第1話

文字数 2,156文字

一昨日は天気も良かったので、特にこれといった目的もなく散歩がてらに築地の場外市場をぶらついて来た。

大学4年生だった1978年の12/26から12/30までの4日間、毎日夕方の5時から翌朝の7時まで築地の魚河岸で警備のアルバイトをしたことがある。

クリスマスが終わると、正月用の魚介類が全国各地から築地に大量に運び込まれるため、通常の保管場所では入りきらず、市場の中に毎年臨時の保管場がいくつも設置されていた。
ところが、臨時保管場は屋根だけで、四方の壁が全くない「あずまや」のような建物のため、夜になると高価な品物(マグロやタラコ・カズノコの鉢等)を狙う専門の泥棒がウヨウヨいて、一本ウン百万円の本マグロの入った木箱を手鉤で引っかけてあっという間にトラックに乗せて逃げていくような事件が頻発していた。

私たちの役目は、盗難防止のために臨時の保管場に張り付いて、不寝番をするというもの。
このアルバイトは、築地市場のお偉いさんが大学のOBだったらしく、毎年私たちの大学の運動部だけに発注があった。
アルバイト代は4日合計で1名3万円。
計算すると時給535円程度で今の相場では安いと思われるが、当時の大学の学費は月3千円だったし、都内のアパートの家賃が1万円位だった。
比較的、好条件とされた家庭教師の報酬がやはり毎月2万円位だった(週2回、1回3時間程度)ことを考えると4日で3万円はむしろ高額アルバイトという感覚だった。

なにより私たちは、この年の4月にラフティングのサークルを立ちあげたばかりで、ゴムボートなどの用具を買う資金に困っていた。
だから、冗談半分で「みんな血の気が多い奴ばかりだから、血でも売るか!」と言っていた位だったので、学務課の人に頼み込んでアルバイトメンバーに入れてもらい、サークルのメンバー5名が参加。
そして貰えるアルバイト代の半分を用具の購入資金として拠出することにした。

アルバイト初日の12/26は16時半に集合し、割り当てられた保管場に赴く。
それからは翌朝の7時まで、吹きさらしの中、1時間ごとに伝票と現物の照合を行い、夜が明けるのを待った。
トイレに行くのも1人ずつの交代で、飲酒や食事はご法度。
ラジオを聴きながら、大きなドラム缶の焚火を囲んでの不寝番だった。

初日は初めての事ばかりなので、みなテンション高く話も弾むのだが、3日目くらいになると次第に話題も尽き、黙って焚火を眺めるか、やけにくっきり見えた星を仰いでいることが多くなった。

朝7時になると、伝票を提出して帰宅。
年末なので学生アパートの住民は帰省するかスキー旅行に出かけるかしており、残留組は私だけだった。
途中で買ったパンを無人のアパートで食べてから14時半ごろまで爆睡。

起きると短い冬の陽が傾きかけるなか、銭湯に赴き一番湯を浴びてから定食屋によって昼&夕食。それからまた、魚河岸に出勤。この間の人との会話量が著しく少ない。

私が住んでいた学生アパートの大家のおばさんには、「しばらく夕方出て行き、朝帰りをします。でも問題のあることは決してしていませんから。」と説明していたけれど信用してくれていたのかなぁ。

とにかく寒いので、築地には冬山登山の重装備のような格好で出かけていた。
メンバーの一人が初日に、ちょうどこの頃日本でも発売され始めたばかりのダウンジャケットを着込んで「ヘビーデューティーだろ!」と威張っていたけれど、すかさず焚火の火の粉が飛んで、薄いナイロンの表面生地に穴が開いて半泣きになっていた。
それを反面教師にして、私たちは厚手のセーターに分厚い綿のパーカーといった山賊のようなスタイルを貫いた。

アルバイトが終わった12/30日の朝、「今年は盗難被害が無かった」という事で特別ボーナスとして1人5千円上乗せされた。
ホクホクしながらジーンズのポケットから財布を出そうとしたとき、突然燻製のような匂いがした。
着ていたパーカーやセーターが連夜の焚火によって燻された匂いだった。
この時何故か「これが労働の香りなんだなぁ」とちょっとしみじみしてしまった。
働くという事は本当はこんなもんじゃないのだけど、当時は不遜にもそう感じていた。

実はセーターやパーカーの他にもマフラーも燻製状態にしてしまった。このマフラーは当時仲良くしていた女性にクリスマスプレゼントとしてもらったばかりの手編みのマフラーだった。

年が明けてから初めて彼女にあった時も、そのマフラーを巻いていたのだけど、彼女がすぐに匂いに気付いてしまい「どうしたの?」と怪訝そうに質問された。

わけを話して「4日間ずっと夕方から朝まで巻いていたんだ。」と事情を話したら、
「ワァ~そんなアルバイトがあるんだ。私もやってみたい!」と眼を輝かせていたけれど、結局彼女には2年後に振られてしまった。


今の世ではおそらく、こんなアルバイトは絶滅しているだろう。

築地の市場の中をかなりのスピードで走るターレ(荷物運搬車)を操縦しながら、「ボヤボヤしてると、轢くぞ!」と叫ぶ「いなせ」な配送係のおニイサンや、何の仕事をしているのかよくわからないけど、しょっちゅう話しかけてくる年配のオジサン。

そういう姿を見かけることがなくなった築地だけど、なんで豊洲に移転する必要があったのかなと今でも時々思う。
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