはとても上機嫌だった。行き先を告げるや否やタクシーの運転手に絡むように話をして、
「私たち久しぶりに会うんですよ〜」
 と何度も同じことを繰り返して言っていた。運転手はそれはもうできた人で、あなたがペチャクチャと途切れなく話しても決して怒らず、柔らかい口調で、そうなんですね、確かに、いいですね〜と適度な、そして抜群なタイミングで相槌を打ち、あなたの気分を良くさせ、さらにあなたから多くの言葉を引き出した。まさにサービス業の鑑だった。お客様の気分を上げるこの接客は一朝一夕でできるもんじゃない、そう感心しているとバックミラー越しに運転手と目が合った。そこに映るその表情も温和で、笑顔のときにできる目尻の皺から優しさが滲み出ていた。
 おれはあなたの横顔を一瞥した後は、シートに背を持たせ、黙ってその話を聴いていた。
 久しぶりか〜。そうだなぁ、前に会って呑んだときには、仕事で人間関係がうまくいってないと悩んでいて元気がなかったから、話していてもどこかうわの空で目の焦点が定まっていないような、そんな印象だったな。今日のあなたはまったく違う人だ。
 ──心が病んでいるときは体ん中に溜まった邪気を外に出さなきゃいけないんだよ。
 ──邪気ねぇ。
 ──そう。例えば、よく風邪を引く人なんかは体の中に溜まった悪いものを定期的に体の外へ出しているから良いの。あまり風邪を引かない人は逆に体の中の悪いものを溜め込んじゃってるから、風邪を引いたら長引くんだよ。だから定期的に体に溜まった悪いものは出す必要があるんだ。
 ──確かに、一理ありそうね。でもどうやって出すのよ?
 ──歌って踊るのがいいよ。大声を出したり踊ることで、悪い邪気を体内から払うんだ。
 そのときそうおれはあなたに長いアドバイスをした。あなたは珍しく素直に頷いてその話を聞いていた。メモ取ってもいいかと断り、冗談だと思って了承したら、本当にカバンの中から手帳を取り出してメモ帳にペンを走らせていたから、本当に病んでいたんだと思った。
 そのとき仕事が忙しくて思うように日々を過ごせでなかったんだろう。趣味であるミュージシャンのライブにも行けず、心が病んでいたんだ。
 だからそのときおれは一緒に好きでもないカラオケに付き合ってあげた。その日のあなたは凄かった。おれは舌を巻いたよ。魂の叫びとはこのことを言うんだなと思った。あなたは体内に溜まった邪気をすべて吐き出すように叫び、歌いまくった。ザ・ブルーハーツやザ・イエローモンキーやジュディアンドマリーやザ・コレクターズ。いつも七〇年代の洋楽ばかりを好んで聴いているあなたが邦楽を歌うなんて、とても新鮮だった。音程が外れていても全然気にしなーい。おれはタンバリンを片手にあなたの声とカラオケのメロディーに合わせてタンタンタタタンとリズムを刻んだ。とりわけあなたは、エレファントカシマシの《悲しみの果て》を何度も入れては熱唱し、しまいには声が枯れてしまった。
 その帰り道、酔って疲れ果てたあなたを家まで送って帰るときに、「今日はありがとうね」とあなたはしゃがれた声で言った。
 そのことをあなたは覚えているだろうか。
 あのカラオケ屋を出た後に見た夜明け前の紫色の空の色も、冷えた街の空気も、カラスの鳴き声も、あなたの肩を抱えて歩いた道も、あなたはすべて覚えているだろうか。おれにとってはとても美しい光景だったんだ。
 甘美な記憶は時の移ろいとともにさらに美化されていく。今が幸せなら昔の不遇さを美化する。
 そうあなたが前におれに言ってくれたことをふと思い出した。
 おれの今は幸せなんだろうか。

「ねえねえ聞いた?」
 あなたが話かけてくる。
「運転手さんがこの赤いアイシャドウ似合ってるって」
「あゝとても似合ってるよ」
「全然心がこもってないし」
 最近観た韓国映画に影響を受けて、その主人公がしていた赤いアイシャドウを塗っていると、さっきおでん屋で聞いた話とまったく同じ話を運転手に嬉しそうに話す。確かに元々のきりっとした切長の目に良く似合っていた。
 みんなが振り向くような容姿と美貌。あなたは近くにいて遠い人だ。近づいた思えば離れ、離れたと思えばまた近づいてくる。そんなことを考えながら、窓の外の景色に目を凝らす。街の明かりがぼんやりと滲んで見えるのは、決して酔っているせいだけではないだろう。嬉しいのか、悲しいのか、プラスなのか、マイナスなのか、心にあるこのもやもやした感情の正体がわかるのはもっとずっと後のことだった。

 ⌘ 2

 恵比寿駅でタクシーを降りて徒歩で五分くらい、雑居ビルの裏口から階段で登ったところに目的の店はあった。
 限りなく照明を落としたバーで、入った瞬間に圧倒されるものがあった。バーカウンターには種類の違う酒のボトルが壁一面ある棚に綺麗に並べられていて、棚の縁には淡い赤のライトが妖しく灯っている。いつもはテーブル席もカウンター席も客でいっぱいになり店内は賑わっているというが、今日は晦日だからか客は誰もいなかった。開いてるかどうか心配だったけど開いて良かったと、あなたは笑顔でバーカウンターの中心に立っているマスターに話しかけた。今日が仕事納めだと言うマスターとやりとりをして、他の常連さんがさっき来たんだという言葉が耳に入ってきたが、それ以降は何の会話をしているのかはさっぱりわからなかった。
 テーブル席も空いていたが、おれたちはカウンターに座った。カウンターに肩を並べて座りながら、語り合うには持ってこいの雰囲気ではある。でも語り合うには酔い過ぎていた。
 タクシーでの移動中に少しは回復するだろうという考えは甘かった。もうほどほどにしておいたら、と優しい言葉をかけてくれたらそりゃ呑まんかったよ。でも飲み屋にきてるんだもの、そりゃ呑みますよ。登山家にどうして山に登るのかを訊ねるように、そこに酒があるから呑む、みたいなことを言ったら、またあなたにどつかれた。
 酔っていても痛みは感じるものだなとしみじみ思いながら、ダウンライトの位置にメニューを照らして何とか書かれた字を見、難しい名前のカクテルを注文した。正直味なんかなんもわからんかった。黒のウエスタンハットを被って赤いシャツに黒のベストでカントリー風の格好をしているマスターの手前、これ美味しいですねとわざとらしく褒めた。マスターはこの道もう何十年というキャリアなんだよってあなたはおれに耳打ちするから、触らぬ神に祟りなしと思ってとにかく良いことばかり口にした。酔っていても最低限の気を遣えるのは、社会人になり社交的な力を身につけたからか、などとぼんやり考えながら、マスターのつくった訳の分からぬ色のカクテルをちびちび呑む。
 でもマスターは、いちげんさんのおれにはずっと鋭い眼光を向けていたんだ。すぐにおれはピンときたね。頭ん中に電光が走るみたいにさ。マスターはあなたに惚れているんじゃないかって。おれの勘は良くあたるんだよ。あなたはずっとマスターと話をしていた。おれのことそっちのけで。だからおれは煙草ばかり吸っていた。別にいじけていたわけじゃないし、構って欲しかったわけでもない。時折おれのことを気にして話しかけてくるのが、気を遣われているようで嫌だった。あなたはそんな人じゃないじゃん。そこまで気がまわる人じゃないじゃない。どこかマスターの前だからか、優しい人を演じているようで嫌だった。だからおれは緩やかに流れるジャズのピアノのメロディーに耳を傾けて一人で煙草を吹かしていた。とにかくおれのことは気にしないで、勝手に話してくれて構わなかったのよ。
 それに酔ってたから、あなたとマスターの会話の内容までは耳を傾けて聞くのは不可能で、ただ音楽の話をしているのはわかった。オアシスとかギャラガーってワードが聞き取れたから。ま、とりあえずあなたの横で俯きながら頷いていれば大丈夫だろうと、やたら名前の長いカクテルをお代わりして呑みながら、煙草を吸い、首が痛くなるほど頷いた。
 本当にそのまま放っておいてくれれば良かったのに、あなたは突然おれに話を振ってくる。
 イーグルスの《ホテルカリフォルニア》と《デスペラード》はどっちが良いかって。
 後々思い出せばわかる。あなたはイーグルスって言ってたもの。きっとあるワードだけがぱっと耳から入ってきて脳に伝わったんだろうな。おれは間違えて、そりゃ《夢のカリフォルニア》でしょと自信満々に答えた。即答だった。あなたは目を細めておれを睨み、しばし無言になり、そのまま無視。まさかの無視。その後であたしは絶対(デスペラード)よと大声を出す。耳がきんきん鳴ったよ。隣でさそんな大声出さなくてもいいんじゃないの? あなたも相当酔ってたんじゃないかい。そりゃさ、あなたが《夢のカリフォルニア》はママス&パパスだよって、小突いてくれてさえいれば、そんな大声を出す必要はなかったかもしれない。でもおれはイーグルスだったら、《ホテルカリフォルニア》の方が好きだな。なぜなら歌詞が良いから。〜ホーテールカーリフォールニア、ペペロンチーノ、ペペロンチーノ、ペペロンチーノ、の部分が好きだからだ。
 そんな冗談をあなたに伝えている最中、大音量で流された《デスペラード》に鳥肌が立ち、一瞬で目が覚めた。
 君にもわかるでしょ? この凄さが。
 あなたのその言葉でピンときた。以前音響がすごくいいお店があると言っていたことを。ここだったのか。まぁ時間も時間だったし、おれたちの他に客はいなかったし、いたらこんなに大音量ではかけないはずだ。しかしながらこれほどまでとは。恐れ入ったよ大将、いやマスター。だてにウエスタンハットを被っちゃいないな。それが似合うのは、プロレスラーのスタン・ハンセンとマスターくらいなもんさ。おっとそんな雑念は無用、とばかり音楽に耳を傾ける。それはそれは、こうして音楽に身を委ねるのは初めての経験だったかもしれない。まるで音が身体の中へと染み込むような感覚だった。酔っていても音楽って沁みるんだな。
 あなたは頬杖を付いて目を閉じながら音楽に耳を傾けていた。ちょうど頭上にあるダウンライトの明かりがあなたを綺麗に照らしていた。美しかった。
 弱々しいダウンライトの下にいる相手を酔っているときに見ると何倍にも映えて美しく見える瞬間がある。それはおれの場合、正面から見る場合に限る。おれの位置からはあなたが横からしか見えないから、正面から見るにはちょうどカウンターの中から見えず、何とか正面からあなたを見たい衝動に駆られるが、そのためにはカウンターの中に入る必要があり、ちらりとマスターを見るがマスターは睨みを利かすので、無理。マスター、あんたはベストポジションから見てるのか。いいところを独り占めかい。そりゃねぇだろ。頼むぜやっこさん。こっちの動揺を悟らせまいと咳払いをひとつしてから、黙って煙草に火をつけようと手元のライターを取り、かちかち鳴らすがなかなか火が点かなかった。そうこうしているうちに《デスペラード》は終わる。あなたとマスターはイーグルスについて盛り上がっているようで、その後何をかけてほしいかと訊くマスターの言葉に、あなたはあれやこれやと知らないバンドの名前を次から次へと答えた。
 ちょっと、おれは置いてけぼりかな。どうしてあなたはこういうときにおれに尋ねてこないの?
 おれはね、さっき二人で話をしていたオアシスを次にかけて欲しいんだよ。後生だからさ。とりわけ《ドント ルック バック イン アンガー》を聴きたいんだ。この音響でさ。この状況で聴いたらきっと泣いちまうなァ、そしておれはいつかこのシーンを思い出して、ふと泪を目に滲ませるんだろうな、と心ん中で思ったところでその後の記憶はすっ飛んだ。その先、一切覚えちゃいない。
 その後で見た夢の中でだろうな。《夢のカリフォルニア》をステージの上でマイクを持ち、熱唱しているおれがいた。あなたもマスターもおれの歌声に酔いしれていた。おれはもう気分良く声を張って歌っていた。オーリインザブラーウン、アンダスカーイザウェーイ、アビーフォアウォーク、サッチャウインターズデイー、あららもう、たたたL A〜、カリフォルニアドリーム。

