第1話
文字数 2,575文字
金曜の夜には、決まって、妻と缶ビールを飲み、特に意味のない会話を繰り広げていた。私自身、お酒は苦手である。何歳になっても、あの苦みには慣れない。しかし、妻の話し相手をするために、二本くらいは飲んでいた。
私たちに子どもはいないので、夫婦仲を維持するためには、この夜の晩酌は、欠かせないのである。また、その甲斐もあり、四十を過ぎた今でも、営みの方は、週に三回程度である。本当は、毎日でも問題はないのだが、歳には勝てないものだ。
ある晩、妻は、真っ赤な頬を最大限に吊り上げながら、
「このプルタブをこう立てると、顔に見えるよね。」
私が同意の言葉を熱くなった口元から出そうとすると、
「んで、笑ってる。このプルタブ君は、私たちに対して、『いつまで、ラブラブなんだ』って言ってるよ。」
彼女はプルタブになりきって、私に言ってみせた。
私はそれがおかしくて、腹を抱えて笑った。こんなことでも笑えるくらい妻のことを愛しているのだ。
その晩はしなかった。特に理由はないが、ハグをしているうちに二人で眠りに入ってしまった。
私と妻は共働きである。私は、基本日曜日だけが休日である。しかし、妻の方は、土曜日だけが休日である。よく飲む妻は、二日酔いになることも多々あるので、(二回に一回は二日酔いである。)妻の休日に合わせて、私たちは金曜日に晩酌をしているのである。
そして、決まって土曜の朝は妻の寝顔を見守りながら、快も不快もない職場に向かうのである。
その日は、仕事が午前で終わることをすっかり忘れていて、妻に報告していなかった。私はせっかくだから、サプライズでケーキでも持って帰宅することに決めた。
妻はサプライズが好きである。事あるごとに、サプライズを待っている。自分の誕生日はもちろん、記念日などの全てでサプライズを待っている。そして、その期待に私は、毎年答え続けている。私にとってそれほど苦ではない。
そのため、夫がケーキを持って早めの帰宅となれば、それなりに喜んでくれるに違いない。
しかし、その日は、違った。
私が、物音を立てずに、玄関に侵入し、リビングに入ると、妻はいなかった。洗濯物でも畳んでいるのかと、二階に上がると、女の喘ぎ声が聞こえてきた。
私はその瞬間、しまった、と思った。妻は、自慰行為を一人のときにしていることを私は、知っている。以前、私が寝室での昼寝から目覚め、リビングに行くと、妻の声ではない喘ぎ声が、聞こえてきて、静かにドアを開け、覗いてみると、妻が動画を見ながら一人で、致している所を見てしまったのだ。いくらおしどり夫婦だからといって、夫に行為を見られるのは、気まずさのなんでもないので、私は、再び、寝室に戻ったことがあった。
今回は、いったん外で時間を潰すことに決め、階段を降りようとしたとき、妻の名前を呼ぶ声を聞いた。そのすぐ後に、私の知らない名前を呼ぶ妻の声を聞いた。
私は疑問を持ちつつ、こっそり部屋を覗いてみると、そこには、私の妻が、大きな背中を持った男に抱かれていた。
私は、持っていたケーキを落とした。妻たちが驚いた顔でこちらを見つめ、二つの世界が数秒停止した後、私は、自分よりも体格の良い男に殴りかかっていた。男は、私のひ弱なパンチを避けながら服を回収し、すぐに、家を出た。その間妻は無表情であった。
妻は、何も言わなかった。
「荷物を全部まとめて出てってくれ。今はそれしか言えない。」
愛していた妻にも手が出そうな怒りを押し殺し、そう言い放った。
妻は、やはり何も言わず、そして荷物を一つも残さず、家を出ていった。
妻が、出ていったあと、空腹を感じた。時計を見てみると、八百屋が閉まる時刻であった。
私は、コンビニへ向かった。
私の細い腕には、荷が重いほどの缶ビールを引っ提げ家に向かった。空腹を感じたが、腹に入れるものは、ビールと決めた。特に理由はないが、こういうときは、酔うほど飲むのが相場である。明日は休みである。好きなだけ酒が飲める(好きなだけ飲んでも二杯であるが)。その日の私は、アスリートでいうゾーンに入っていたかもしれない。何杯飲もうが、決して酔わなかった。もともと、飲まないだけで、酔わない体質なのかは、飲むことが特別好きなわけでもないので、今後確かめよとは、思わないのだが。
とにかく私は酔わなかった。
妻が、他の男となぜ抱き合ったのかは、私には、分からない。妻には尽くしてきたと思うし、愛情も表現してきた。家事をまかせっきりにしたことなどもないし、子どもがいないのも、妻が、望んでのことである。
だから私には、検討もつかない。そして、エロ動画から流れていると思っていた喘ぎ声が妻の声であるという事実に、私は悲痛した。私には決して見せない別の顔があったわけだ。おしどり夫婦という理由で、全てのことを打ち明ける必要はないにしても、本能が剝き出しになる性行為で、夫に見せていない顔があったことに、私はただただ落ち込んだ。だからひたすらに飲んだ。途中から夢かもしれないと思った。酒が苦手な私が、両手では、数えきれない量の酒を飲み、酔わないのだから。
そう思っていると突如スマホが鳴った。それなりの時刻に電話がくるのだから、相手は大体予想がついた。しかし、電話の主は、妻の父からであった。
「私たちの娘が君にひどいことをした。申し訳ない。」
電話に出ると、低い声が聞こえてきた。そこで、私は、夢から現実へと引き戻された。
電話の内容は特に覚えていない。厳格そうな男が泣きながら、何かを言っていたのを私は黙って聞いて、そして、適当に電話を切った。妻が電話してくることはなかった。
テーブルの上を見ると無数の缶ビールが並んでいた。特に理由はないが、(まぁ、あるのだが)両手でそれらを薙ぎ払った。
何時間か前に聞いた女の喘ぎ声よりも、耳障りな甲高い音を出しながら、それらは、床に散らばった。
テーブルに視線を戻すと、私という災害から免れた、一本の缶ビールがいた。それを持ち上げ、数滴だけ入っているのを確認し、口に流し込んだ。味は、決まって金曜日に飲んでいたビールと変わっていなかった。苦かった。
床に散らばった缶ビールに目をやると、プルタブがこちらを見上げて笑っていた。