 ⌘ 3

  計り直した体温計の数値をもう一度確認をする。熱はないが胃がムカムカして頭もガンガンする。完全なる二日酔いだなと独りごち、冷蔵庫からミネラルウオーターのボトルを取り出してにラッパ飲みをしたら、冷たい水が喉元過ぎたら頭がキンキンしてかえって状態が悪化したように感じる。腹をさすりながら、腹が減っているのか、または二日酔いで腹の調子が悪いのかがはっきりとわからない。おでん屋で呑む前に《ウコンの力》を飲んだのに効果がなかったのか。しきりにそれを勧めてきた有希子さんを恨めしく思う。
 まぁそれよりも、記憶が飛んだ後で家までどうやって帰ってきたのかで、一人であの場所から帰って来れたとは到底考えられない。記憶がないのだ。バーで呑んだ後のことがすこんと抜け落ちている。財布の中をみて紙幣の数を確認するが、一体昨晩はいくら使ったのかもわからない。千円札が五枚入っているが、はじめにいくら入っていたのかも思い出せない。タクシーに乗って帰ってきたとして領収書も見当たらない。意識がない中でもし一人で帰ってきたのだとしたら、それは奇跡的なことだ。よく生きていられたものだと冷や汗を感じる。でも本当にどうやって? 恵比寿からはさすがに一人じゃ帰れない。
 昨晩の状況を聞こうと有希子さんに何度も電話をかけるが一向に繋がらない。何をしているんだ? 寝てるのか。有希子さんがちゃんと帰れたのかも心配だ。
 携帯電話の画面に表示されている時間を見ると午後一時五分前。気が早ってもどうしようもないので、とりあえず有希子さんからの電話を待つことにした。
 テレビのスイッチを入れる。どのチャンネルも年末の特番をしていた。リモコン片手にチャンネルをかえていき、面白そうなものを探すが見つからない。こたつに入って横になっていると、ぬくぬくして暖かく、うとうとしてきた。まだ寝たりないのか。自然に瞼が下がり眠りにつこうとしたとき携帯電話が鳴り、はっとして目を開く。バイブレータにしていたため、こたつの天台と擦れてかまびすしい音が鳴る。取ろうと体を起こそうとするが体に力が入らない。何とか手を伸ばして携帯電話を手に取った瞬間音が止んだ。母からだった。すぐに電話をかける。
「今日は何時に来るの?」
 開口一番、母はそう言った。
「いつもと同じで夜八時頃になると思う」
「え? もうちょっと早く来られないの? 」
 理由を訊くと、母は姉が来ると答えた。姉とはおれの姉だ。正月は滅多に帰ってこない姉がどうしたのか。まさか結婚? 
「それだったら嬉しくて赤飯炊くわよ」
 母の気持ちのこもった言葉だった。そうではなく、先日アイルランドに旅行したときのお土産を持っていくのが今日しかないという理由らしい。
そして姉は六時前には来るという。
 少し早く行くよと伝え、昨晩呑みすぎたことを続けて話すと、
「そんなこと毎年言ってるじゃないの」と母はため息をこぼした。そう言われればそうかもしれないな。
「今日はあんまり飲みすぎないでよ」
「あゝがんばるよ」
「それも毎年言ってるわよ。それで酔い潰れるまで呑んでたらさ進歩ないわね」
「年越しくらいいいじゃん」
 母は鼻で笑って、
「じゃあまた今夜ね。早めに出るんだよ」
 そう言い、一方的に電話を切った。
 毎年恒例で年越しは実家で家族と過ごす。二十歳を過ぎてからも変わらない年越しの過ごし方で、それは社会人になって一人暮らしを始めてからも変えてないし、恋人や友人との約束よりも優先させてきたことだった。
 もう一度、有希子さんに電話をかけてみる。今度は長めにコール音を聞いて出るのを待ったが、出なかった。あきらめて携帯をこたつの天台に起き、また先ほどと同じ体勢になると、そのうち何度も欠伸が出た。まだ時間があるからもう少し寝ようかなと考えている間に眠りについていた。

 ⌘ 4

  アルバイト先であなたと出会ったのはおれが二十一のときで、渋谷にある焼肉屋だった。駅からスクランブル交差点を渡り、センター街からロフトのある路地を抜けて、通りを渡った先にその店はあった。店はランチもやっていて近くの勤め人が多く来たし、夜は芸能関係の人も来たりして、情報誌にも掲載されるようなそこそこ名の知れた店であった。
 おれより先にあなたはその店で働いていて、はじめは綺麗な人がいるなぁと思うくらいの印象だった。ただ一目で他の人とは違うとわかった。あなたがいるだけで店の雰囲気が華やかになったし、店の社員もそう言っていた。だからあなたは週一二回しかアルバイトに来ていないのに社員たちに可愛がられてた。
 その店で、焼肉屋でおれはホールのウエイターをしていて、白いワイシャツに黒のスラックスと黒のベストという格好。女子は膝までの黒のスカートて上は同じだった。まぁとにかく店は常に目がまわるほどの忙しさで、カオスという言葉がぴったりくる職場だった。業務中は他の従業員とおしゃべりをして余裕をかますような暇など一ミリもなかった。てんやわんやで毎日がお祭りのようだった。客への提供が滞ると厨房の血の気の多いほとんどやくざみたいな顔の男たちから、早く持って行かんかいボケ〜と怒号が飛ぶのはしょっちゅうだったし、肉が載った皿でも落とすものなら、てめえこの肉が一体いくらか知っとんのかボケ〜とその場で殺されんばかりの叱責を受けた。男女関係なくだ。泣いた女性のアルバイトを何人見たかわからない。耐えきれずすぐに辞めてしまうものもいた。そりゃそうだ。あらゆる面でキツい仕事なのだから。ただその分時給は良かった。でも割に合わないと言って次々と辞めていくのだ。店のスタンスとしては去る者は追わない。あゝそうですか、じゃあまた。そんな軽い口調で店長は慣れた対応で処理する。まるで山積みの書類を処理印でぽんぽん捺すみたいに機械的に手際よく。渋谷という立地柄もあって、アルバイトの人数で困ることはなく、常に人員は補充されていた。しょっちゅうアルバイトの面接をしていて、とにかく人の入れ替えが激しい店だった。
 おれは大学が終わった後の、夜の勤務が中心だったが、大学が休みのときなどは昼にも働いていた。だから昼をメインで働いているあなたとはたまに顔を合わせるくらいではじめのうちは話した記憶などまったくない。きっとあなたも同じだと思う。
 あなたが小さな劇団に所属していて脚本を書いているのだと知ったのはもっと後のことで、その当時のおれはあなたのことをどこかの芸能事務所に所属するモデルとばかり思っていた。可愛いし、人望もあるし、他とは違うオーラがある。自分とは違う世界に生きている人なのだろうと勝手に決めつけていた。一番の驚きは、年齢がひとつだけ上だったことだ。あなたは大人びて見えたし、色々な経験をたくさん積んでいる女性に見えた。
 年齢のことはさておき、まさかこの後あなたとの関係が深くなるだなんて、このときはまったく思いもしなかった。本当に男女の関係は離れていても思わぬところで接近する。要はその接近したときに、その時の感情やタイミング次第でより近づくか、離れていくかだろう。おれとあなたは前者の方になった。
 距離が縮まったきっかけはある映画だった。
 昼の勤務を終えた後、従業員専用の出入り口から出て行こうとするときに、あなたに呼び止められた。おれは驚いた。そのときが初めてまともに会話をしたからだ。そりゃ胸はどきどきしたし、しゃっちょこばって、もごもごして口から出る言葉もまたふわふわした。間近で対面するとあなたは本当に綺麗で、その声も女性にしては低い声だが良い。
 ──この後暇ならさ、映画観に行かない?
 予期せぬ言葉が来た。まずはアルバイトの連中みんなでドッキリ企画をし、おれを辱めようとしているのだと考えた。物陰に隠れている輩がいるか眼をきょろきょろさせるが、それらしき人物はいない。
 本当はその映画を今日この後友人と観に行く予定だったけど、ついさっきその友人にドタキャンされたらしく、チケットが余ってて一枚無駄になるから暇だったらどうかとあなたは言う。その友人がドタキャンした理由は恋人関係で、あたしの映画が彼氏に負けたよと頭を抱える仕草をする。
 それでもおれはいったん断った。みんなの人気者でアイドル的な存在のあなたと映画など行ったらどうなるか。男性陣から総スカンを食らうことになるに決まってる。ましてやバイト歴の浅いおれだ。おれが完全にあなたをそそのかして誘ったということになりかねない。そうしたらおれの居場所はなく、まぁ業務中は多忙につき喋ることはないとはいえ、完全におれの言葉は無視され、空気化した存在になり居場所がなくなる。そんなリスキーなことはできん。
 ──それなら大丈夫だよ。みんなには内緒にするから。
 と笑みを浮かべて、行こうよと誘った。
 秘密にするとは言え、そういう類のことは守られた試しがない。秘密にしようよと言った本人がさらりと破ってしまうことが常だ。どうすればいいか迷った。
 でもあなたはそこのところをなんとか、と手を合わせて懇願する。その映画はその日が上映の最終日で、どうしても観たい映画なのだと困った顔をする。それなら独りで観に行けばいいじゃないですかとは言えない雰囲気になった。バイト先には他に仲の良さそうな人は山ほどいるのにどうしておれなのかと疑問に思ったが、仲の良い人たちは今日出勤はしていて行けないそうだ。結局一緒に行くことになった。
 長くなるから映画の内容などは割愛するが、でも間違いなくその映画の後からだったと思う。あなたから誘われることが多くなった。
 バイトの後、一緒に帰ることから始まり、そのうち二人で呑みに行くようになった。休みの日は映画や買い物などに行き、一緒に過ごすことが増えた。バイト仲間からは、お前ら付き合っているんだろと冷やかされたり、あなたのことを好きだと公言していたある先輩から意地悪をされたことも数えきれない。好意を寄せる男はたくさんいたのにどうしておれと遊ぶのか。そんな疑問はあったが、一緒にいて楽しかったし、いろんな場所に行く(連れまわされると言った方が正しいか)のも面白かったからあれこれと煩わしいことを考えるのはやめた。あなたは世間知らずな田舎者のおれに広い世界を見せてくれたし、見識をも広げてくれた。
 おれはあなたのことがどんどん好きになっていった。あなたの笑顔を見ると胸がきゅんとなった。きゅんとなるたび、テレビドラマの《東京ラブストーリー》の曲の出だしみたいに、とぅるるんと心に音がした。それが本物の恋心だと気づいたのは、もっと後のことだった。

 ⌘ 5

 大学を卒業して就職をした年に、あなたはおれの生活から突如いなくなる。
 学生時代の延長のような感覚で社会人になったおれは仕事に対して不誠実で、寝坊して会社に遅刻をしたり、たまに仮病を使って休んだりした。つまらない仕事ばかりでやる気が起きなかった。上司から、いつまで学生気分でいるんだと懇々と説教をされたことも一度や二度とじゃない。ため息ばかりついていた。
 同じ職場で同じ仕事の繰り返しと単調な日々。週に二回の休みは自宅でだらだらと過ごした。気晴らしに外出することもなかった。家にいると昔のこと、学生時代のことを思い出すことが多くなり、過去を羨んだ。どこか自分の人生は別の場所にあって今のおれはかりそめだと思った。
 しかし日が経つと、別の場所に行っても一体何があるのかという感情を持つ。転職をしても何もないではないか。やりたいこともないし、何をやっても同じではないか。そしてまた日が経つと、今の生活はかりそめだと思う。そんな二つの感情がぐるぐると繰り返されることになる。
 四月後半からの大型連休の後、六月から梅雨に入り、曇った日が続くようになると気持ちはさらに塞いでいく。夏になり天気と同様に気持ちは幾らか晴れたが、逆に茹だるような暑さに耐えきれず気持ちは滅入ってしまうこともあった。
 そして時間が経過していく。一年が経ち、二年、三年と、あっという間に流れていった。仕事にも大分慣れた。このまま年を取って、三十過ぎくらいにそのとき交際している誰かと流れで結婚するかもしれないなとぼんやり思う。
 会いたいが、連絡を取る手立てがない。いなくなった当初携帯は繋がらなかったし、一か月もしないうちに、この電話番号は現在使われておりませんのアナウンスが流れた。住んでいた部屋もすでに引き払っていて、マンションの管理会社に連絡を入れ引っ越し先を教えてもらおうとしたこと数十回。個人情報は教えられないと一蹴されても諦められず食い下がった。悲劇の男を演じて電話に出た社員の情に訴えもしたが、ストーカーと間違われ、しまいには警察に通報された。
 昔の友人たち、携帯に登録していた渋谷の焼肉屋で働いていた人たち全員に連絡をとったが、繋がった何人かの人たちは、あなたからの連絡はまったくないと口を揃えて言った。
 万策が尽きた。そのうちひょっこり現れるだろうと期待しながら待つが、一向に連絡はない。時間だけが過ぎていき、そのうち諦めの感情になる。
 その後交際した女性もいた。でもその関係は長くは続かなかった。決してその女性の前では口には出さなかったが、どうしてもあなたと比較してしまう自分がいた。自分から身を引くように連絡を取らなくなり、その女性と別れた後は仕事に没頭するようになった。

 ⌘ 6

 そして五年の月日が流れたある日、知らない番号から一本の電話が入る。
 ──久しぶり。
 相手の主が名乗らずともにすぐに声で誰だかわかった。一瞬息を飲んだ。声がすぐに出ない。その後に続くあなたの声のリズムが懐かしい響きとなって耳から全身へ広がるようだった。話をしているとあなたであることはわかった。飛び上がるほど嬉しかった反面、どこか心から喜べない自分もいた。あなたは静かな口調で話を始めた。
 ──昨日さ、全部おしまいにしたんだ。そうしたら、ふと君の顔が浮かんでさ、懐かしくなってね。
 ──おしまいって何を?
 ──全部、あたしが抱えていたもの全部。
 ──言ってることがよくわからないよ。
 突き放すように言ったら、あなたは無言になった。
 ──怒ってるよね?
 ──そりゃそうだよ。一体何年経っていると思ってるんだよ。
 ──ごめんなさい。
 ──別に謝らなくてもいいよ。これまでどこで何をしていたのかだけは、きちんと説明してほしい。
 ──わかった。電話で話すと長くなるから直接会って話したい。
 昔のおれなら二つ返事ですぐに会っただろう。妙な駆け引きをしているようで気が引けたが、今回は日を置いてから会う約束をした。いろいろ考える時間も欲しかったからだ。
 あなたと会うまでの期間は仕事をしててもどこかうわの空で集中力を欠いたのも事実。いつも同じように流れ過ぎてゆく日常はなくなった。あるひとつの要素が通常の日常に入り込んでくるだけで生活のリズムはがらりと崩れる。同じ日常に慣れてしまったおれにはきついことだった。若ければあれこれ考えず日々楽しい方向で物事を考える節はあった。しかし仕事が生活の中心になった今、楽しい方向に極端に依ることはできなかった。結果、仕事に没頭すれば疲れてぐっすり眠れるだろうと思ったが、結果的に寝不足の日々を送った。

 ⌘ 7

 五年ぶりに会うあなたは申し訳なさそうに俯きながら、何度も謝り、会話中ほとんど目を合わせない。東京を離れた後は実家の新潟に帰り、実家から自転車で一〇分の距離にあるスーパーのレジのパートをしながら、朝と夜の決まった時間に脚本を書くことに没頭していたと目を潤ませて語る。そう今回突然いなくなったのは、脚本家になるため執筆活動に真剣に向き合うためだった。来る日も来る日も真剣に脚本に向き合った。しかし公募の賞に書いた作品を送っても良くて二次通過止まりで、それ以上はなかった。落胆する日々。それでも自分を鼓舞して書き続けた。それで気がついたらもうすぐ三〇になる。あなたは振り返る。その期間は実のある期間だったのかと。色んなものを捨ててまで賭けるようなものだったのかと。五年もの時間をかけて芽が出ないようならもうこれから何年やっても無駄だ。あなたはひとつの核心的なことを理解できた。
 何か物語を書くのにも、はじめから持って生まれたセンスがあるんだって気づかされたと涙目で語るあなたの表情は寂しそうだった。いや、寂しいと思うのはおれ自身で、きらきらしていたあの頃のあなたが、どんより黒いものにまとわりつかれているようでやるせなかった……

そんな暗い再会シーンを想定して、励ましの言葉を考えていたが、まったくの逆で、久しぶり〜元気にしてたかい、と肩をどつき、明るいテンションで再会の場面は始まる。
 まるで昨日も会っていたような話しぶりで、こっちの調子が狂った。想定と合っていたのは脚本の執筆のみで、劇団員の活動はきっぱり辞めたという。五年もどこで何をしていたのかと問うと、宮古島で暮らしていたと答えた。宮古島? と思わず聞き直した。
 ──きっかけは君がつくったんだよ。
 宮古島の隣にある島が、おれの育った場所だった。日本地図で見たら豆粒ほどの大きさでしかない小さな島だった。記憶はいつだって美化される。そんな小さな島だったが、おれには宇宙の広さを感じさせるものだった。崖から一望できる蒼い海、白い砂浜がある海、大きな穴ぼこが空いた二つの池、夕暮れどきの海へと沈む太陽、鐘の音。いろんな風景がおれの身体の中に存在している。
 島で過ごした一〇年はどこか甘美でいて、鈍色だ。美化される一方で、どこかそこから東京へ逃げ出してきた感覚も捨てきれないでいる。いろんな人たちにサヨナラを言えずおれは町を出て、東京で暮らし、東京の人になろうとした。
 東京へと経つ飛行機の窓から初めて見た島の形と、その緑と茶と青の色はずっと忘れないだろう。一〇才のおれはその飛行機の中で、島に永遠の別れを告げたのだ。
 そんな話を確かにしたこともあっただろう。些細な話だったと思う。あなたはその話がどこか心の中に残っていて、一度どういう場所かを直で見たかったと言う。行ってみたらとても心を揺さぶられる場所で三泊のつもりが、そのまま帰らず五年もいるとは自分でもゆめゆめ思わなかったと熱弁した。連絡できなかったのは、島に渡った初日に携帯が海に水没して壊れたため、連絡が出来なかったらしい。知り合いの電話番号や住所などの連絡先はすべて携帯電話の中に一元管理をしていたことが仇となり、家族以外の誰にも連絡が出来なかったということだ。
 こっちで住んでいたマンションの部屋は家族に頼んで解約の手続きをして家財などの必要なものは実家へ送り、要らないものは引っ越しの業者に引き取ってもらったという。実家の連絡先を教えておけばよかったねと軽い調子で言うから、おれがどれほど心配したかと声を荒げると、本当にごめんなさいとあなたは頭を何度も下げた。険悪な雰囲気になっても仕方ないとおれは深呼吸を数回した。
 その後、カバンの中からあなたが取り出したのは、一〇〇〇枚はあろうか、ものすごい量の写真で、それらをテーブルの上に広げた。それらはつまり島で暮らしていたことを証明するものだった。身振り手振りで興奮気味に話すその様子は、本当に島に魅せられ、その暮らしが充実していたことを物語っていた。その写真の一枚一枚に日付が印字されてあり、確かにいなくなった期間と合致していた。
 すっかり彼女のペースで五年ぶりの再会を終え、自宅に戻った後、これまでの自分の悩みは何だったのかと考えているうちに眠りについていた。
 将来は宮古島で一緒に暮らす……。
 あなたとのそんな将来をぼんやりと考えた。そう考える理由のきっかけはもうひとつある。それはこの再会の夜に見た一枚の写真だった。火が灯った蝋燭がつけられたケーキを前に笑顔で映る写真で、その日付が目に飛び込んできて、息が止まった。
 ──これ、有希子さんの誕生日ですか?
 あなたは頷く。写真に記された日付なのかきくとそうだと答える。
 ──同じ誕生日だよ。
 ──え? 誰と?
 ──おれと。
 あなたは目を丸くする。
 ──ホントに⁉︎
 おれは財布の中から免許証を取り出して見せた。あなたは何度も頷いて、
 ──君はあたしの運命の人なのかもしれないね。
 と笑顔を浮かべた後、でもなんか出来すぎていて怖いなと苦笑した。
 知り合う男女が同じ誕生日という確率は一体どれくらいだろう。奇跡としか言いようのないこの出会いは運命なのか。
 出会い、別れ、そして五年の月日を経て再会する。偶然ではなく、必然。会うべくして会ったのだ。運命の神様が引き合わせてくれたのだ。ただそんな運命という言葉にかこつけて、五年間の彼女の不在を、その間に感じていたあなたに対するおれの気持ちを帳消しにするのかどうかの葛藤もあったが、色々考えて悩んでももう仕方ないという気持ちにもなり、結局のところもうあれこれ考えるのはやめようと結論を出した。

 ⌘ 8

  午後四時過ぎに目が覚めた。身体を起こして背伸びをした。携帯を手に取り画面を見るが着信はない。もう一度有希子さんに電話をかけるが、今度は電源が入っていないというアナウンスが流れてくる。
 それからお湯を張って風呂に入った。だるさはまだ身体に残っているが、時間が経って酔いがさめたのか、胃のあたりに感じていた気持ち悪さはなくなっていた。
 風呂から上がると髭を剃り、ドライヤーで髪を乾かしている間、この部屋の更新時期が近づいているのを思い出した。この前不動産屋から電話があった。更新をしない場合は次の入居者の準備があるため、早めに更新するかしないかを決めてほしいと言われ、その回答を年明け早々にほしいと言われた。感情のない機械的な若い女性の言葉だった。その場では決断をせず、その期日までには決めますとその担当者には伝え電話を切った。

 ⌘ 9

  着替えを済ませて午後五時。本棚から日記帳を取り出して開く。この五年日記帳は毎日ではなく気が向いたらときにだけ書くようにしていた。ばらぱらと過去に遡って見返していると、土日に記述が寄っている。仕事の後だとどうしても書くのが億劫になるから、文章は週末に集中をしている。しかも思い出すようにその週にあったことを記しているため、それは日記というよりも週記と呼んだ方が正しいかもしれない。
 自分の想いを書くと文が重くなる、という有希子さんの教え通りに、行動や食べたものなどを中心に簡潔に書くことをルールと決め、またその年の終わりに必ず一年を総括する長め文章を書くことを続けてもう三年にもなる。
 いろんなものはみんな外部からやってくる。自分の内部から芽生え、生まれたものなどひとつだってありゃしないだろう。もちろん中には自らが新しい革命的なものを生み出す天才は存在するけど、それは例外で、そこを求めちゃいかん。そりゃ天才に誰もがなりたい。でも大半はなりゃしない。では何をもって成功というのか。お金持ちになることや結婚して明るい家庭を築くこと、それは人それぞれ捉え方にもよる。
 人はひとりでは成功できない。いろんなものは外部からやってくると言ったが、それは周りの人たちだ。成功のためには運も必要になる。運や縁もまた外部から運ばれてくる。運が良い人は誰だって周りにいる人たちが良い運を、文字通り運んでくるのだ。
 その観点で考えると、その人の人生をつくるのは環境だ。すべては環境が左右する。つまり周りにいる人で決まる。影響を受けたもの、その考え方やその価値感はすべて誰かの受け売りなのだから。みんな外からやってくる。人であれ、ものであれ、「あ、なんか感じが良いな。それ好きかも。自分と似てる」と思った感情は、みんな愛につながっている。最後いきなり愛に飛ぶその論理展開は、今でもまったくの意味不明だが、そうおれに教えてくれたのは、有希子さんだ。

 ⌘ 10

 日記を書こうと思ったら携帯が鳴った。
 知らない番号だった。急いで電話に出ると、有希子さんの声ではなく女性の声。電話の主は「池澤貴子です」とすぐに名乗った後、こんなときに本当にすみませんと申し訳なさそうに声を出す。彼女は勤めている会社のアルバイト従業員だった。
「昨日もメール送ったんですけど、確認されてますか?」
「ごめん。昨日忙しくてメールをみていないんだよ」
  メールの通知には気づいていたが開いていなかった。急ぎの用なら電話をくれるだろうと思ったのもある。
 事の経緯を詳しく聞くと、店長の身内にやんごとなきことが起こり、急いで田舎に帰らなければならなくなった。昨日は早めに仕事を切り上げ、その日のうちに新幹線で実家のある京都へ向かったという。店は年明け四日から営業を始める。その日は店長が早番で店を開けることになっていた。店長の出勤が無理になったことで、代わりに社員であるおれに出勤依頼のメールを昨日店長が送ったが、連絡がないため困り果て、結果的に直に届ける話になり、その届ける役を昨日出勤していたアルバイトの中で、比較的家が近いという理由だけで彼女が選ばれたらしい。特に予定はなかったんで大丈夫ですよ、と彼女はそう言うものの今日は大晦日。予定がないと口にするものの、本当はどうか。なかったとしてもゆっくり自宅で過ごしたかっただろうに。まずは彼女に詫び、すぐに行くからと電話を切り、自転車をこいで駅まで急いだ。
 赤いコートを着た彼女は駅の改札口のそばにあるキヨスクの前で立っていた。仕事中は髪を束ねている姿しか見ていないからか、髪を下ろすと雰囲気が全く違ってみえる。向こうがこちらに視線を送らなかったら気づかなかったかもしれない。すぐに駆け寄ると彼女も近づいて来た。
「ごめんなさい。待たせてしまって」
 そう声をかけると、彼女はぱっと笑顔になって、あゝ良かったァと安堵の声を出す。
「ここまで来て新川さんが来なかったらどうしようかと思ってました。一応新川さんの住所、店長から聞いて控えてたんですけど、わたし方向音痴で家までたどり着く自信がなくて」
  彼女は早口でそう言った後、コートのポケットから茶封筒を取り出して手渡す。礼を言って受け取ると一応中のものを確認をした。ハワイのお土産で椰子の木の形をしたキーホルダーが付いている、間違いなく店の鍵だった。
「大変だったでしょ?」
「家からここまでそんなに距離ないので大丈夫ですよ」
「このままサヨナラするのも悪いから、お茶でも一杯おごらせてよ」
「いえいえ、このお使い分のお金は頂いているんで気にしないでください」
 彼女は頭を下げて断るが、それではおれの気が収まらないともう一度お願いした。
 少しだけならと彼女は了承してくれて、駅前のファミレスに入った。大晦日だから空いていると思ったら意外にも店内は混んでいて、空席はほぼない。案内されたのはカウンターの席だった。店内を見まわすとカウンター席以外は客で埋まっている。
「意外と混んでますね」
「そうだね」
 彼女は赤いコートを脱ぎ、きれいに折りたたんで隣の席に置いた。白のタートルネックとジーンズというラフな格好をしていた。仕事以外で、ましてや私服で職場の人間と会うことなど本当に稀だった。彼女とも業務的なことを話すことはあっても、それ以外の話をまともにしたことはなかったかもしれない。
 店員にコーヒーをふたつ注文した。ケーキやパフェなど甘いものは好んでは食べないと彼女はコーヒー以外は注文をしなかった。遠慮しなくて良いよと言いかけたが、さすがにしつこいと思い、言うのをやめた。
 誘ったものの話す話題がないのではないかと若干心配ではあったが、彼女はよく喋った。沈黙の間を嫌い会話で埋めるようなタイプではなく、元々話好きなのかもしれない。職場では学生のアルバイトが多く、社会人経験のある年長者の彼女が学生たちと話しているような場面はあまり見たことはなかった。かと言って浮いているような存在でもなく、淡々と仕事を卒なくこなすタイプで、仕事では頼りにしていた。無口な印象だったが実際は違う。やはり話さないとその人となりはわからないんだと思うとある言葉が脳裏に浮かぶ。
 ──先入観で人を図るな。
 有希子さんにそう教えられたではないか。忙しさにかまけて従業員とのコミュニケーションを疎かにしていた自分を恥じた。
 話の中で彼女の色んなことを知る。うちの店で働く前は、正社員で美容師をしていたこと。原宿の有名店でスタイリストをしていたこと。その店を人間関係が原因で仕事を辞めたこと。実家が函館だということなど。しかし一番の衝撃な話は、彼女は年下ではなく、同じ年齢だったことである。また彼女は自分がおれと同じ年齢であることを知っていた。学生アルバイトたちが話していた会話を耳に挟んだらしい。あまりにも彼女が同学年だということに驚いていたので、私そんなに老けてますか? と真顔で訊いてくるから、むしろその逆で若く見えるのだと慌てて答えると彼女は笑顔になった。あたふた姿を見せてしまって恥ずかしくなる。
「同じ年齢だったらさ、今度から職場以外はタメ口でいいよ」
「急にタメ口になったらおかしくないですか?」
「そうかな? 別に構わないよ」
「そうですか、わかりました。ま、それは追々ということで」
 店内の壁時計を見ると午後六時を過ぎていた。あっという間に時間が過ぎた感覚だった。一時間近く彼女と話していたことになる。そのまま実家に行っても良いかなとふと思ったが、こたつのスイッチを切ってきたのか心配になった。部屋の電気も消してきたのか自信がない。やはり一度部屋に戻らなければいけない。携帯画面を確認するが着信表示は着信はない。
「すみません。そろそろですよね?」
 彼女の声で我に戻る。
「あ、ごめん」
「この後、デートですか?」
「いや実家だよ。毎年年越しは実家で過ごしているんだよ」
「へぇ〜そうなんですね」
「池澤さんは? 函館に帰省するの?」
  彼女は首を振る。
 あまり踏み込んだことを訊くのは控えて、そろそろ出ようとかと声をかけて席を立つ。会計を済ませ、外に出ると冷気が一気に身体にまとわりついてくるようだった。
「寒いですね」
「ほんと寒い。寒暖差で風邪を引くね、これは」
「この後予報では雪になるらしいですよ」
「ほんとに? 通りで寒いわけだ」
 吐く息が真っ白だ。振る前に実家に行かなければ。
 駅までの道すがら、年越しはこっちで過ごすのだと彼女は言った。勤めていた美容室を辞めたことを家族に伝えていないので今年は帰らないそうだ。今の仕事は生活のための繋ぎで、年が明けたら就職活動を再会し、三月から四月を目処に美容師の職に復帰する。元々そういう条件で彼女を雇ったことは店長から聞いていた。
「次の職場に就職が決まったらすぐに伝えますね」
「あゝそうだね。そのときは再就職祝いをしよう」
「ホントですか? 約束ですよ」
「もちのろん」
「なんかその言い方、年を感じますね」
「そう? 普段良く使うよ。年を感じるって同い年じゃん」
「そうですね、同い年だ」彼女は風で乱れた前髪を整えて、「私、覚えてますからね。忘れたと言ってもダメですよ」
 この何気ない会話の約束が後々繋がることになると、このときのおれはまだ知らない。
 彼女を駅まで見送った後、再び自転車をこいで部屋に戻る。

 ⌘ 11

 みんな自宅でくつろぎながら家族で紅白でも見て過ごしているのだろう。通りを歩く人の数が部屋を出たときよりも極端に少ない。自宅前の交差点で信号待ちをしていたときに、部屋を見ると部屋の電気が付いていたので、やはり消し忘れてしまったのだと急いで部屋に戻る。マンションの駐車場に自転車を置き、マンション入り口ドアのオートロックを解き、エレベーターで上がる。電気を消したらすぐに実家に行こうと思った。部屋の扉を開けて中に入るやいなや、心臓が止まりそうなほど驚いた。有希子さんがベッドで寝ていたのだ。音で気づいたのか身体をゆっくりと起こし、おかえりと寝起きの声で言う。
「ごめん。少し寝かせてもらった」
「ずっと連絡が取れないから心配したんだよ。どこ行ってたの?」
「ごめん。携帯なくしちゃってさ」
  とあなたは苦笑した。
 昨晩酔い潰れたおれをタクシーでこの部屋まで送った後、また自宅まで戻るタクシーの車中にどうやら置き忘れたらしい。ひどく酔っていたからタクシー会社も覚えてなく、あたしの番号からかかってきていないかを確認するが、きていないと首を振ると、あなたはそっかと弱々しい声を出した。
「もしかしたらここに忘れたかもしれないって密かな期待もしたけどね」
 でもタクシーに置き忘れたのなら、今日何度も電話をかけているから気づくはずだと言うと、大晦日だからタクシーの運転手さん休んでる可能性だってあるじゃんとあなたは微笑む。
 ま、気長に待つよ。君が心配していると思ったのもあるし。大晦日のこの時間に、この状態で、君と過ごしているのもまた初めてだから、妙な感じがするね。この後、実家に行くんでしょ?
 おれは頷く。
 あなたは仲の良い友人と一緒にカウントダウンライブに行く予定だったが、なんだかそういう気分にはなれないと言う。友人にもライブに行けなくなったこと伝えなければいけないが、携帯がないため連絡を取る手立てがない。今頃あなたの携帯ばんばん鳴ってるはずだね。財布の中から、ライブのチケットを取り出して、もったないことをしたと残念そうな表情でそのチケットをテーブルの上に置く。その友人にこれを渡しておけば、誰かが行けたかもしれないねと独り言のように呟き、昔初めて一緒に観た映画の話を突然した。
「あのとき映画に行けない友人からチケットをもらって、君と映画に行くことになったけど、今度はあたしの手元にチケットがある。これを届けてあげたら一緒にライブに行くはずだった友人も知り合いと行けたのかもしれないね」
「その人の家、知らないの?」
 あなたは首をふる。
「やっぱり連絡先は手帳とかにメモしておくべきだね。ホント今年の終わりにして、今年最大の失敗をしてしまったよ。友だちが一人で会場に待っているのかと思うと居た堪れない」
「そのままうちに泊まっていけば良かったのに。そうしたらここで寝れて携帯を無くすことはなかった」
「そもそも君が酔い潰れるから悪いんでしょ?」
 あなたは鋭い目で睨む。そう言われると言葉も出ない。
  あなたは声を出して笑った。
「ごめんごめん。ちょっと意地悪なこと言っちゃったね。確かに君の言うことも一理ある。あたしさ、どうしても着替えたかったんだよね。どうしてだろう。頭の中、着替えることでいっぱいだった。着替えなきゃ着替えなきゃって、あなたを送るタクシーの中でもそのことばかり考えてた。でもさ、よくよく考えれば駅ナカの100円ショップで下着くらい買えたんだね。そう思うと戻る必要なかった。ここにいてさ、店が開く時間まで我慢すれば良かったと本当に後悔したんだ。酔っていると思考が正常にまわらないネ」
 確かに昨日とは服装が違う。ただ化粧っ気がなく、ほぼすっぴんだ。ここに来た時間を訊くとおれが飛び出して行った時間のすぐ後だったから、おそらくすれ違いだったことがわかった。
「で、さっきまでどこ行ってたの?」
 優しい口調であなたは尋ねる。
 かいつまんで経緯を説明すると、そうなんだと興味がなさそうに答えた後、煙草をくわえ、ライターを探す素ぶりをみせた。おれは近づいて、取り出したライターで煙草に火を点けてあげた。そのときあなたの身体からお酒のにおいがした。
「シャワー浴びてないの?」
「やっぱり臭う? そっか。そうだよね。さっきまで呑んでたからね」
 左手で胃のあたりを撫でながらしかめ面をして、右手にもつ煙草の火種をぽんぽんと灰皿に落とす。
「昨日さ、君をここまで送った後、自宅に戻って着替えた後、あの店のマスターと別の店に行って知り合いたちと呑んだんだよ」
「え⁈ そうなの?」
「うん。あたしももう酔っててさ、それに眠いのもあってふらふらだったから、少し顔を出すだけにしてすぐに帰りたなったんだけど、なかなかね〜。場が盛り上がってしまって、帰るタイミングを逸してしまったの。結局、昼過ぎまで呑んでいた」
「でもどうやってマスターと連絡を取ったの? 携帯ないのに」
「実は昨日マスターが君を負ぶってこの部屋まで運んでくれたのよ。君をベッドに寝かせるとすぐに乗ってきたタクシーでとんぼ返りしたけどね。それにマスターが店からここまでの往復のタクシー代を出してくれたから、この後少しだけ呑みに行こうと誘われたときに、すぐに断りづらくなっちゃって。じゃあちょっとだけという流れになって」
「そういうことか。なんか有希子さんに申し訳ないことしちゃったな。ホントに申し訳ないです」
 おれは頭を下げた。
「おかげで携帯まで無くすしさ、最悪。この埋め合わせはいつかしてちょうだいよ」
「わかりました」
「軽いね〜、返事が軽い」
「そうですか?」
「で、何してくれるの?」
「一緒にライブに行く」
 咄嗟にその言葉が出た。じゃあポール・マッカートニーのライブにしようと目を輝かせて答える。何年後か来日するというが一番いい席を取ってほしいという。その席の値段を聞いてたまげた。ただ今更話をなかったことにはできないので、行きましょうと力強く言う。今度は軽いとは言われなかった。
 それからあなたはビートルズのことを語り、ビートルズの後は、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの話になり、それからなぜかゾンビーズの話になった。《シーズ・ノット・ゼア》はゾンビーズの最高のナンバーだとあなたは力説したから、棚にあったCDの中からゾンビーズのベストアルバムを取り出し、ミニコンポにセットしてその曲をかけた。
 ひとしきりの盛り上がりの後で落ち着いてくると昨晩からの疲れから、あなたは欠伸ばかりし出したので、少し横になればと提案する。おれの言葉に従い、もう一度ベッドに仰向けになった。ふうううと長い息を吐き、掌で目元を隠す。
 メールの着信音が鳴った。親父からだと思い、すぐに確認すると池澤さんからのお礼のメールだった。かたかたとメールを操作していると、有希子さんが、さっきの子?と尋ねてくる。そうだよ。なんだか嬉しそうね。仕事の人だよ。
「ねぇ、今夜は一緒にいてほしいとあたしが言ったらどうする?」
 あなたはおれを黙って見つめる。一瞬、その表情が淋しく見えた。
「じゃあ一緒に行こうよ。うちの家族に紹介するよ」
 とおれは提案する。
 そんなの無理だよとふっと鼻で笑う。こんな状態で会えるわけないでしょ。昨日からシャワーも浴びてないし、メイクだってろくにしてない。シャワーなら浴びればいいし、メイクなんかしなくても十分きれいだよ、大丈夫。あなたは少し考えるが、それでもやめとくと言った。
 一度決めたら有希子さんの気持ちは変わらない。その話題が終わるとお互い無言になった。おれは実家に行く準備を進める。準備と言っても着替えをナップサックに入れ、コンセントにささった携帯の充電器を抜き、コンタクトレンズのケースとオプティフリーもナップサックの中に入れただけだ。
「ねぇ、やっぱりテレビつけて。静かすぎて寝れないから」
 とあなたが言う。
 リモコンを手に取り、テレビの電源を入れる。NHKにチャンネルを合わせると、紅白歌合戦でちょうど演歌歌手が歌っていた。
「ねぇ、去年の年末ってあたし何してた?」
「カウントダウンライブじゃなかった?」
「いや、去年は行ってないよ」
「千葉の実家に帰っていたっけ?」
「それも違う。働くようになってからは正月ほとんど実家に帰ってないから」
  あなたは自信がなさそうに首を傾げる。
 あなたは仕事をしながら、仲の良い仲間たちとよく酒を呑む。あなたは気立ても良く、溌剌として誰からも好かれ、周りにはいつも誰かがいてわいわい過ごしている。そういう風に過ごすように仕向けているとあなたから聞いたことがある。予定が埋まっていないのは気持ち悪く、常に何かをやっていたりとか、人に会っている。
 でも一方で本当のあなたは実はものすごく人恋しく寂しがり屋な女性だとおれは思っている。再会から三年が経つけど、一緒にいる時間が増えていくたびに、おれはあなたのそういうどちらかというと陰の部分が愛おしくと思える。
 まだあなたはおれに、そのすべてを見せてくれていないような気もする。それはあなたもおれのことをそう思っているのだろうか。
  そんなことを考えていると、またメールの着信音が鳴った。今度こそ親父からだろう。時計をみるとあと一〇分で午後七時になる。これから家を出たとして、どれくらいで着くか。ざっとの時間をメールで返信しようと携帯をみると、また池澤さんからだった。今自宅に着いたことと、約束を忘れないでくださいねという念押しと、この後飲みすぎないようにしてくださいねと絵文字付きのメールだった。
「またさっきの彼女?」
「そう。今家着いたというメール」
  ありがとう、とだけ本文で打っておくった。
「ずいぶんと律儀な子だね」
「可哀想なことしちゃったからさ。さすがに無視できないでしょ? あなたが同じ立場だったらそうしてるよ」
 あなたは少し無言の後、そうだねと呟く。
「同い年なんでしょ? この年になると意外と新しい同い年の人と知り合うことってなくない? 身近にいた彼女が、実は運命の人だったりしてね」
 荷物を整えてナップサックを背負って、じゃあ行くからと声をかけた。
「良いお年を」
 とあなたは言って手を振り笑った。玄関の方へ歩き出そう一歩踏み出した瞬間にふと頭に浮かんだことがあり、それを言葉にした。
「春になったらさ、一緒に暮らそうよ」
 あなたは何を言われたか理解できないような表情をしておれを見た後、冗談でしょとくぐもった声を出す。
「本気だよ。ちょうどこの家三月で契約が更新になるしさ。一緒に暮らそうよ」
 あなたは無言で、ぼんやりと中空を見つめていた。言われて嬉しいのかどうかその表情だけでは判別がつかない。まだ酔いが残っているから冷静な判断は下せないだろう。答えは急がないから考えておいてほしい、と伝えてまた玄関へ歩いた。靴を履き終え、ドアを開けて出ようとすると、ちょっと待ってと呼び止められる。
 あなたはベッドから起き上がり、玄関で座り込むおれに近寄り、やっぱりあたしも行くよと弱い声だが、意志が込められた言葉を発する。
 その後、有希子さんの準備が終わるまで待つことになった。シャワーを浴びて、髪をドライヤーで乾かし、身支度をする。それだけでそれなりの時間が過ぎた。その間おれは紅白歌合戦を見ながら時間を費やす。親父から電話が入り、今何処で何をしていて、いつ来るのかを聞かれた。今日は珍しく姉が来ているという。姉と会うのは何年ぶりだろう。それだから今年は催促の連絡が遅かったのだ。

 ⌘ 12

 身仕度を済ませたあなたと一緒に外に出ると雨が降っていた。傘を取りに部屋に戻り、電車とバスを乗り継いでいくのも面倒になったので、
 電車だとさらに到着が遅れてしまうので、タクシーを拾い実家に向かう。タクシーの運転手は無口な人で行き先を告げるやりとりをしたくらいであとはずっと無言だった。さすがに車内がしんとしているのは息苦しかったので、運転手さんラジオつけてもらっても良いですかと言った。無口な運転手は何も言わず前方を見たままカーオーディオのボリュームのつまみをまわした。おれの位置からはその表情までは読み取れなかったが、言われて苛ついている様子はなかった。荒い運転になるわけでもなく、ただただ目的地に向かって進み、定期的に赤信号で止まってはまた発進するを繰り返した。時折眠気に襲われるくらい心地良い揺れが続いた。車内は暖房が効いていて暖かく、とろんとする感じがして目をつむるとすぐに眠りに落ちてしまいそうだった。実際有希子さんは実家まで半分も行っていないくらいの距離で微かな寝息を立てて寝てしまった。どうして気が変わったのか。
 おれの頭の中を支配していたのは、両親に、そこに姉もいる、あなたのことをどのように紹介するかであった。そのことが頭の中にぐるぐるまわった。結局妥当な言葉が見つからないから事の流れに任せようと思い、考えるのをやめて目を閉じた。素顔の有希子さんの寝顔をみて、美しい人なのだと思う。化粧しなくてもじゅうぶんに綺麗だ。
 カーラジオから年末らしいナンバーが流れてくる。中島みゆきの《ヘッドライトテールライト》だった。どこか郷愁を誘うそのメロディにしばらく身を任せ、外の風景に目をやる。曇った窓ガラスを手でこすり視界をつくり顔を近づけてみるが、雨でくすんでいてよく見えない。街灯のオレンジの灯りがぼんやりと流れていった。フロントガラスから前方をみるとワイパーが激しく動いている。雨がさらに激しく降っていて、地面を打つ音が車中からでも聞こえてくる。
 カーラジオから午後九時を知らせるCMが流れてくる。あと三時間で今年も終わるんですよと興奮して声を弾ませるディスクジョッキー。いつもなら毎年この時間は酔っ払った親父が昔話を語っている時間であろう。それを適当にあしらう母。年によっては親父の仕事仲間が来て、一緒に飲んで話をする。今年はそこに姉もいるからさらに騒がしくなるだろう。有希子さんを連れていったとしてもおそらく場が白けることはないだろう。むしろ歓迎されるはずだ。不安と期待が交互に波打つように胸中に寄せては返す。カーラジオからは今年のヒットナンバーが次から次へと流れてくる。そうやって歌を聴きながら、年を越すのだ。それが毎年の決まりだ。おそらく今後もそうやって過ごすことになるだろう。それがこの先ずっとだったらいい。隣にはあなたがいて、酒を呑んで、気分良くいつもより大きな声を出し、笑っているんだろう。そうした未来を持つ心構えは出来ている。一緒に暮らすことでまだあなたのまだ知らない部分も見えてくるだろう。それが楽しみだった。

 ⌘ 13

 そんな想像をしながら、いつの間にかうとうとうとうとしていた。お客さ〜ん着きましたよと運転手の声で手が覚める。腕時計をみると午後九時半だった。慌てて会計を済ませる。有希子さんの眠りは深く肩を揺すってもなかなか目覚めなかった。やっとのことで起こし、タクシーを降りる。雨はまだ降っていたし、寒かった。
 近くのコンビニまで歩き、一ダースの缶ビールとレモンサワーを六つ買った。有希子さんは他にも買おうというが、どのみち食べ物は沢山あるはずで、買わなくていいとおれは言ったが結局、何本入りかで入っている箱のアイスクリームとアーモンドチョコレートを買った。チョコレートは姉の好物だった。それも間違いなく母が買っているはずだ。あなたは両親よりも姉と会うのに緊張していると言って、姉のことを聞いてくるので、簡単に話をした。
 実家まで歩く道でおれは気になっていたことを尋ねた。どうして今日行く気になったのか。
「別にこれと言った理由はないよ。それに独りで年越しをするなんて寂しいじゃない」とあなたは素っ気なく答える。
「そっか。でも嬉しいよ。それに親父たちもきっと驚くよ」
「どうして?」
「女の人を家に連れてくのは初めてだから」
「そうなの? ずいぶん健全に生きてきたんだくね」
「健全か、そう健全なんだろうなァ」
 あなたは笑った。
 やっぱり初対面ですっぴんなのはどうしても気になると言うので、実家のマンションの入り口まで来たところであなたはコンビニで化粧品を買いに行くと独り来た道を戻っていった。
「待ってるから」
 と声をかけておれは一人マンションの入り口をくぐった。

 ⌘ 14

 実家のリビングにはテーブルを囲んで三人が座っていた。遅かったじゃないの、と姉が口を尖らせる。弟たちはいつものように友人と過ごしていると母は言う。手に持つビールを冷蔵庫の前に置くと、いっぱいあるから勝ってこなくてもいいのにと母は袋の中のものを手際よく整理しながら冷蔵庫の中に入れていく。いいよいいよ、いっぱいあってもどうせすぐになくなるからさと笑う親父は、その大きな声を母に注意される。いつもの光景だ。
 今年は他で用があるから親父の仕事仲間は来ていないのだと母は言った。親父の仕事仲間の職人たちが嫌いな姉は、来てたら即帰ってたわよと毒づく。姉は昔から下品だという理由から親父の仲間を嫌っていた。それは大人になってからも変わっていない。こんな時間まで一体何をしてたのよと姉は喧嘩腰で言ってくるが、いろいろあるんだよと冷静に答えると、ちょっとは社会人になって昔よりはマシになったのかねと母を見る。母は何も答えなかったが、代わりに父が、そりゃ違うさ〜と上機嫌で答える。姉は呆れた表情を浮かべた後、テーブルの上の菓子皿にあったチョコレートの包みを開けて頬張る。
 腰を下ろすとすぐに母がビールと取り皿、割り箸を出してくれ、「じゃあお姉ちゃんが注いであげましょうかね」と姉がプルタブを開けて缶ビールをグラスに注いでくれた。みんなで乾杯をする。
 母はおれの仕事のことを二言三言聞いた後、すぐに話は姉の結婚の話になった。どうやらさっきまでその話になっていたようだ。
「そろそろいい人見つけないと、本当に婚期を逃すよ」と、母は酒が呑めないのでオレンジジュースを片手に素面で言う。もう逃してるよと姉はぶっきらぼうに答え、ビールをくいっと飲む。
「昔は色んな男の子たちからとてもちやほやされたいたのにね。電話が鳴り止まなかったこともあったよね?」
「そんなことあった?」
 姉が惚けた返事をしたら、
「あったわよ。特に高校一年生のときがすごかった。どこかのアイドルかと思ったくらいよ、ホントに。やっぱり昔モテるとモテないって言うけど、それは本当なのかね」と母が嫌味を言った後、姉の眼が鋭く光った。しかし何も言い返せない姉は、一郎はどうなのよ、と話の矛先をこっちに向ける。
「姉ちゃんより早く結婚できないよ」と答えると、そんなことは気にしないでもいいと赤ら顔の親父が真顔で言う。
「そういうものは縁なんだよ。自分のところに巡ってきた縁は、順番が後か先かなんて関係ないって。自分にさ、まわってきたらそれを早く取らないと今度はもうまわってこないかもしれないんだから」と妙に説得力のある言葉を放つ。おれも姉も頷く。
 しかしながら母がすぐに話題を変えて、あんたは来年家の更新じゃなかったかとおれに訊いてくる。そうだよ。相変わらず物覚えが良いね。今回は更新しないと思うと答えると、勘の鋭い母は、良い人できたのかいと訊いてくる。一瞬の沈黙で有希子さんのことを言おうかと思ったがやめた。
「え? 何? 一朗付き合っている子いるの?」と姉が横から入ってくる。それにしつこい。おれが愛想笑いばかり浮かべて何も言わないものだから、親父が「出会うのも何かの縁だから、その縁は大事にしないと損することになるよ」とまた横から声を挟むが、姉は無視して、「ちゃんと母さんには報告しなさいよ」とおれを手に持つ箸で指す。「こら。箸で人を指すのはやめなさい」と母に本気で注意された姉はふてくされてテレビの方に身体の向きを変えた。先ほどの親父の言葉を受け取らずにスルーするあたり、母と姉はやはり親子だと思った。親父も親父で特に気にしている素振りなど見せず、テーブルの上の刺身に箸を伸ばし、醤油とマヨネーズを合わせたものに付けて頬張る。

 ⌘ 15

 話をしてると時間が経つのは早い。酒を呑んで気分が上がっているのもまた心地良かった。弟たちにも連絡をするが、今日は友人と年を越すから帰らないという。いいよいいよ、早く切りなさいと親父に急かされ、また今度なと言い電話を切った。
 ため息をつく。三〇分が経っても有希子さんは現れなかった。化粧に時間がかかっているのかとも思ったが、さすがに遅すぎる。時計の針は午後一〇時一〇分を過ぎていた。腰を上げて立ち上がり、家族には仕事の電話してくると嘘を付いて、実家を飛び出した。
 小降りだった雨はさっきよりも強くなっている。傘に当たる雨粒の音が痛々しい。それに風が冷たく凍えるように寒い。ジャンパーのジッパーを首元まで上げてフードを被る。それだけでも寒さを大分凌げる。有希子さんの携帯に連絡を入れるが、四度コール音が聞こえたとき、はっとして気づき電話を切った。携帯は今持っていないじゃんか、そう独りごちた。
 コンビニへと急ぐ。早歩きが、小走りになり、そのうち走り出していた。吐息は白く、手もかじかんできた。差す傘はほとんど意味がなく、顔は濡れている。走っている間、前に有希子さんが突然おれの前からいなくなったときのことが鮮明にも蘇った。そうだ。あのときも今日と同じように、二人でいたときにふと何も言わずにいなくなった。いやな予感がする。
 おれの実家に行くのが嫌になったのか。ならどうして来る気になった? いくら考えて真っ当な答えなど出ない。一時の気分的なものなのか、それともまたしばらく身を隠すように消えるのか。本当に気まぐれな人だ。その気まぐれが今度もそのまま自分の前から姿を消すことに繋がらないでほしいと強く願った。でも心の中では何かが抜け落ちたような気持ちにもなっていることは確かだ。
 コンビニに着くや否や、自動ドアをぶつらんばかりに急いでくぐり、店内を見回して探す。しかしあなたの姿はなかった。レジカウンターに行き、黒のダウンジャケットを着た女性が来なかったかどうかを店員に尋ねるが、大学生くらいのその女性の店員は、すみません、覚えていません、と首を振る。化粧品を見ていたと思うんだよ。背などの特徴を伝えてもわからないという。今日は来店した客はいつもより少なく、若い女性が一人で来店したら気づくと思うと店員は答えた。そこまではっきり言われたらもう何も言えず、肩を落としてそこを後にした。
 他に寄るような場所も近くにはない。途方に暮れたまま、自宅までの道を歩く。幹線道路を車が往来する。その度にタイヤが雨で濡れた路面を擦る音が煩わしく聞こえる。大晦日だからいつもより交通量が少ないなとぼんやりと思った後、またおれの前からあなたはいなくなるのかと天を仰ぐ。
 携帯が鳴った。親父からだった。出て行ってから長いから心配して電話をしたという。これから戻ると伝え電話を切った。
 帰る前に一応近くにあるもう一件のコンビニに行くが、中には誰もいなかった。レジに立っている中年の男性の店員がこちらをずっと睨むように見ていた。何も買わずに出ることを詫びるように頭を下げそこを後にした。

 ⌘ 16

 実家に戻って何事もなかったように話し、酒を呑み、年越しそばを食べた。ちょうどテレビが《ゆく年くる年》の時間になると、テレビに映る、寺の様子とその賑わいを黙って見て、その除夜の鐘の音を黙って聞いた。親父は赤ら顔で目をしぱしぱさせて眠そうだ。姉は携帯でメールをしているのか、その指先が忙しい。そのうちカウントダウンが始まり、新年になった瞬間、親父が音頭をとり、明けましておめでとうと言って四人でグラスを合わせて乾杯をした。母以外の三人でグラスに入ったビールを飲み干した。今年も家族みんな健康で過ごせるといいね〜、と姉は呂律の回らない声で言う。おれの空いたグラスに親父がビールを注ぐ。私はレモンサワーにするから注がなくていいよと姉のグラスにビールを入れようとしたおれを制した。
「なんかさっきからあんたさ、魂が抜けたみたいな顔してない?」
  と姉が言う。
「そう?」と頬を触り、親父の顔を見るが、親父は目をつむっていた。
「なんかあったんでしょ?」
 と姉は含み笑いをしておれを見る。
「何もないよ」
 動揺を悟られないようにグラスのビールに少し口をつける。
「何もないわけないでしょ?」
 母さん、と姉は母に声をかける。母は食器棚から白い封筒のようなものを取り出すと、おれに手渡した。
「これ、何?」
「さっき、あんたが外に行ったすぐ後に女の人が訪ねてきたのよ。財布でも忘れて戻ってきたのかな思ってお母さんが出たら、その人がこれをあんたに渡してくれって言ってね」
 急いで中身を取り出す。三つ折りにされた紙を広げると文章が書かれており、一番はじめに目に入ったのが、最後に書かれた有希子という文字だった。間違いなく有希子さんの字だった。
「ちょっと、何ですぐに電話くれなかったんだよ!」
「その人が、年を越すまではここを訪ねてきたことはどうしても言わないでほしいと。で、それも渡さないでほしいと強く言うものだからさ」
「それでもさ、普通は来たことくらい帰ってきた後言わないか?」
「大事な人なの?」
 姉が静かな口調で尋ねる。頷くしかなかった。
「優しい人じゃない。ここに来たことを伝えたら、あんたがその人を探しにここを出ることわかってたんでしょ?」
「駅までなら行けたでしょ?」
 姉は首を振る。
「母さんが中に入って待ったらどうかと声をかけたんだって。そしたら車待たせてるんで大丈夫ですと答えたらしいよ」
 姉は母に同意を求めるように尋ねると、母はゆっくり頷いた。ただバツが悪そうな顔をしていた。
「それに、家族で過ごしている年越しを邪魔したくなかったんでしょ? とても綺麗な人だってお母さん言ってたから、私が出れば良かったよ。あんたの彼女でしょ? あゝ顔見たかったなァ」
 と姉はにやにやしている。おれは無視してその手紙を読んだ。そこにはこう書いてあった。

 ⌘ 17

 ごめんなさい。やっぱりどうしても今日、君の家族に会う勇気が今のあたしにはない。マンションの入り口で行こうかどうかすごく迷ったけど、どうしてもその一歩が踏み出せなかった。そうやってちゅうちょしていること自体、答えはすでに出ていたのかもしれないね。ホントにごめん。今度はまた良かったら誘ってください。そして今日黙って帰るこんなあたしを許してください。
 さっき君が一緒に住もうと言ってくれたこと、ホントに嬉しかったよ。タクシーでこっちに向かっていたとき、ずうっと考えてた。ずっと、ずっと考えた。考えすぎてぐるぐる答えがまわってしまってまた振り出しみたいになってわけがわからなくなった。
 正直いうとね、嬉しかった反面、怖かったの。その怖さの原因は、君の家族じゃなくて、あたしにあるんだ。まだ自分の気持ちがきちんと整理できていないのかもしれない。
 君のことは好きだよ。君以外にあたしのことをわかってくれている人ッてどこにもいないと思う。君はあたしにとって、とっても大切な人。そんな大切な人と春に一緒に暮らすことを考えたらさ、ふっと力が抜けちゃってさ。またいつものあたしに戻すのに、それはそれでまたパワーがいることなんだね。何か自分がわからないよ。嬉しいんだけど怖いってさ。何かまとまっていきそうな感じが今のあたしの気持ちでは辛かったのかな。よくわからない答えでごめんね。今日は本当にごめんね。では、またね。

 ⌘ 18

 例年午前二時を過ぎる頃にはそのまま酔い潰れてこたつで寝るのが常だったが、今年は違った。いくら呑んでも酔わず逆に意識が冴えていくようだった。母は午前一時に寝室に行き床についた。親父は座ったまま壁に背を持たせて寝ていたし、最後まで呑むのに付き合ってくれた姉も午前三時には少し横になると言い、そのまますぐに寝てしまった。おれは独りちびちびとレモンサワーを飲み、テレビをぼんやりと眺め、時間を過ごした。懐メロの特集番組で懐かしいナンバーを酒の肴にして画面を見ていたら、《22才の別れ》が流れてきて、画面に映るその歌詞をじっくり見て、そのメロディーを聴いていたら、頬を泪が伝った。はっとしてすぐに拭う。
「大事なときにいない人ってのはダメだよ」
 突然声がして驚く。親父を見ると目をつぶって寝ていた。寝言なのか? 寝ているふりをしているのか。しばらく親父の顔を凝視するが目を閉じたまま寝息だけが聞こえてくる。
 ティッシュで鼻をかみ、席を立つ。ジャンパーを着て玄関扉を開けて外に出ると、通路の先にある非常扉まで歩き、扉のカギのつまみを回して扉を開けて外に出る。

 ⌘ 19

 午前四時、辺りはまだ暗い。雨は上がったようだ。結局雪は降らなかった。三階のこの位置から見える家々にはまだ結構な数の部屋の明かりが点いていた。煙草を取り出してライターで火をつける。大きく吸い込み、煙を吐く。濃くて白い煙だった。
 これから新しい年が始まるんだなとぼんやりと思った。これから有希子さんがひょっこり現れるかもしれない。そんな期待が微かにあったのか。でもそれはもう百パーセントないと確信できた。意識が冴えていたのはそんな期待があったからだ。もう確実に来ないとはっきりしたら、一気に酔いと眠気が襲ってきた。顎が外れるくらいの大きな欠伸が出る。自然と頭が垂れてきて、ため息をひとつ零す。部屋を出てくる前に、テレビから流れていたザ・フォーククルセダーズのナンバー《悲しくてやりきれない》が頭の中で奏でられる。
 いや、悲しくてとてもやりきれない、ほどではない。やりきれないのではないのなら、この感情にぴたりと合致する言葉は一体何だろう。酔いがまわった頭は正常に働かない。何かが抜け落ちたことにも気づいていないような、そんな感覚なのか。
 ねぇ、有希子さん。あなたはおれの運命の人ではないのかい?
 中空に向けて声を出して尋ねてみる。
 幹線道路の方からその問いに合わせたように、大きなクラクションが鳴った。
 大事なときにいない人はダメだよ。
 さっき聞いた親父の寝言を反芻し、おれは煙草の煙をゆっくりと吐き出す。まだ空は明けそうにない。
  (了)

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